1.
「いたた……」
神崎茜は控え室のベンチに腰掛け、赤らんだ手首を押さえた。
先ほどの試合終盤、決着を急いて少々杜撰な受けをしてしまったようだ。
悠里が消息を絶って三ヶ月。アリーナでは今、暫定王座決定戦が行われている。
トーナメントには猛者が殺到した。
化け物じみた女王が不在で、全国制覇の柔道家・高峰青葉も欠場。
その好機に虎視眈々と王座を狙う女が押し寄せたのだ。
激戦に次ぐ激戦が繰り広げられた。
リングは朱に染まり、担架が忙しなく行き交う、まさしく戦場だ。
その厳しいトーナメントもようやく終わりを迎える。
決勝へ駒を進めるのは、勝ち上がったのが奇跡と言われる茜と、もう一人。
帰国したばかりの沙里奈というカリスマダンサーだ。
クールな容姿からファッションモデルの仕事も多いが、その見た目に反してダンスを応用したカポエイラも得意とする。
正対して打ち合うことが基本の格闘技において、その三次元的な戦いには定評があり、
足技という類似点もあって悠里との対決が心待ちにされている選手だった。
その脅威は控え室に流れる試合映像からも伝わってくる。
左右の蹴りが休みなく相手のガードを叩き、たまらず覗いた顎へ的確なハイキックが叩き込まれる。
速い。
茜は固唾を呑んだ。凄まじい回転の速さだ。
鞭のような蹴りには、空手ほどの重さはないが、鋭さがある。
そもそも蹴りをフックのように打ち込まれては、到底腕で防ぎきれる筈がない。
「……防ぎきれない、か。」
バンテージを巻き直しながら茜は笑った。
5年前。まだ高校生だった頃も、同じような不安に駆られていたのを思い出して。
※
その日、茜は日課のロードワークを放棄して繁華街を彷徨っていた。
何か目的があるわけではない。空手の試合に負けての現実逃避だ。
負けたのも惨めだが、それよりも深刻なのは、敗戦に「悔しさ」を感じられないことだった。
悔やむ事さえできない試合内容。
――なんだあのちっこいの、守るばっかじゃねぇか。
――あーあ、神崎センパイったら、まーた亀だよ?
茜の試合ではよくそうした野次が飛んだ。
茜は道場での型稽古なら様になるものの、試合となるとからきしだった。
相手に過剰な恐れを抱いて硬直してしまう。相手の体格に脅え、突き・蹴りに身が竦む。
身体は染み付いた受けを行うが、そのうち倒される。いつもそれだ。
幼少時から毎日のように空手漬けで、その有様。
自分に戦いは向かない。
茜はそう確信し、街を彷徨いながら空手から身を引く決心を固めていた。
そんな茜が、項垂れて路地を通り過ぎた時だ。
不意に微かな音が耳をくすぐった。 斧を振るう時の風切り音に似た、何か。
何だろうと路地を覗き込んだ瞬間、茜の眼前に人影が降り立つ。
その人物を目にした瞬間、茜の背筋に本能的な寒気が這い登った。
中華系の切れ長の瞳は、老人のように穏やかだが、それが殺し屋の目だと直感で解る。
人を殺めても眉一つ動かさない人種だと。
殺し屋の指が弾かれるのを目にしても、茜は身動ぎさえ叶わなかった。
ただ死を覚悟する。
その彼女の前を突如、手刀が凪いだ。チィン、とアスファルトに金属音が響く。
そこに目を落とし、それが闇に紛れた黒針だと気付いて膝が笑い出す。
そして同時に、茜は手刀の主が自分と同じ制服を着た少女だという事にも気がついた。
中華系の女性がその少女に腰を落としての崩拳を見舞う。
少女はそれを捌き、返礼に前蹴りを浴びせる。
女性は吹き飛んでゴミの山へと埋もれた。
オーソドックスな前蹴り、しかし威力が異常だ。
今の吹き飛びようは、まるで力士のぶちかましを受けたようではないか。
どれほどの威力があれば、踏ん張った人間があの速度で飛ぶというのか。
手刀の少女が振り返る。涼やかに整った顔立ちが覗いた。
「ごめんね、驚かせちゃって。危ないから早く逃げ……」
そう言いかけ、彼女は茜を見て目を丸くした。
「……?」
茜は不思議に思う。
同じ学校だという事への反応かもしれないが、別段驚くほどではないだろうに。
ただ、事情はどうあれ少女は態度を変えた。
「あなたなら、大丈夫そうね。少し離れてて」
そう言い残し、芥の山から這い出た中華系の女性と再び対峙する。
革靴が鋭い音を立てた。
その戦いは全てにおいて茜の理解を超えていた。
打撃が当たったときの鼓膜の底に響く音、明らかに人の限界を超えた反応。
助走なしの垂直飛びで茜の胸辺りまで跳び上がり、配管と壁を蹴って頭を狙うなど、映画の中でしか見たことがない。
「いい加減にしろ、小娘!奴を生かして貴様に何の得がある!!」
「さぁね。でも、殺そうとするとこ見ちゃったからさ。目の前で人殺しなんて、させやしないわ」
二人は論を交わしながら、どれ一つとっても致死的な攻撃を次々と刺し合う。
――どんな風に感じるんだろう。
茜は目まぐるしい動きを眺めつつ考えた。
自分が思う限界を遥かに超えた戦い。
あそこまで鍛えたら、あの攻撃をかわせたなら、どう感じるのだろう。
知ってみたい。
もっと、もっと先があるんだ。これほどに遠い高みが。
数時間前に敗北を喫した相手など、これに比べればなんと人間じみていたことだろう。
やがて少女の脚が一閃し、路地裏の激戦は終結する。
茜には終始絵空事のような戦いだった。だがそれでも、価値観は根底から覆された。
茜が負けず嫌いになったのはその日からだ。
以後も試合では相変わらず負けた。県内にさえ茜を圧倒する猛者は数多く居たからだ。
それでも茜は、「悔しがる」ようになっていた。負けた時に心の底から泣いた。
それは、彼女が総力を尽くした証拠だった。
※
遠い、遠い存在。
悠里に対するその想いは、今でも変わる事はない。
むしろ彼女をよく知るほど、自らの立つ場所との違いを思い知らされる。
10の練習をして10しか得られない茜と、20、30を得る悠里。
今から戦う沙里奈も、その20、30を得るタイプだろう。
正直、勝てる気はしない。
観客にも既に沙里奈の勝利を祝うムードが漂っている。
茜など、沙里奈が対悠里戦への箔をつける為のかませ犬だ、
かつて悠里に手も足もでなかった茜が沙里奈に敵う筈がない、と。
以前の茜ならそれらを気に病み、吐くほどに緊張していただろう。
しかし今の茜は落ち着いていた。
床に正座し、ひたすらに集中力を高める。
中学の団体戦で大将を務め、しかし肝心な一戦で期待に応えられなかった事。
高校になっても何が変わるわけでもなく、試合の度に歯痒い思いをした事。
待望のリングで、悠里にろくに触れられもせず敗れた事。
自分が他人に比べて華のない事。
それらへの忸怩たる思いもすべて受け止めて気を研ぎ澄ます。
そうすると開き直りにも近い安らぎが心の内から滲み出た。
他人と比べてどうかは考えない。
勝てるかどうかも問題にしない。
ただ、全力を出す。己に恥じない戦いをする。
「神崎選手、決勝の準備……を…………」
部屋の外から呼びかけた係員が、驚いたように目を丸くした。
正座する茜の気迫が、一瞬かつての悠里に重なって見えたからだ。
「……わかりました」
茜は瞑想を解いて立ち上がる。
そして部屋を後にする間際、控え室を今一度振り返った。
薄紫のハンドタオル、水素水のボトル、鉤状に黒ずんだサンドバック。
控え室には悠里の名残が残っている。
「行ってきます、悠里先輩!」
茜は虚空へ向けて突きを放ち、空気に自らの色を付け加えた。
2.
きしっ、きしっ。
茜の重みでリングへ通じる金網が軋む。
足の裏に伝わる網の冷たさで、足裏が熱くなっているのがわかる。
胸はもっと熱い。
会場の熱気にあてられ、焼きたてのパンのように膨らんでいる。
茜は硬いロープを力いっぱい開いてリングに入った。
汗の出るほどのライトが身を焦がす。
沙里奈はすでにリングに入っていた。
コーナーを私室化するような態度は、すでに新人のそれではない。
クール。印象はその一言に尽きる。
ショートに整えられた髪、アイシャドウで彩られた吊り目、シャツから覗く締まった腹は、
女性ならば間違いなく嫉妬するほどに美しい。
雰囲気から、物事を卒なくこなすタイプであることが伝わってくる。
戦いにおいても最小限の努力で鰻登りに実力をつけていくのだろう。
不器用な茜とは好対照だ。
彼女は茜へ視線をやり、溜め息を吐いてヘッドホンを耳に当てた。
見られることが当然と思うのか、観衆の黄色い声さえ気にする様子がない。
茜はそのタイプが苦手だった。なぜ試合前に奔放に振舞えるのかが理解できない。
何をやっても敵わない気がする。
(それでも……負けられないんだ)
茜は黒帯を締めて気合を入れ直す。
茜はこの5年、自分を磨き続けてきた。
空手の腕だけではない。容姿も、思考も、自分なりのスタイルを模索した。
全てはこの時のため。
いつか必ず姿を消すであろう悠里の代わりに、彼女に誇れるような王者になるためだ。
かくして、決勝のゴングが打ち鳴らされた。
茜は丹田を中心に円を描くように構え、じりじりと沙里奈との距離を詰める。
沙里奈は腰を深く落としたまま茜を迎えた。
その踊るような奇怪な足捌きは、ボクシングの小刻みなステップとは違う。
浮遊する海洋生物を思わせる捉えづらさだ。
茜が攻めあぐねていると、沙里奈が突如蹴りを放った。
豪快に腰を切っての旋風脚に似た蹴り。
ただし旋風脚と違い、両脚が立て続けに襲い掛かってくる。
「ぐっ!!」
咄嗟に初段を肩で受けた茜だが、二段目が頭に直撃してしまう。
身体が揺らいだ。
時間にしてほんの数瞬、しかしその間に沙里奈は十分な追撃をかける。
先の豪快な蹴りで崩れた体勢のまま、マットに手を突いて脚を振り回したのだ。
倒立しての回し蹴り。
(マットに手を……?あの目線は……お腹っ!)
茜は沙里奈の視線を読んで腹部を庇う。
何とか直撃は免れた。しかしスピードの乗った蹴りはガード越しでもつらい。
「ぐぶっ!!」
茜は身体をくの字に折って呻いた。
沙里奈は蹴り上げた脚がマットに落ちる動きを利用して直立に戻り、
さらに上下に分けての蹴りを振り回す。
茜はそれを捌き切れずにいた。速いなどというものではない。
『凄まじいラッシュだ!蹴りに次ぐ蹴り、これはまるでキックの雨です!!』
実況が叫ぶ。
試合が始まってまだ2分弱、だが茜は既に追い詰められていた。
映像で見た以上の厄介さだ。
沙里奈はブレイクダンスのように、腰を捻り、あるいは逆立ちして腕で回り、
予想もしない動きから無数の蹴りを繰り出してくる。
技の一つとしての蹴りなら対処できる、だが一連の流れ全てが蹴りなど未経験だ。
「…………ッ!!」
茜の脳裏に数え切れない蹴りの軌道が浮かんだ。
それは自分が喰らいうる、あらゆる攻撃。
上か、下か、横か?
どこからどの角度で蹴りがくる?その見当がつかない。
通常の立ち技選手と違い、キックを繰り出す体勢が滅茶苦茶なのだ。
これがあの悠里をもスタンドで翻弄するといわれる三次元的な攻撃。
所詮は空手やボクシングも、互いが直立している事を前提にした勝負に過ぎないのだと思い知らされる。
「げふ、うッ!!」
茜が腹に一撃を喰らって呻いた。
沙里奈はそれを見逃さず、ガードの甘くなった脇腹へ更に蹴りを放り込む。
その目は逆立ちしていても常に茜を観察していた。
ありありと余裕を窺わせながら。
(どうすれば……!)
茜は肘と膝で蹴りを防ぎつつ悩む。
リーチ差がありすぎて成す術もない、勝ち目があるとは思えない。
茜が下を向いたとき、
――――よく頑張ったね
頭に澄んだ声が閃いた。
あの時もこのリングだった。
悠里のラッシュで体中をボロ切れのようにされ、それでも前へ出た。
怖かった。何度も死を意識した。
それでもその結果、彼女に一筋の手傷を負わすことが出来たのだ。
あの絶対王者に。
(……そうだ……やれるだけは、やらなきゃ!)
茜が左半身に構え、ガードを下げる。
その瞬間、衝撃と共に彼女の視界が黒に染まった。顔への被弾だ。
沙里奈の足の甲は頭骨の固い部分をうまく避け、頬と鼻へ絡みつくように潰してくる。
鼻血が盛大に溢れ出す。
「バッカだねぇ……」
沙里奈の嘲る声が聴こえた。
『き、決まったぁーー!顔面に食い込むカリスマダンサーの痛烈な蹴りぃッッ!!!』
「いいぞー、サリナ!悠里に代わる女王はやっぱお前だよ!!」
実況が叫び、観衆の大歓声が沸き起こる。場の誰もが沙里奈の勝利を確信していた。
ただ一人、茜を除いて。
彼女にはその顔面への蹴りが予測できていた。
あの局面でガードを下げれば、沙里奈の体勢からして顔を狙うだろうと。
顔に来ることさえ解っていれば、歯を食いしばって耐えられる。
鼻をへし折られつつ、茜は腰を落とした。
崩れ落ちたわけではない。それは下段蹴りの初期動作だ。
「うあ……ぁああっ!!」
足元を踏み定めた後、茜の右足が弧を描く。至る場所は、沙里奈の軸足、その踝。
ズバァンッ、という音が響き渡った。
瞬間、客の歓声が止む。実況が目を見張る。
その視線の先では、軸足を蹴り払われた沙里奈が風車のように回転していた。
「ぐっ!!」
小さな悲鳴が漏れる。肩からマットに打ち付けられた沙里奈のものだ。
それを最後に場が静まり返る。
ふううぅっ……、と茜の吐き出した息が聴こえるほどに。
一撃必殺。
空手道が追い求め続ける理想だ。絵空事、と言ってもいい。
実際そんな事は、悠里のような一握りの才人でなければ実現し得ない。
しかしそれでも空手家はその夢を見て、休まず拳を鍛え続ける。
茜はそんな馬鹿げた道が好きだった。
霞むほどの高みを見上げながら、雨の日も風の日も鍛え続けてきた。
たとえ回りにどう映ろうが、遅い歩みだろうが、その修練の日々は真実だ。
それに裏打ちされた下段蹴り。これがヤワであろう筈がない。
「すっ……すげぇ…………!」
客席から声が漏れた。
「すげぇ、何だ今の蹴り!?悠里みてぇだ!!」
「お、おうっ。見たかよ、180度回ったぞ!」
茜の下段蹴りに場が沸き上がる。
『こ、これは驚きました!神崎選手、顔面へ蹴りを受けながら、
沙里奈選手の軸足を狙った豪快な下段蹴りっ!!
見た目の派手さもさる事ながら、空手に身を捧げた女の蹴りは、威力も凄まじい!!』
実況が興奮気味に叫んだ。
「う……」
その声に反応するように沙里奈が呻く。
彼女はリングに這い蹲り、蹴られた左足を信じられないといった表情で眺めていた。
茜は残心を取ったまま沙里奈が立ち上がるのを待っている。
余裕を見せている訳ではない。
あくまで立ったまま勝負するという、空手家としての誇りだ。
その茜を見上げ、沙里奈が眩しそうに目を細めた。
見下ろす茜には後光が差すようだった。
照明の直接的な光ではない、秘めたる心の輝きが。
沙里奈はロープを頼りに立ち上がり、耳に嵌めたヘッドホンを場外へ投げ捨てる。
そして続行可能である事を示すようにトントンと跳んでみせた。
眼が最初と違っている。
構えを取る茜に、沙里奈は意外にも頭を下げた。
「ごめんなさい」
これもまた意外な言葉に、茜は訝しげな顔になる。
「あんたを見くびってた。子供っぽくて、お父さんの空手着を着てみたお嬢様みたい。
どうせアイドル空手家とかそんなのだろうって、さっきまで思ってた。……ごめんなさい」
沙里奈はそう告げると、先ほどまでよりも低い構えで身を揺らし始める。
それが彼女の本気だと眼でわかる。
「いいですよ。よく言われるんです、格闘家らしくない、って」
茜は照れくさそうに笑った。
確かに格闘家らしくない、いい匂いのしそうな娘だ。
童顔で、髪には軽くウェーブがかかり、瞳はまるきり人を疑うことを知らなさそうな澄みようで、
格闘家が10人いれば10人ともが多少なりとも侮る、そんな容姿。
それでもその強さは本物だ。
「胸、貸してもらうよ」
沙里奈がにぃと笑う。最初のクールな印象とは打って変わって、情熱的な顔だ。
茜も満面の笑みで返した。
「光栄です。……私も、全力で!」
二人はまるで十年来の親友のようになっていた。互いを認め合ったからだ。
そして、格闘少女の交友は談笑ではない。
沙里奈は腰を捻った回転で、茜は摺り足で進んで互いの領域を侵す。
『さぁ仕切り直しだ!本気になった2人、優れているのは果たしてどちらか!?』
実況の叫びをゴングに、少女達の脚がマットを蹴った。
3.
沙里奈の身体捌きはいっそう複雑に、そして軽やかに変わった。
頭の中のリズムが入れ替えられたのだとわかる。
「りゃああああっ!!!」
繰り出される蹴りもいよいよ鋭さを増していた。
空中を無数の鎌が乱れ飛ぶようだ。
速さも相当だが、そうも鋭いとなると、当たり所が悪ければ一発で意識を断ち切られてしまう。
だが茜はあえてそこに突っ込んだ。
リーチでも手数でも勝負にならない以上、懐に潜るしか勝機はない。
鬱蒼と茂った雑木林をバイクで突き抜けるような危険さだ。
茜は肩に胸にと被弾し、弾き飛ばされる。それでも何度でも猛進する。
その様子はまさに『必死』。
茜が常に揶揄されてきたファイトスタイルだ。
女闘を見に来る客の多くはそれを見苦しい、華がないと蔑む。
しかし死を賭して真っ直ぐに突き進むその姿は、相手にとってどれほどの脅威である事か。
「ちぃっ!!」
沙里奈が顔を顰める。
茜の勢いに押されていつの間にかコーナーを背負っていた。
だが彼女は軽やかなバク宙で難なく茜の脇をすり抜ける。
そして時に跳ねながら茜に蹴りを浴びせ、時に倒立しながら蹴り上げた。
立ち技選手が必ず当惑する三次元的な闘い方だ。
しかし、茜はいつしかそれを防ぐのではなく、自らの拳足をもって迎撃するようになっていた。
「せぃやっ!!」
茜の放った前蹴りが沙里奈のキックを弾き飛ばす。
「う……!」
沙里奈の額に汗が流れる。
それは茜の臆病さがなせる業だ。
自らの受けうる攻撃を、相手の視線、呼吸、体勢などから無意識に感じ取る。
まだ未熟だった学生の頃は、その情報を前にただ呆然と立ち尽くすだけだった。
しかしその臆病さに勇気が加わった時、茜の真価は発揮される。
何を恐れるべきか。最も守るべき場所は何か。それを理解して行動できる。
悠里と戦った時もそうだった。
覆しがたい圧倒的な実力差がありながら、それでも瞬殺された訳ではない。
粘り、粘り、一撃を返すまでになってようやく限界を迎えたのだ。
沙里奈は汗を浮かべながら、しかし手を出し続けた。
硬直状態になっては茜のペースに引き込まれる。
だが迷い半分で放った蹴りは、茜の洗練された回し受けによって絡め取られる。
茜はその蹴り足を腋に抱えたまま、沙里奈をコーナーへと叩きつけた。
「……掴まえた!」
沙里奈の鼻先でそう囁き、痛烈な膝蹴りを浴びせる。
「うっ、はぅ……ンッ!!」
沙里奈が目を剥いて呻いた。ハスキーな良い声だ。
「把ああぁっ!!!」
茜は責めの手を緩めない。早く勝負を決する必要があった。
鼻が潰された事で酸素がうまく取り込めず、スタミナが尽きかけている。
体ごと回る豪快な蹴りを捌いてきた腕も折れそうに痛い。
茜は腕を引き絞った。
狙いはシャツから覗く沙里奈の腹部だ。
ダンサーだけあってよく鍛えられ、8つに隆起したそこへ、渾身の掌底を打ち込む。
「うぐおおおォッ!!」
今度はうめきなどではない、明らかな叫び声だった。
「……サ……サリ、ナ…………?」
観客の声が驚き一色に統一されていく。
沙里奈のクールな容姿とは似つかわしくない声が衝撃的だったのだろう。
「これで……どうですかッ!」
茜は打ち込んだ掌の上から、さらに重ねて掌底を沈める。
「うぇ……っ!うぐ、あ……ッッ…………!!」
沙里奈の口から唾の塊が飛んだ。彼女の跳ねでリングポストが軋みを上げる。
ただ掌底を2発重ねただけにしては大きすぎるダメージだ。
茜は、この「掌底重ね当て」が奥義と呼んでも良いほどの威力を持つことを確信していた。
それは発勁の一つ、浸透勁に近い。
筋肉を掌で押さえて弾力を封じ、その上から力を加えて効率よくダメージを与える。
掌底の重ね当てはまさしくそれで、強烈な心臓マッサージの如くに相手の奥底を叩く。
空手にはない技だが、その掌底を突き込む動作は紛れもなく空手で培ったもの。
既存の技術を守るばかりが空手家ではない。
これは鍛錬に鍛錬を重ねた末に会得した、茜なりの極意だ。
「ぐ……く、うあ、あ゛……っ!!」
沙里奈が口を押さえる。
そのすらりとした脚が震えはじめていた。もう立っているのも限界なのだろう。
『形勢逆転、今度は沙里奈選手が悶絶ーー!!』
実況が叫ぶ。
その直後、沙里奈の頬が膨らみ、ぐびゅ、と音がして押さえた手から吐瀉物が零れた。
「はぅッ………う、う…………んんろお゛おおぉええええッッ!!!」
生々しく嘔吐する。
観客から悲鳴が上がった。いや、正確には悲鳴ではない。
女同士の殴り合いを見に来るような酔狂な客だ、それは悲鳴に模した歓喜だろう。
『沙里奈選手、やはり堪え切れない!!
ストリート時代を含め、彼女はここまで殴られた事があったのでしょうか?
しかし、ここではそれがあります!芸術的な身体を躊躇なく破壊できる女がいます!!』
実況の煽りに釣られ、大歓声が沸き起こる。
「う、うう……う」
ようやくに嘔吐を終えた後、沙里奈は腹を抱えてよろめいた。
しかし、ただ逃げているわけではない。 その眼はなおも最後の光を残している。
「はぁっ!!!」
茜は危機感を覚えながらも、回復の間を与えまいと前蹴りを放った。
だが同じく放たれた沙里奈のフロントキックにリーチで負けて弾き飛ばされる。
沙里奈はその反動を利用して後ろのリングポストを蹴った。
そしてそのまま茜へと飛び掛かる。
「きゃっ!」
茜は沙里奈の体重を支えきれずに倒れこんだ。
その首に沙里奈の足が巻きつく。
「ぐうッ……う、が……はっ………!」
茜が目を見開いた。沙里奈は自らの足首を掴み、引き絞って絞めを深める。
「ははん、かかったね!ストリートでの常勝技だよ、これで終わりっ!!」
沙里奈が高らかに笑った。
互いに疲労もダメージも限界だ、ここでこの技を決められたのは僥倖だった。
沙里奈の脚は柔らかくも暖かく、母親の乳房のようだ。
しかしその首絞めは強く、かなり危険な角度で入っていた。
『スリーパーが入った!沙里奈選手の長い脚が茜選手の頚動脈を締め上げる!
傍目には喜ばしい光景ながら、この局面に来て一転、茜選手大ピンチです!!』
沙里奈の脚が蠢くたび、ブリッジのような格好の茜の腰が浮いて、沈む。
空手着を着ていてもなお細い脚の震えが解った。
「……あ………ひゅっ………」
真っ赤な顔で涎を垂らす、その顔は先ほど嘔吐した沙里奈とよく似ている。
しかし、違うところがあった。
『おおっと、これは茜選手…!?』
場がどよめく。沙里奈も言葉を無くす。
茜は沙里奈を首に巻きつけたままコーナーに寄りかかり、身を起こし始めたのだ。
沙里奈は不穏な雰囲気を感じて絞めを解こうとするが、出来ない。
なんと茜自身が彼女の脚を掴んでいる。
まさしく自分の首を絞める行為だが、そうしてまで彼女は攻撃に転じる。
沙里奈と茜で決定的に違うところ。
それはこの試合にかける執念に他ならない。
(……王者になるんだ……)
茜は首に巻きついた沙里奈を高々と掲げる。
(勝って……先輩と同じ、王者になるんだ!!)
茜は沙里奈をリングポストに叩きつける。リングポストの頂点に、強かに股座を打ちつけるように。
「ぐ、うああああああああああああ!!!!」
沙里奈の脚がびくつき、背が電気の流れるように震える。
同時に茜への絞めも解け、二人は同様にリングへと倒れこんだ。
先に茜が立ち上がる。ひどく咳き込みながらも内股で構えを取る。
次いで沙里奈が立ち上が……れは、しなかった。
彼女は長い脚を閉じ合わせたままリングに伏し、そのまま立ち上がることができない。
顔は真っ青になり、今出始めたという量ではない脂汗を浮かせていた。
疲労もあるだろう。
だがそれ以上に、それをきっかけとしてぶり返した股間や腹部の痛みが、彼女の試合続行を赦さなかったのだ。
代わりに彼女は腕を伸ばし、自分に正対する茜の拳に軽く触れる。
『し、試合終了ーーーッ!暫定王者に輝いたのは、不退転の空手家……神崎 茜!!』
沙里奈のタッチを認め、実況が高らかに勝者の名を呼んだ。
あちこちで拍手が起きる。
「茜ー!!よく頑張ったぞー!!」
「見直したぞ、根性娘ーー!!!!」
そのような茜への声援も飛び交った。
「……凄いねあんた、今のあたしじゃ勝てる気がしないや。
どうやったらそんな風に強くなれるのかな」
歓声の収まらぬ中、沙里奈は仰向けに横たわって茜に問う。
茜は沙里奈を抱き起こしながら笑いかけた。
「恩返しが、したいんです。」
茜が呟く。沙里奈は、その茜の目に一抹の寂しさを読み取った。
「王者になって、ある人の代わりに強くなりたいんです。
その人は、きっと自分の生き様を否定するでしょうから、私がそれを継ぐんです。
それが私の恩返し。………私の強さは、彼女に貰ったものだから」
彼女はするりと黒帯を解く。
すっかりくたびれたその黒帯を、茜は静かに握りしめた。
「いたた……」
神崎茜は控え室のベンチに腰掛け、赤らんだ手首を押さえた。
先ほどの試合終盤、決着を急いて少々杜撰な受けをしてしまったようだ。
悠里が消息を絶って三ヶ月。アリーナでは今、暫定王座決定戦が行われている。
トーナメントには猛者が殺到した。
化け物じみた女王が不在で、全国制覇の柔道家・高峰青葉も欠場。
その好機に虎視眈々と王座を狙う女が押し寄せたのだ。
激戦に次ぐ激戦が繰り広げられた。
リングは朱に染まり、担架が忙しなく行き交う、まさしく戦場だ。
その厳しいトーナメントもようやく終わりを迎える。
決勝へ駒を進めるのは、勝ち上がったのが奇跡と言われる茜と、もう一人。
帰国したばかりの沙里奈というカリスマダンサーだ。
クールな容姿からファッションモデルの仕事も多いが、その見た目に反してダンスを応用したカポエイラも得意とする。
正対して打ち合うことが基本の格闘技において、その三次元的な戦いには定評があり、
足技という類似点もあって悠里との対決が心待ちにされている選手だった。
その脅威は控え室に流れる試合映像からも伝わってくる。
左右の蹴りが休みなく相手のガードを叩き、たまらず覗いた顎へ的確なハイキックが叩き込まれる。
速い。
茜は固唾を呑んだ。凄まじい回転の速さだ。
鞭のような蹴りには、空手ほどの重さはないが、鋭さがある。
そもそも蹴りをフックのように打ち込まれては、到底腕で防ぎきれる筈がない。
「……防ぎきれない、か。」
バンテージを巻き直しながら茜は笑った。
5年前。まだ高校生だった頃も、同じような不安に駆られていたのを思い出して。
※
その日、茜は日課のロードワークを放棄して繁華街を彷徨っていた。
何か目的があるわけではない。空手の試合に負けての現実逃避だ。
負けたのも惨めだが、それよりも深刻なのは、敗戦に「悔しさ」を感じられないことだった。
悔やむ事さえできない試合内容。
――なんだあのちっこいの、守るばっかじゃねぇか。
――あーあ、神崎センパイったら、まーた亀だよ?
茜の試合ではよくそうした野次が飛んだ。
茜は道場での型稽古なら様になるものの、試合となるとからきしだった。
相手に過剰な恐れを抱いて硬直してしまう。相手の体格に脅え、突き・蹴りに身が竦む。
身体は染み付いた受けを行うが、そのうち倒される。いつもそれだ。
幼少時から毎日のように空手漬けで、その有様。
自分に戦いは向かない。
茜はそう確信し、街を彷徨いながら空手から身を引く決心を固めていた。
そんな茜が、項垂れて路地を通り過ぎた時だ。
不意に微かな音が耳をくすぐった。 斧を振るう時の風切り音に似た、何か。
何だろうと路地を覗き込んだ瞬間、茜の眼前に人影が降り立つ。
その人物を目にした瞬間、茜の背筋に本能的な寒気が這い登った。
中華系の切れ長の瞳は、老人のように穏やかだが、それが殺し屋の目だと直感で解る。
人を殺めても眉一つ動かさない人種だと。
殺し屋の指が弾かれるのを目にしても、茜は身動ぎさえ叶わなかった。
ただ死を覚悟する。
その彼女の前を突如、手刀が凪いだ。チィン、とアスファルトに金属音が響く。
そこに目を落とし、それが闇に紛れた黒針だと気付いて膝が笑い出す。
そして同時に、茜は手刀の主が自分と同じ制服を着た少女だという事にも気がついた。
中華系の女性がその少女に腰を落としての崩拳を見舞う。
少女はそれを捌き、返礼に前蹴りを浴びせる。
女性は吹き飛んでゴミの山へと埋もれた。
オーソドックスな前蹴り、しかし威力が異常だ。
今の吹き飛びようは、まるで力士のぶちかましを受けたようではないか。
どれほどの威力があれば、踏ん張った人間があの速度で飛ぶというのか。
手刀の少女が振り返る。涼やかに整った顔立ちが覗いた。
「ごめんね、驚かせちゃって。危ないから早く逃げ……」
そう言いかけ、彼女は茜を見て目を丸くした。
「……?」
茜は不思議に思う。
同じ学校だという事への反応かもしれないが、別段驚くほどではないだろうに。
ただ、事情はどうあれ少女は態度を変えた。
「あなたなら、大丈夫そうね。少し離れてて」
そう言い残し、芥の山から這い出た中華系の女性と再び対峙する。
革靴が鋭い音を立てた。
その戦いは全てにおいて茜の理解を超えていた。
打撃が当たったときの鼓膜の底に響く音、明らかに人の限界を超えた反応。
助走なしの垂直飛びで茜の胸辺りまで跳び上がり、配管と壁を蹴って頭を狙うなど、映画の中でしか見たことがない。
「いい加減にしろ、小娘!奴を生かして貴様に何の得がある!!」
「さぁね。でも、殺そうとするとこ見ちゃったからさ。目の前で人殺しなんて、させやしないわ」
二人は論を交わしながら、どれ一つとっても致死的な攻撃を次々と刺し合う。
――どんな風に感じるんだろう。
茜は目まぐるしい動きを眺めつつ考えた。
自分が思う限界を遥かに超えた戦い。
あそこまで鍛えたら、あの攻撃をかわせたなら、どう感じるのだろう。
知ってみたい。
もっと、もっと先があるんだ。これほどに遠い高みが。
数時間前に敗北を喫した相手など、これに比べればなんと人間じみていたことだろう。
やがて少女の脚が一閃し、路地裏の激戦は終結する。
茜には終始絵空事のような戦いだった。だがそれでも、価値観は根底から覆された。
茜が負けず嫌いになったのはその日からだ。
以後も試合では相変わらず負けた。県内にさえ茜を圧倒する猛者は数多く居たからだ。
それでも茜は、「悔しがる」ようになっていた。負けた時に心の底から泣いた。
それは、彼女が総力を尽くした証拠だった。
※
遠い、遠い存在。
悠里に対するその想いは、今でも変わる事はない。
むしろ彼女をよく知るほど、自らの立つ場所との違いを思い知らされる。
10の練習をして10しか得られない茜と、20、30を得る悠里。
今から戦う沙里奈も、その20、30を得るタイプだろう。
正直、勝てる気はしない。
観客にも既に沙里奈の勝利を祝うムードが漂っている。
茜など、沙里奈が対悠里戦への箔をつける為のかませ犬だ、
かつて悠里に手も足もでなかった茜が沙里奈に敵う筈がない、と。
以前の茜ならそれらを気に病み、吐くほどに緊張していただろう。
しかし今の茜は落ち着いていた。
床に正座し、ひたすらに集中力を高める。
中学の団体戦で大将を務め、しかし肝心な一戦で期待に応えられなかった事。
高校になっても何が変わるわけでもなく、試合の度に歯痒い思いをした事。
待望のリングで、悠里にろくに触れられもせず敗れた事。
自分が他人に比べて華のない事。
それらへの忸怩たる思いもすべて受け止めて気を研ぎ澄ます。
そうすると開き直りにも近い安らぎが心の内から滲み出た。
他人と比べてどうかは考えない。
勝てるかどうかも問題にしない。
ただ、全力を出す。己に恥じない戦いをする。
「神崎選手、決勝の準備……を…………」
部屋の外から呼びかけた係員が、驚いたように目を丸くした。
正座する茜の気迫が、一瞬かつての悠里に重なって見えたからだ。
「……わかりました」
茜は瞑想を解いて立ち上がる。
そして部屋を後にする間際、控え室を今一度振り返った。
薄紫のハンドタオル、水素水のボトル、鉤状に黒ずんだサンドバック。
控え室には悠里の名残が残っている。
「行ってきます、悠里先輩!」
茜は虚空へ向けて突きを放ち、空気に自らの色を付け加えた。
2.
きしっ、きしっ。
茜の重みでリングへ通じる金網が軋む。
足の裏に伝わる網の冷たさで、足裏が熱くなっているのがわかる。
胸はもっと熱い。
会場の熱気にあてられ、焼きたてのパンのように膨らんでいる。
茜は硬いロープを力いっぱい開いてリングに入った。
汗の出るほどのライトが身を焦がす。
沙里奈はすでにリングに入っていた。
コーナーを私室化するような態度は、すでに新人のそれではない。
クール。印象はその一言に尽きる。
ショートに整えられた髪、アイシャドウで彩られた吊り目、シャツから覗く締まった腹は、
女性ならば間違いなく嫉妬するほどに美しい。
雰囲気から、物事を卒なくこなすタイプであることが伝わってくる。
戦いにおいても最小限の努力で鰻登りに実力をつけていくのだろう。
不器用な茜とは好対照だ。
彼女は茜へ視線をやり、溜め息を吐いてヘッドホンを耳に当てた。
見られることが当然と思うのか、観衆の黄色い声さえ気にする様子がない。
茜はそのタイプが苦手だった。なぜ試合前に奔放に振舞えるのかが理解できない。
何をやっても敵わない気がする。
(それでも……負けられないんだ)
茜は黒帯を締めて気合を入れ直す。
茜はこの5年、自分を磨き続けてきた。
空手の腕だけではない。容姿も、思考も、自分なりのスタイルを模索した。
全てはこの時のため。
いつか必ず姿を消すであろう悠里の代わりに、彼女に誇れるような王者になるためだ。
かくして、決勝のゴングが打ち鳴らされた。
茜は丹田を中心に円を描くように構え、じりじりと沙里奈との距離を詰める。
沙里奈は腰を深く落としたまま茜を迎えた。
その踊るような奇怪な足捌きは、ボクシングの小刻みなステップとは違う。
浮遊する海洋生物を思わせる捉えづらさだ。
茜が攻めあぐねていると、沙里奈が突如蹴りを放った。
豪快に腰を切っての旋風脚に似た蹴り。
ただし旋風脚と違い、両脚が立て続けに襲い掛かってくる。
「ぐっ!!」
咄嗟に初段を肩で受けた茜だが、二段目が頭に直撃してしまう。
身体が揺らいだ。
時間にしてほんの数瞬、しかしその間に沙里奈は十分な追撃をかける。
先の豪快な蹴りで崩れた体勢のまま、マットに手を突いて脚を振り回したのだ。
倒立しての回し蹴り。
(マットに手を……?あの目線は……お腹っ!)
茜は沙里奈の視線を読んで腹部を庇う。
何とか直撃は免れた。しかしスピードの乗った蹴りはガード越しでもつらい。
「ぐぶっ!!」
茜は身体をくの字に折って呻いた。
沙里奈は蹴り上げた脚がマットに落ちる動きを利用して直立に戻り、
さらに上下に分けての蹴りを振り回す。
茜はそれを捌き切れずにいた。速いなどというものではない。
『凄まじいラッシュだ!蹴りに次ぐ蹴り、これはまるでキックの雨です!!』
実況が叫ぶ。
試合が始まってまだ2分弱、だが茜は既に追い詰められていた。
映像で見た以上の厄介さだ。
沙里奈はブレイクダンスのように、腰を捻り、あるいは逆立ちして腕で回り、
予想もしない動きから無数の蹴りを繰り出してくる。
技の一つとしての蹴りなら対処できる、だが一連の流れ全てが蹴りなど未経験だ。
「…………ッ!!」
茜の脳裏に数え切れない蹴りの軌道が浮かんだ。
それは自分が喰らいうる、あらゆる攻撃。
上か、下か、横か?
どこからどの角度で蹴りがくる?その見当がつかない。
通常の立ち技選手と違い、キックを繰り出す体勢が滅茶苦茶なのだ。
これがあの悠里をもスタンドで翻弄するといわれる三次元的な攻撃。
所詮は空手やボクシングも、互いが直立している事を前提にした勝負に過ぎないのだと思い知らされる。
「げふ、うッ!!」
茜が腹に一撃を喰らって呻いた。
沙里奈はそれを見逃さず、ガードの甘くなった脇腹へ更に蹴りを放り込む。
その目は逆立ちしていても常に茜を観察していた。
ありありと余裕を窺わせながら。
(どうすれば……!)
茜は肘と膝で蹴りを防ぎつつ悩む。
リーチ差がありすぎて成す術もない、勝ち目があるとは思えない。
茜が下を向いたとき、
――――よく頑張ったね
頭に澄んだ声が閃いた。
あの時もこのリングだった。
悠里のラッシュで体中をボロ切れのようにされ、それでも前へ出た。
怖かった。何度も死を意識した。
それでもその結果、彼女に一筋の手傷を負わすことが出来たのだ。
あの絶対王者に。
(……そうだ……やれるだけは、やらなきゃ!)
茜が左半身に構え、ガードを下げる。
その瞬間、衝撃と共に彼女の視界が黒に染まった。顔への被弾だ。
沙里奈の足の甲は頭骨の固い部分をうまく避け、頬と鼻へ絡みつくように潰してくる。
鼻血が盛大に溢れ出す。
「バッカだねぇ……」
沙里奈の嘲る声が聴こえた。
『き、決まったぁーー!顔面に食い込むカリスマダンサーの痛烈な蹴りぃッッ!!!』
「いいぞー、サリナ!悠里に代わる女王はやっぱお前だよ!!」
実況が叫び、観衆の大歓声が沸き起こる。場の誰もが沙里奈の勝利を確信していた。
ただ一人、茜を除いて。
彼女にはその顔面への蹴りが予測できていた。
あの局面でガードを下げれば、沙里奈の体勢からして顔を狙うだろうと。
顔に来ることさえ解っていれば、歯を食いしばって耐えられる。
鼻をへし折られつつ、茜は腰を落とした。
崩れ落ちたわけではない。それは下段蹴りの初期動作だ。
「うあ……ぁああっ!!」
足元を踏み定めた後、茜の右足が弧を描く。至る場所は、沙里奈の軸足、その踝。
ズバァンッ、という音が響き渡った。
瞬間、客の歓声が止む。実況が目を見張る。
その視線の先では、軸足を蹴り払われた沙里奈が風車のように回転していた。
「ぐっ!!」
小さな悲鳴が漏れる。肩からマットに打ち付けられた沙里奈のものだ。
それを最後に場が静まり返る。
ふううぅっ……、と茜の吐き出した息が聴こえるほどに。
一撃必殺。
空手道が追い求め続ける理想だ。絵空事、と言ってもいい。
実際そんな事は、悠里のような一握りの才人でなければ実現し得ない。
しかしそれでも空手家はその夢を見て、休まず拳を鍛え続ける。
茜はそんな馬鹿げた道が好きだった。
霞むほどの高みを見上げながら、雨の日も風の日も鍛え続けてきた。
たとえ回りにどう映ろうが、遅い歩みだろうが、その修練の日々は真実だ。
それに裏打ちされた下段蹴り。これがヤワであろう筈がない。
「すっ……すげぇ…………!」
客席から声が漏れた。
「すげぇ、何だ今の蹴り!?悠里みてぇだ!!」
「お、おうっ。見たかよ、180度回ったぞ!」
茜の下段蹴りに場が沸き上がる。
『こ、これは驚きました!神崎選手、顔面へ蹴りを受けながら、
沙里奈選手の軸足を狙った豪快な下段蹴りっ!!
見た目の派手さもさる事ながら、空手に身を捧げた女の蹴りは、威力も凄まじい!!』
実況が興奮気味に叫んだ。
「う……」
その声に反応するように沙里奈が呻く。
彼女はリングに這い蹲り、蹴られた左足を信じられないといった表情で眺めていた。
茜は残心を取ったまま沙里奈が立ち上がるのを待っている。
余裕を見せている訳ではない。
あくまで立ったまま勝負するという、空手家としての誇りだ。
その茜を見上げ、沙里奈が眩しそうに目を細めた。
見下ろす茜には後光が差すようだった。
照明の直接的な光ではない、秘めたる心の輝きが。
沙里奈はロープを頼りに立ち上がり、耳に嵌めたヘッドホンを場外へ投げ捨てる。
そして続行可能である事を示すようにトントンと跳んでみせた。
眼が最初と違っている。
構えを取る茜に、沙里奈は意外にも頭を下げた。
「ごめんなさい」
これもまた意外な言葉に、茜は訝しげな顔になる。
「あんたを見くびってた。子供っぽくて、お父さんの空手着を着てみたお嬢様みたい。
どうせアイドル空手家とかそんなのだろうって、さっきまで思ってた。……ごめんなさい」
沙里奈はそう告げると、先ほどまでよりも低い構えで身を揺らし始める。
それが彼女の本気だと眼でわかる。
「いいですよ。よく言われるんです、格闘家らしくない、って」
茜は照れくさそうに笑った。
確かに格闘家らしくない、いい匂いのしそうな娘だ。
童顔で、髪には軽くウェーブがかかり、瞳はまるきり人を疑うことを知らなさそうな澄みようで、
格闘家が10人いれば10人ともが多少なりとも侮る、そんな容姿。
それでもその強さは本物だ。
「胸、貸してもらうよ」
沙里奈がにぃと笑う。最初のクールな印象とは打って変わって、情熱的な顔だ。
茜も満面の笑みで返した。
「光栄です。……私も、全力で!」
二人はまるで十年来の親友のようになっていた。互いを認め合ったからだ。
そして、格闘少女の交友は談笑ではない。
沙里奈は腰を捻った回転で、茜は摺り足で進んで互いの領域を侵す。
『さぁ仕切り直しだ!本気になった2人、優れているのは果たしてどちらか!?』
実況の叫びをゴングに、少女達の脚がマットを蹴った。
3.
沙里奈の身体捌きはいっそう複雑に、そして軽やかに変わった。
頭の中のリズムが入れ替えられたのだとわかる。
「りゃああああっ!!!」
繰り出される蹴りもいよいよ鋭さを増していた。
空中を無数の鎌が乱れ飛ぶようだ。
速さも相当だが、そうも鋭いとなると、当たり所が悪ければ一発で意識を断ち切られてしまう。
だが茜はあえてそこに突っ込んだ。
リーチでも手数でも勝負にならない以上、懐に潜るしか勝機はない。
鬱蒼と茂った雑木林をバイクで突き抜けるような危険さだ。
茜は肩に胸にと被弾し、弾き飛ばされる。それでも何度でも猛進する。
その様子はまさに『必死』。
茜が常に揶揄されてきたファイトスタイルだ。
女闘を見に来る客の多くはそれを見苦しい、華がないと蔑む。
しかし死を賭して真っ直ぐに突き進むその姿は、相手にとってどれほどの脅威である事か。
「ちぃっ!!」
沙里奈が顔を顰める。
茜の勢いに押されていつの間にかコーナーを背負っていた。
だが彼女は軽やかなバク宙で難なく茜の脇をすり抜ける。
そして時に跳ねながら茜に蹴りを浴びせ、時に倒立しながら蹴り上げた。
立ち技選手が必ず当惑する三次元的な闘い方だ。
しかし、茜はいつしかそれを防ぐのではなく、自らの拳足をもって迎撃するようになっていた。
「せぃやっ!!」
茜の放った前蹴りが沙里奈のキックを弾き飛ばす。
「う……!」
沙里奈の額に汗が流れる。
それは茜の臆病さがなせる業だ。
自らの受けうる攻撃を、相手の視線、呼吸、体勢などから無意識に感じ取る。
まだ未熟だった学生の頃は、その情報を前にただ呆然と立ち尽くすだけだった。
しかしその臆病さに勇気が加わった時、茜の真価は発揮される。
何を恐れるべきか。最も守るべき場所は何か。それを理解して行動できる。
悠里と戦った時もそうだった。
覆しがたい圧倒的な実力差がありながら、それでも瞬殺された訳ではない。
粘り、粘り、一撃を返すまでになってようやく限界を迎えたのだ。
沙里奈は汗を浮かべながら、しかし手を出し続けた。
硬直状態になっては茜のペースに引き込まれる。
だが迷い半分で放った蹴りは、茜の洗練された回し受けによって絡め取られる。
茜はその蹴り足を腋に抱えたまま、沙里奈をコーナーへと叩きつけた。
「……掴まえた!」
沙里奈の鼻先でそう囁き、痛烈な膝蹴りを浴びせる。
「うっ、はぅ……ンッ!!」
沙里奈が目を剥いて呻いた。ハスキーな良い声だ。
「把ああぁっ!!!」
茜は責めの手を緩めない。早く勝負を決する必要があった。
鼻が潰された事で酸素がうまく取り込めず、スタミナが尽きかけている。
体ごと回る豪快な蹴りを捌いてきた腕も折れそうに痛い。
茜は腕を引き絞った。
狙いはシャツから覗く沙里奈の腹部だ。
ダンサーだけあってよく鍛えられ、8つに隆起したそこへ、渾身の掌底を打ち込む。
「うぐおおおォッ!!」
今度はうめきなどではない、明らかな叫び声だった。
「……サ……サリ、ナ…………?」
観客の声が驚き一色に統一されていく。
沙里奈のクールな容姿とは似つかわしくない声が衝撃的だったのだろう。
「これで……どうですかッ!」
茜は打ち込んだ掌の上から、さらに重ねて掌底を沈める。
「うぇ……っ!うぐ、あ……ッッ…………!!」
沙里奈の口から唾の塊が飛んだ。彼女の跳ねでリングポストが軋みを上げる。
ただ掌底を2発重ねただけにしては大きすぎるダメージだ。
茜は、この「掌底重ね当て」が奥義と呼んでも良いほどの威力を持つことを確信していた。
それは発勁の一つ、浸透勁に近い。
筋肉を掌で押さえて弾力を封じ、その上から力を加えて効率よくダメージを与える。
掌底の重ね当てはまさしくそれで、強烈な心臓マッサージの如くに相手の奥底を叩く。
空手にはない技だが、その掌底を突き込む動作は紛れもなく空手で培ったもの。
既存の技術を守るばかりが空手家ではない。
これは鍛錬に鍛錬を重ねた末に会得した、茜なりの極意だ。
「ぐ……く、うあ、あ゛……っ!!」
沙里奈が口を押さえる。
そのすらりとした脚が震えはじめていた。もう立っているのも限界なのだろう。
『形勢逆転、今度は沙里奈選手が悶絶ーー!!』
実況が叫ぶ。
その直後、沙里奈の頬が膨らみ、ぐびゅ、と音がして押さえた手から吐瀉物が零れた。
「はぅッ………う、う…………んんろお゛おおぉええええッッ!!!」
生々しく嘔吐する。
観客から悲鳴が上がった。いや、正確には悲鳴ではない。
女同士の殴り合いを見に来るような酔狂な客だ、それは悲鳴に模した歓喜だろう。
『沙里奈選手、やはり堪え切れない!!
ストリート時代を含め、彼女はここまで殴られた事があったのでしょうか?
しかし、ここではそれがあります!芸術的な身体を躊躇なく破壊できる女がいます!!』
実況の煽りに釣られ、大歓声が沸き起こる。
「う、うう……う」
ようやくに嘔吐を終えた後、沙里奈は腹を抱えてよろめいた。
しかし、ただ逃げているわけではない。 その眼はなおも最後の光を残している。
「はぁっ!!!」
茜は危機感を覚えながらも、回復の間を与えまいと前蹴りを放った。
だが同じく放たれた沙里奈のフロントキックにリーチで負けて弾き飛ばされる。
沙里奈はその反動を利用して後ろのリングポストを蹴った。
そしてそのまま茜へと飛び掛かる。
「きゃっ!」
茜は沙里奈の体重を支えきれずに倒れこんだ。
その首に沙里奈の足が巻きつく。
「ぐうッ……う、が……はっ………!」
茜が目を見開いた。沙里奈は自らの足首を掴み、引き絞って絞めを深める。
「ははん、かかったね!ストリートでの常勝技だよ、これで終わりっ!!」
沙里奈が高らかに笑った。
互いに疲労もダメージも限界だ、ここでこの技を決められたのは僥倖だった。
沙里奈の脚は柔らかくも暖かく、母親の乳房のようだ。
しかしその首絞めは強く、かなり危険な角度で入っていた。
『スリーパーが入った!沙里奈選手の長い脚が茜選手の頚動脈を締め上げる!
傍目には喜ばしい光景ながら、この局面に来て一転、茜選手大ピンチです!!』
沙里奈の脚が蠢くたび、ブリッジのような格好の茜の腰が浮いて、沈む。
空手着を着ていてもなお細い脚の震えが解った。
「……あ………ひゅっ………」
真っ赤な顔で涎を垂らす、その顔は先ほど嘔吐した沙里奈とよく似ている。
しかし、違うところがあった。
『おおっと、これは茜選手…!?』
場がどよめく。沙里奈も言葉を無くす。
茜は沙里奈を首に巻きつけたままコーナーに寄りかかり、身を起こし始めたのだ。
沙里奈は不穏な雰囲気を感じて絞めを解こうとするが、出来ない。
なんと茜自身が彼女の脚を掴んでいる。
まさしく自分の首を絞める行為だが、そうしてまで彼女は攻撃に転じる。
沙里奈と茜で決定的に違うところ。
それはこの試合にかける執念に他ならない。
(……王者になるんだ……)
茜は首に巻きついた沙里奈を高々と掲げる。
(勝って……先輩と同じ、王者になるんだ!!)
茜は沙里奈をリングポストに叩きつける。リングポストの頂点に、強かに股座を打ちつけるように。
「ぐ、うああああああああああああ!!!!」
沙里奈の脚がびくつき、背が電気の流れるように震える。
同時に茜への絞めも解け、二人は同様にリングへと倒れこんだ。
先に茜が立ち上がる。ひどく咳き込みながらも内股で構えを取る。
次いで沙里奈が立ち上が……れは、しなかった。
彼女は長い脚を閉じ合わせたままリングに伏し、そのまま立ち上がることができない。
顔は真っ青になり、今出始めたという量ではない脂汗を浮かせていた。
疲労もあるだろう。
だがそれ以上に、それをきっかけとしてぶり返した股間や腹部の痛みが、彼女の試合続行を赦さなかったのだ。
代わりに彼女は腕を伸ばし、自分に正対する茜の拳に軽く触れる。
『し、試合終了ーーーッ!暫定王者に輝いたのは、不退転の空手家……神崎 茜!!』
沙里奈のタッチを認め、実況が高らかに勝者の名を呼んだ。
あちこちで拍手が起きる。
「茜ー!!よく頑張ったぞー!!」
「見直したぞ、根性娘ーー!!!!」
そのような茜への声援も飛び交った。
「……凄いねあんた、今のあたしじゃ勝てる気がしないや。
どうやったらそんな風に強くなれるのかな」
歓声の収まらぬ中、沙里奈は仰向けに横たわって茜に問う。
茜は沙里奈を抱き起こしながら笑いかけた。
「恩返しが、したいんです。」
茜が呟く。沙里奈は、その茜の目に一抹の寂しさを読み取った。
「王者になって、ある人の代わりに強くなりたいんです。
その人は、きっと自分の生き様を否定するでしょうから、私がそれを継ぐんです。
それが私の恩返し。………私の強さは、彼女に貰ったものだから」
彼女はするりと黒帯を解く。
すっかりくたびれたその黒帯を、茜は静かに握りしめた。