大樹のほとり

自作小説を掲載しているブログです。

The edge ep.1-4

4.

『とうとう茜選手が失禁です!いまどれほどの痛み、どれほどの恐怖が彼女を襲っていることでしょうか…』
茜は内股のまま、マットに染みを作っていた。
しかしそれでも茜は感謝していた。悠里は手加減をしていない。
自分が立っている限り、容赦なく打ち据えてくれる。
頭を殴られる。腹を打たれる。体中が傷口になったようにひどく痛む。
身体の芯が凍ったように寒くなる。危機感というものだろうか。

パワーが、スピードが、テクニックが及ばない。
マットに点々と血を流しながら、亀裂のような視界で茜は拳を振るう。
すでに空手の型を為していない、まるでボクシングのストレート。
3年間、寝る間も惜しんでの鍛錬で実力をつけた。
総合でのキャリアも積み、日本女子屈指の実力者と謳われた。
その自分が、悠里にはまるで手も足もでない。
回し蹴りのようにローを繰り出す。パンと音がする。膝で受けられた。
ローを返される、ぐしゃっと脚の筋を壊される。
ほとんどノーモーションなのに重く残る一撃。
斧は軽く打ち下ろすだけで、簡単に人の腱を破壊していくのだ。
なんと理不尽なのだろう。しかし、それが格闘だ。

視界が低くなる…もう悠里の光を孕んだ冷静な目が見えない。
揺れる胸が、細く括れた腰が鼻先に映る。
鉄の味のする口を開き、叫びながらそこに一撃を浴びせた。
届かない。悠里はバックステップで軽々と射程から消える。
見てから反応できるのか、動きが全て読めているのか、あるいは攻撃のための助走か。
何もかもがわからない。分かる事は唯一つ、自分では絶対に勝てないことだけ。
顔にワンツーが叩き込まれる。脳を揺らすことを目的とした、的確な揺さぶり。
脳の中がすかすかになる、首が痛い。どこを殴られても涎が止まらない。
それでも打ち返す。何発かはさすがに当たっている。ただ、効かないだけだ。
血のたまった鼻の奥に、それでもかすかに匂いがする。
花のように柔らかくいい匂い。悠里のシャンプーの匂いだ。
彼女が風呂が好きで、運動の前後にはいつもその匂いをさせていた。
自分が立つ理由はたったひとつ、美しい彼女と一分でも長く戦いたいから。

しかし…もう限界だった。次に倒された時が意識の最後だ。
茜は無理矢理に目を開き、真っ赤な視界の中、女帝の姿を目に映す。
カーペントレス。未だ負けを知らない常勝王者。
自分は、少しでも彼女の関心を引けただろうか――?
「終わりっッ!!!」
悠里のよく通る声が叫んだ。
“必殺”のローキックが放たれる。
どう重心をかけ、いつ脚が消えたのか、結局わからない。
人智を超えたバランス感覚。黒人並みの身体のしなやかさ。見る者を狂わせる美貌。
現代のくの一のような彼女なら、きっと負けることはないだろう。
茜は腹を貫く痛みに呑まれながら笑う。

華奢な身体は宙を舞い、地に伏して、解けた黒帯がそれを追った。
「ふーっ、ふー…っ……」
脚を振り切った姿勢のまま、悠里は小さな挑戦者を静かに見つめていた。

The edge ep.1-3

3.

「いっ、…ぎゃああああああああぁあああア!!!!!」
会場に甲高い悲鳴が響き渡る。
茜は倒れたまま、右足を抱えてのたうち回った。
熱い、熱い!胴着が燃えるように熱く皮膚に食い込む。
折れたか、いやかろうじて折れてはいない。
しかし…茜は今改めて、頭上に立つ娘の二つ名を思い起こしていた。

  ―――『カーペントレス(木こり娘)』―――

細くしなやかな彼女の脚は、野球用の圧縮バットを叩き折り、
細い木ならばなぎ倒し、そして人間の脚ごとき骨ごとへし折る。
一撃必倒、まさしくそれだ。
「うぐあ、あああ…おおぁ…っ!!」
茜の脳裏に、脛へ戦斧を叩き込まれるイメージが浮かぶ。
なるほど――木こり娘だ。

『挑戦者、ダメージが大きすぎるか?倒れたまま立ち上がりません!
カウントはなし、彼女が失神するか負けを認めるまで、苦しみは続きます!!』
実況の声がわんわんと頭に響く。喚声がドームの中を揺らしている。
若い少女が殴りあい、落としあうのを嬉々として見守る狂乱。

悠里はロープへ背を預け、じっと自分を見下ろしていた。
(勝てない。敵いっこないや…)
茜は思う。はめたかせる黒いボレロが、まるで漆黒の翼に見えた。
人間が勝てる相手に思えない。
あれと対峙したこと、倒されたことが誇らしくなるほどに、強い。
ごめんなさい。彼女はそう言っていた。どこか寂しげに。
(同情してるんですか…?私が弱いから、力がない、から…)
悠里の腰に細い紐が揺れていた。茶色い帯。

――あなたは強くなるわ。またリングで会いましょうか。
あの日、最後の言葉と共に交わした、茶帯。

「おおっと!!これは挑戦者、ふらつきながらも立ち上がりましたっ!」
瘧にかかったように震える脚を叱咤し、茜はロープに縋って立ち上がる。
悠里が少し目を開いた。
立ち上がるが、重心を安定させるのに苦心する。よろけ、よろける。
完全に右足が死んだらしい。
「はっ…はぁ…っ…はーっ…」
茜は持久走を終えたように肩で息をしていた。
ロー一発で体力の殆どをもっていかれたらしい。
ぎしっ。リングが軋み、悠里がしゃんと背を伸ばして中央に歩み出る。
歩く様は絵になった。本当に、格闘家とは思えない美しさ。

「強くなったわね、茜」
悠里はグローブを握りしめ、型を作って言った。
茜はそれがとても嬉しかった。
彼女が構えて、自分を褒めてくれる。その為にここまで来たのだ。
「…せぇあああ!!」
茜はロープのしなりを利用して悠里に迫った。
左足で踏み込み、体重を乗せて右の拳をひねり出す。
悠里は頬を掠めさせてそれをかわし、返礼に茜の顔へ掌底を叩き込む。
「ぶふっ」
茜の頬に赤い筋が散った。掌が抜けるとリングに紅い華が咲く。
『華が潰されたー!可憐な少女の顔面が、真っ赤な血に彩られています!』
会場のボルテージが一気に上がった。
頭がくらくらするのが喚声で余計にひどくなる。
「ふっ!」
間髪入れず、悠里のフックが棒立ちの茜の腹を抉る。
「ぐぅ…お…!!」
茜の細い身体がくの字に曲がる。
肋骨が開くような痛み、胸のしくしくする感覚。吐くな、吐くな。
「はーっ、はーーっ」
茜は大きく口を開けたまま前屈みで固まった。
必死に様々な苦しみに耐え、闇雲に拳を出し、またカウンターを取られる。

The edge ep.1-2

2.

「お願いします…押忍っ!」
胴着に身を包んだ茜は、眼前の娘へ向けて叫んだ。
まだまだ甲高くあどけなさの残る喝。しかしその実力は確かだ。
神崎茜、20歳。
幼少期より空手に打ち込み、数知れぬ挫折を経て類稀な精神力と耐久性を身につける。
空手を長く続ける彼女が尊敬する人物は多い。父親、師範、試合相手…。
しかし、彼女が「憧れる」のは1人だけ。
(先輩……)
茜は瞳を開いて悠里を見つめる。

横髪を頬に遊ばせ、結った後ろ髪を揺らし、若き王者は泰然と立つ。
166cm、55kgのモデル体型。
豊かな胸に押し上げられた薄手のブラウス、黒い羽のように肩にはためくニットボレロ、
脚のラインを殊更に強調する膝下までのスパッツ。
黒を基調に整えられたその姿は、彼女の見事なスタイルと相まって
浮世離れした妖艶さを醸し出している。
彼女が立つリングは、まるでファッションショーの舞台のように思えてくる。
選手としても、女としても、あまりに高い次元で完成した遠い存在。

しかし…彼女が腰に巻いているのは、“茶帯“だった。
長らく使い込んですっかり黒ずんだ茶帯。茜はそれを知っていた。
(あれ……私が先輩に渡した…!?)
卒業式の日、追いすがって泣く茜と交わされた茶と黒の帯。
高校で空手を始め、天賦の才でたちまち全国を制した悠里との細い絆。
総合格闘技界の王者となった今も、まだ付けてくれていたのか。
茜の視界が滲む。
「ほら、試合前に泣く選手がどこにいるの?」
悠里が茜の頬を撫でて笑う。

到底勝てるとは思えない。けれども――全力で。
「全力でお願いします、悠里先輩っっ!!」
茜は腰の黒帯を引き絞り、高らかに怒号を飛ばした。
悠里は淋しそうに頷き、赤コーナーによりかかり、

表情を消す。


(脚だ、脚を受けちゃいけない!)
少女は自分に言い聞かせ、常に距離を保って悠里と対していた。
悠里と対峙した選手すべてが、まずローキックで倒されている。
あるいはそれが決定打となっていることも少なくない。
半身に構えてジャブのような左を刺してくる悠里。
それを手刀で捌きながら、茜は彼女の腰に目を凝らす。
防御一辺倒ではあるが、まだ決定打は貰っていない。
「やるじゃない」
悠里が半歩下がりながら賞賛する。息すら上がっていない。
「はっ、ハァっ…」
神経を削る作業で、茜は肩で息をしているのに。

『さぁ茜選手、攻撃のチャンスがありません!このままチャンピオンのペースか!?』
実況がそう叫んだ、開始1分42秒。
悠里は半身の姿勢から、脚を左右に揃え直した。
ローだ! ――茜の総身にアラームが鳴る。
悠里が内股に膝を下げるのに合わせ、大きく後退した。
しかし次の瞬間、少女は目を剥く。
バックステップをしたにも関わらず、悠里が目前に迫っていたからだ。
「ありえ…ない……」
直前まで悠里の左足は大きく曲がっていた。
後ろ回りに力を込めた、右を蹴りだすための軸になっていた。
それなのに、彼女はその左足で踏み込んできたのだ。
(重心が読めない…!?)
ばちんっ!!いい音がする。
ほぼ反射で防いだ顔への一撃は、踏み込みの力を利用した精確な正拳。
防いでもその拳圧で身が竦む。

開始1分51秒。
茜は反撃のために右足を踏み込もうとした、しかし、脚にはすでに力が入らなかった。
視界にまだ蹴っていないはずの右足が投げ出される。
見ると、悠里の左足が消えている。ローを放ったらしい。
脚払いに思えるほどの痛烈なローキックで、茜の身体は宙に浮いた。
視界が横に倒れ、リングの白い床が視界に広がり、頬と肩ががつんとぶつかる。
痛い。
しかし、一番深刻なはずの右足に痛みが無い。痺れている。
ごめんね。遠くで悠里の呟きが聞こえる。

そして右足が、疼いた。
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