1.
静まり返った会場の中、息を呑む音だけが聞こえてくる。
あれだけ茜へ向けて降り注がれていた歓声が、悠里のただ一発の蹴りで掻き消えた。
「……これが力だよ、キャシー」
大柄なアメリカ女が、膝に乗せた娘の髪を撫でながら呟いた。
娘の方はリングでの壮絶な戦いに、言葉さえ失くしている。
圧倒的な力、というものを最も身に染みて感じているのは、他ならぬ茜だろう。
どれほど追い込んでも、それを一撃でチャラにしてしまうような破壊力。
理不尽極まりないが、今さらそれを言っても仕方ない。
茜はそれを充分に知った上で、悠里に並ぶことを望んだのだから。
茜は震える脚を叱咤しながら、少しずつ身を起こす。
熱湯のように熱い汗が、首筋から、胸元から、背筋から、体中を流れ落ちてゆく。
ぜっ、ぜっと息も随分と荒い。
焼けるような照明の下、真っ白な世界の向こうで悠里がコーナーに寄り掛かっている。
いつかと同じように。
しかし今度は、唇の端から血を流し、鼻からもやはり血を流し、確実に痛手を負っている。
やったのは茜自身だ。
充足感が茜の心に満ち始めた。あの悠里相手にここまでやれたのだから、と甘える気持ちだ。
だが、茜はそれを一蹴した。
それは逃げだ。脚の痛みに怖気づき、続行を怖がっているに過ぎない。
左足を踏みしめ、右足をその後方に添える。尋常でない痛みがふくらはぎに巡る。
思わず叫び出しそうな痛みだ。
だが悠里がコーナーを出るのを見たとき、茜は知らぬうちに両脚を踏みしめていた。
痛みは勿論ある。だがそれ以上に、「戦いたい」という気持ちが溢れた。
青葉より、アルマより、その他悠里と戦った誰よりも耐え抜き、このリングで初めて悠里に勝るのだ。
その夢が燃えていた。
※
悠里はコーナーに寄り掛かりながら、倒れた茜を見下ろす。
視界が二重三重にブレている。
パウンドを受け、後頭部を何度も打ちつけたのがまずかったのだろう。
グラウンドでの攻防で腹筋を酷使し、アバラの痛みもさらに増している。
折れた一本に隣接する骨までがヒビ割れだしたかのようだ。
鼻に血が詰まっているせいで呼吸もままならない。
その相乗効果で吐き気まで襲ってくる。
それら全てが、あの弱弱しかった茜からもたらされたダメージなのだ。
茜も強くなったものだ、と悠里は思う。
元より加減するつもりなどありはしないが、これはいよいよ気合を込めて迎え撃たねばなるまい。
悠里はそう覚悟を改め、ゆっくりとコーナーを後にする。
茜を相手に遠慮なく全力を出せるのが、彼女はひどく嬉しかった。
かつてサンドバックを蹴破ったあの日も、本当は茜と全力でやり合いたかったのだ。
客席から、おおっ、と感嘆の声が漏れた。
これまで半身の姿勢を基本としていた茜が、悠里に対して正対する構えを取ったからだ。
騎馬立ちでどっしりと腰を落ち着け、上下に反転したような手刀で正中線を隠す。
岩のような安定感を感じさせる厳かな佇まい。
格闘に疎い者でさえも、その有無を言わせぬ迫力には溜息をついた。
悠里も表情を強張らせる。
茜の静かな瞳から発せられる闘気が脳髄を焦がす。
一般に格闘家が放つ殺気とはまるで違う。それより遥かに純粋で、神々しい氣だ。
『武』というものを、この茜はよく身につけている。
面白い!
悠里はその“静”の茜に対し、“動”を以って対抗する。
きしっ、きしっ、とリングを軋ませて跳ね、身体の脇へ垂らした腕を握って、開いてを繰り返す。
通常、格闘において縦の体重移動はご法度だ。
地に足が着いていない状態では踏ん張りが利かず、容易に体勢を崩されてしまう。
しかし今の悠里を見て、隙があると考える人間はほぼいないだろう。
それほどの凄みがある。
効率であったり理屈であったり、そういったものを考察するのが馬鹿らしく思えてしまうほど、
その躍動的なスタイルは悠里によく似合っていた。
キュッ、という音を立てて、悠里の足裏がマットを蹴る。
そして見守る人間が一度瞬きを終えた時には、もう茜の目前に迫っていた。
驚愕が場を席巻する。
有り得ない速さ。まるで肉食動物が獲物を狙う初速だ。
その速さのまま、悠里は茜に飛び込んだ。
凄まじい速度の追い突き。だが茜は同じく放った突きで衝撃の方向を逸らす。
「はっ!」
弾かれた悠里は、そのまま殴り抜けるように茜の後ろに回り、振り返る勢いで裏拳を叩き込んだ。
茜は素早く向き直り、裏拳をスナップを利かせた鶴頭受けで弾き飛ばす。
悠里の腋が大きく開く。
茜がそこに掌底を叩き込むのと、悠里が死角からの膝を放ったのは同時だった。
打撃がぶつかり合う。
茜は掌底を出す右腕に左手を添え、かろうじて勢いを受け流しながらも後方に弾け飛ぶ。
岩のような安定感を持つ茜を、それでも力押しで弾き飛ばす悠里の強さ。
その人間離れした猛撃を、しかし上手く受け流し、いなす茜の技量。
どちらも尋常ではない。
『……な、何という動きでしょう、竜巻のように襲い掛かる正規王者、それを捌く暫定王者!
まるで早回しにした曲芸を見ているようです。
最高に噛み合った2人、互いが互いを刺激し合い、止め処なくギアを上げ続けている!!』
実況のコメントは場の驚きを代弁するものだった。
疾風怒濤の攻防に、黒山の観衆たちは瞬きも出来ずに目を凝らす。
「ゆ、悠里ってやっぱすげぇわ……!俺なら一生鍛えても、あんな動きできそうもねぇ」
「ああ。けど、それについてってる茜も相当だよな。地味だ、ってんで注目してなかったけどよ」
場の賞賛の声は二分されている。
その片方を浴びながら、しかし茜は、身を切り裂かれるような感覚の中にいた。
痛めた右足から、踏み堪えるたびに気の狂いそうな痛みが迸る。
腕もそうだ。スピードとパワーを研ぎ澄ました悠里の打撃は、上手く受けてもダメージが蓄積する。
そして決定的な差がスタミナだ。
悠里は攻撃の手を緩めない。
鼻が血で詰まり、呼吸を遮られている筈なのに、茜と同じく動き続けているのに、まるで動きに淀みがない。
無尽蔵の体力。そんな絶望的な言葉が茜の脳裏をよぎる。
(これが……先輩の、本当の強さ……すぐに倒された前の時は、覗けもしなかった領域……!!)
マラソンで離される時のように、圧倒的な実力差を思い知る。
その差が百倍にも千倍にも感じられ、惨めな気持ちが心にぶら下がる。
手が、足が重い。肺が息苦しさに軋む。
インターバルが、休憩が欲しい。
水を飲みたい。
そのような感情のピースを脳内に弾けさせながら、茜は必死に暴虐の斧を凌ぎ続けた。
だが、少しずつ、少しずつその牙城を崩されていく。
試合開始から31分46秒。
ついに捌きがぶち破られ、悠里のミドルキックが茜の腹筋に叩き込まれた。
「うごがぇお゛ッッ!!!!?」
茜は唾を吐き散らし、後ろ向けに倒れこむ。そして妙な咳き込みを繰り返した。
「グっ、…げぶ……う、うう゛んっ!……んォ゛ぼッ!!」
口をすぐに押さえるが、もう一度噎せた際に胃液が指の間から垂れ落ちる。
と、目の前に影が映った。
踵落としだ。
それは転がるようにして何とかかわすが、中腰の姿勢になった所で追撃のアッパーに捕まる。
さらに腹を抉られた。
「んんごおぁあ゛あ゛お!!!!!」
茜ももう堪らない。防御を完全に解き、夢中で腹を抱える。
血がリングに滴った。
皮膚が切れた、などというものではない。臓腑を損傷したゆえの深刻な吐血だ。
揺れる視界の中、駄目押しのフックが頬に叩き込まれる。
ごぎん、と音を立てる頬の骨。
茜はそのまま、投げ捨てられるように頭からマットに倒れ込んだ。
『く、崩れ落ちた!?茜選手、ついに!王者の連打に捕まってしまったッ!!』
会場にどよめきが起こった。
2つに割れていた歓声が、一度凍りつき、氷解の後に一つの方へ集束する。
「つ、強ええぇ……!やっぱ、やっぱ悠里が一番とんでもねぇよ!!!!」
「あぁ、ああ!茜も血ィ吐くまでよくやったけどよ!!」
悠里賛美の一色。
悠里のカリスマじみた強さは、何百人という人間の意見を無理矢理に自らの側へ引き摺り込んだのだ。
そのカリスマが倒れた茜の上で拳を突き上げると、会場が沸き上がる。
「おおおおおお、悠里ぃいいいい!!!!!」
「こっち向いてくれ、女王!!!!」
悠里の名を喉の奥から叫ぶ声。女王の肢体を眺める潤んだような視線。
それは洗脳とすら言って良いものだった。
だがその中で、茜の手がピクリと動く。リングを掴むように。
「…………ッ!」
それを真っ先に瞳で捉えたのは、ある意味で当然というべきなのか、悠里だった。
2.
悠里! 悠里! 悠里!
アリーナの天井がその歓声で埋め尽くされている。
当然だ、と茜は思った。
悠里は花形に相応しい。美しく、品があり、豪快でワクワクするような戦いを繰り広げる。
茜の価値観をがらりと変えたのも、他ならぬ悠里の戦いだ。
その悠里が人気を博す事に疑問はない。
自分など所詮、その華を引き立てる為の雑草に過ぎないのかもしれない。
それでも茜は身を起こす。燻る煙のように頼りない様で。
「お、おい、やめろ茜!お前もうマジやべえって!!!」
「病院行けよ、血ィ吐いてんだぞ!?」
悠里への声援の中、茜へ声が投げかけられる。
もっともだ。
勝ちの目が薄い事ぐらい、茜が一番身に染みて解っている。
疲労で視界はもうドロドロだ。
腕にも脚にも痺れが走り、口からは吐瀉物と血の入り混じった泡を吐き溢している。
エネルギーさえ、天日に干された雑巾のように枯れ果ててつつあった。
だが、まだ動ける。
「うううぅ……うあああぁぁぁああああ゛あ゛あ゛!!!!!!!」
俯いた茜の口から叫びが上がった。
自らを鼓舞する為であろうそれは、場に響く悠里へのコールを途絶えさせる。
うつ伏せから、正座に。正座から、片膝を立て。片膝から、直立へ。
悠里はそれを威風堂々と待ち受ける。
茜が構えた瞬間、悠里はこれで終わりだとばかりに豪快な後ろ回し蹴りを浴びせた。
腰を切って戦斧を叩きつけるような蹴り。
茜は、それを避け……なかった。それどころか、腕を十字に固めて暴風圏に飛び込む。
蹴りはその小さな肩に炸裂した。
「ん゛!」
茜の顔が歪み、痩身は大きく右に揺らぐ。
だがその足先は攻撃に向かっていた。
蹴りで身体が一転する勢いを利用し、逆に里の首筋へ左足を叩き込んだのだ。
「く、うッ!?」
悠里は素早く腕を割り込ませたが、己の蹴りの威力を流用したカウンターを殺しきれない。
「ぎいっ!!」
今度は悠里の身体が大きく傾ぐ番だった。
『カ……カウンター!』
実況席から驚きの声が上がる。しかし、まだ終わりではなかった。
茜は左の蹴りを引きつけ、伸び上がりながらさらに逆の脚を振り上げる。
悠里のローキックで破壊された右足を、だ。
茜はあえてその痛みの中心を叩き込む。
痛みという現実を以って、立ちはだかる幻想の壁を打ち破るかのように。
「破アァぁああ゛ッッ!!!!」
茜は歯を食いしばって膝を持ち上げ、膝下を引きつけ、そして、力の限り打ち込んだ。
音が響く。
研ぎ澄ました刀で空を一閃したような、淀みのない風切り音。
右足は、悠里のこめかみを蹴り抜いていた。
相手の強烈な蹴りを利用して左の蹴りを叩き込み、それすらをさらに利用しての右ハイキック。
折れた右足での根性の一閃。
「あ゛……!!!」
悠里の身体が大きくよろめく。
だが倒れない。目元を押さえたまま、歯を食いしばって直立を保っている。
何というしぶとさだ。会場が息を呑んだ。
しかし茜だけは静止しない。
まるであらかじめそれが解っていたかのように、歯を食い縛りながら脚を踏みしめ、身体の前に腕で円を描く。
「……シッ!!!」
鋭い息が吐かれ、悠里の身体にとどめの追撃が放たれた。
ドッ、ドドン。
臍、水月、喉。人体の急所が並ぶ正中線を、目にも止まらぬ三槍の突きが貫く。
「……か、ふゅ……っ!」
急所を抉られ喉を潰された悠里は、とうとうその強靭な脚を折って横ざまに倒れこんだ。
リングが揺れる。
その中で茜も膝を突く。瞳からボロボロと痛みの涙を零して。
情けない姿だが、その涙を笑う者はいない。
右足の負傷を抱えながら、ただ根性だけで悠里を倒しきった茜。
倒れたまま動かない悠里。
「…………か、勝った……のか……!?」
「ウソ……だろ。…………ゆ、悠里が……?」
急転した死合模様に、ただ驚愕だけが波紋となって広がった。
涙で霞む視界に、白いライトが万華鏡のようにちらつく。観客のざわめきが聴こえる。
意識の遥か上方で。
ダウンしたのか……悠里はそう理解した。
茜の静を、動をもって叩き潰そうとした結果がこれだ。
押しの力には自信があった。ピンチは幾度も訪れたが、その度に力でねじ伏せてきた。
それがさらに押し切られるというのか。練磨に練磨を重ねた、茜の技に。
口惜しい。
だが、悠里は納得もする。
もしも自分を打ち倒すものがあるとすれば、それは純粋な努力の結晶だ。
茜のようなひたむきな武こそが、超常のものを倒すに相応しい。
悠里は心のどこかで常にそう思っていた。
あるいは、茜を初めて見た時に抱いた衝撃は、いつの日か自分を倒してくれる事を期待してのものであったのかもしれない。
白人少女を殺めて以来、長らく悠里の中に棲み続けてきた化け物、『カーペントレス』を。
……ならば今度ぐらい、あの可愛い後輩に甘えてみよう。木こり娘の全てをもって。
悠里が立ち上がる。
油断なく身構えた茜は、その敬愛する女性の目を見て息を呑んだ。
静かな瞳。
いつものギラついた眼ではもはやない。
獣が獲物を仕留める際に見せる、吸い込まれるほどに静かな瞳だ。
「ユーリ……とうとう、最後にするんだね?」
大柄な女ボクサーが表情を強張らせる。
「カーペン…トレス……!!」
令嬢然とした柔道家が顔を顰める。
「ついに、クライマックスですわ」
褐色肌のタイ女が笑う。
「…………!」
可憐なプロレスラーが、珍しく真顔になって身を乗り出す。
無数の視線が見守るリングで、茜は微かに身を震わせていた。
悠里への恐怖心が“消えた”のだ。
その事が逆に、最大の恐怖となって茜を襲う。
恐怖心があればこそ、相手の行動で起こる最悪の結果が思い浮かんだ。
その勘を元に行動を選べた。
だがそんな恐怖心さえ感じられなくなるほどに、今の悠里のプレッシャーは凄まじい。
ある意味、茜の最大の強みだったものが殺された形だ。
もはや頭は役に立たない。
茜はこの強大な女王を、今度こそ純粋にその拳足のみでもって迎え撃たねばならない。
それに震えが止まらなかった。
鍛え抜いてきたはずの己の身体が、幼子のように頼りなく思える。
その茜に悠里がゆっくりと歩み寄った。
硬直する茜へ、拳が突き出される。腕一つぶん離れた場所に。
「え……?」
茜は当惑する。
攻撃ではない。これは……手を合わせろと、そう言っているのだ。
茜は悠里の顔を仰いだ。
無機質にも思える瞳が茜を見据えている。
しかし、その奥にいるのはやはり悠里だ。悠里は悠里のまま、最後の戦いを挑んできたのだ。
その腰には黒い帯が結ばれている。
長らく茜の修練を見守り、その努力の汗を吸ってきた黒帯が。
( ……そうか…… この人、私なんだ )
茜は気がついた。
悠里は茜にとっての強さの象徴。
憧れ、目指しながらも、超える事など出来ないと心のどこかで諦めていたものだ。
その弱い自分を乗り越える。
それこそが、茜が武道を始めた本当のきっかけではなかったか。
そう思い至った時、茜の震えは止まっていた。
観衆のざわめきさえ聴こえなくなる。
もはや何を案ずる事もない。ただ、全てをぶつけるだけだ。
茜と悠里、そして見守る観衆の誰もが理解していた。
この全てを捧げたぶつかり合い、それで2人の戦いは終わりを告げると……。
静まり返った会場の中、息を呑む音だけが聞こえてくる。
あれだけ茜へ向けて降り注がれていた歓声が、悠里のただ一発の蹴りで掻き消えた。
「……これが力だよ、キャシー」
大柄なアメリカ女が、膝に乗せた娘の髪を撫でながら呟いた。
娘の方はリングでの壮絶な戦いに、言葉さえ失くしている。
圧倒的な力、というものを最も身に染みて感じているのは、他ならぬ茜だろう。
どれほど追い込んでも、それを一撃でチャラにしてしまうような破壊力。
理不尽極まりないが、今さらそれを言っても仕方ない。
茜はそれを充分に知った上で、悠里に並ぶことを望んだのだから。
茜は震える脚を叱咤しながら、少しずつ身を起こす。
熱湯のように熱い汗が、首筋から、胸元から、背筋から、体中を流れ落ちてゆく。
ぜっ、ぜっと息も随分と荒い。
焼けるような照明の下、真っ白な世界の向こうで悠里がコーナーに寄り掛かっている。
いつかと同じように。
しかし今度は、唇の端から血を流し、鼻からもやはり血を流し、確実に痛手を負っている。
やったのは茜自身だ。
充足感が茜の心に満ち始めた。あの悠里相手にここまでやれたのだから、と甘える気持ちだ。
だが、茜はそれを一蹴した。
それは逃げだ。脚の痛みに怖気づき、続行を怖がっているに過ぎない。
左足を踏みしめ、右足をその後方に添える。尋常でない痛みがふくらはぎに巡る。
思わず叫び出しそうな痛みだ。
だが悠里がコーナーを出るのを見たとき、茜は知らぬうちに両脚を踏みしめていた。
痛みは勿論ある。だがそれ以上に、「戦いたい」という気持ちが溢れた。
青葉より、アルマより、その他悠里と戦った誰よりも耐え抜き、このリングで初めて悠里に勝るのだ。
その夢が燃えていた。
※
悠里はコーナーに寄り掛かりながら、倒れた茜を見下ろす。
視界が二重三重にブレている。
パウンドを受け、後頭部を何度も打ちつけたのがまずかったのだろう。
グラウンドでの攻防で腹筋を酷使し、アバラの痛みもさらに増している。
折れた一本に隣接する骨までがヒビ割れだしたかのようだ。
鼻に血が詰まっているせいで呼吸もままならない。
その相乗効果で吐き気まで襲ってくる。
それら全てが、あの弱弱しかった茜からもたらされたダメージなのだ。
茜も強くなったものだ、と悠里は思う。
元より加減するつもりなどありはしないが、これはいよいよ気合を込めて迎え撃たねばなるまい。
悠里はそう覚悟を改め、ゆっくりとコーナーを後にする。
茜を相手に遠慮なく全力を出せるのが、彼女はひどく嬉しかった。
かつてサンドバックを蹴破ったあの日も、本当は茜と全力でやり合いたかったのだ。
客席から、おおっ、と感嘆の声が漏れた。
これまで半身の姿勢を基本としていた茜が、悠里に対して正対する構えを取ったからだ。
騎馬立ちでどっしりと腰を落ち着け、上下に反転したような手刀で正中線を隠す。
岩のような安定感を感じさせる厳かな佇まい。
格闘に疎い者でさえも、その有無を言わせぬ迫力には溜息をついた。
悠里も表情を強張らせる。
茜の静かな瞳から発せられる闘気が脳髄を焦がす。
一般に格闘家が放つ殺気とはまるで違う。それより遥かに純粋で、神々しい氣だ。
『武』というものを、この茜はよく身につけている。
面白い!
悠里はその“静”の茜に対し、“動”を以って対抗する。
きしっ、きしっ、とリングを軋ませて跳ね、身体の脇へ垂らした腕を握って、開いてを繰り返す。
通常、格闘において縦の体重移動はご法度だ。
地に足が着いていない状態では踏ん張りが利かず、容易に体勢を崩されてしまう。
しかし今の悠里を見て、隙があると考える人間はほぼいないだろう。
それほどの凄みがある。
効率であったり理屈であったり、そういったものを考察するのが馬鹿らしく思えてしまうほど、
その躍動的なスタイルは悠里によく似合っていた。
キュッ、という音を立てて、悠里の足裏がマットを蹴る。
そして見守る人間が一度瞬きを終えた時には、もう茜の目前に迫っていた。
驚愕が場を席巻する。
有り得ない速さ。まるで肉食動物が獲物を狙う初速だ。
その速さのまま、悠里は茜に飛び込んだ。
凄まじい速度の追い突き。だが茜は同じく放った突きで衝撃の方向を逸らす。
「はっ!」
弾かれた悠里は、そのまま殴り抜けるように茜の後ろに回り、振り返る勢いで裏拳を叩き込んだ。
茜は素早く向き直り、裏拳をスナップを利かせた鶴頭受けで弾き飛ばす。
悠里の腋が大きく開く。
茜がそこに掌底を叩き込むのと、悠里が死角からの膝を放ったのは同時だった。
打撃がぶつかり合う。
茜は掌底を出す右腕に左手を添え、かろうじて勢いを受け流しながらも後方に弾け飛ぶ。
岩のような安定感を持つ茜を、それでも力押しで弾き飛ばす悠里の強さ。
その人間離れした猛撃を、しかし上手く受け流し、いなす茜の技量。
どちらも尋常ではない。
『……な、何という動きでしょう、竜巻のように襲い掛かる正規王者、それを捌く暫定王者!
まるで早回しにした曲芸を見ているようです。
最高に噛み合った2人、互いが互いを刺激し合い、止め処なくギアを上げ続けている!!』
実況のコメントは場の驚きを代弁するものだった。
疾風怒濤の攻防に、黒山の観衆たちは瞬きも出来ずに目を凝らす。
「ゆ、悠里ってやっぱすげぇわ……!俺なら一生鍛えても、あんな動きできそうもねぇ」
「ああ。けど、それについてってる茜も相当だよな。地味だ、ってんで注目してなかったけどよ」
場の賞賛の声は二分されている。
その片方を浴びながら、しかし茜は、身を切り裂かれるような感覚の中にいた。
痛めた右足から、踏み堪えるたびに気の狂いそうな痛みが迸る。
腕もそうだ。スピードとパワーを研ぎ澄ました悠里の打撃は、上手く受けてもダメージが蓄積する。
そして決定的な差がスタミナだ。
悠里は攻撃の手を緩めない。
鼻が血で詰まり、呼吸を遮られている筈なのに、茜と同じく動き続けているのに、まるで動きに淀みがない。
無尽蔵の体力。そんな絶望的な言葉が茜の脳裏をよぎる。
(これが……先輩の、本当の強さ……すぐに倒された前の時は、覗けもしなかった領域……!!)
マラソンで離される時のように、圧倒的な実力差を思い知る。
その差が百倍にも千倍にも感じられ、惨めな気持ちが心にぶら下がる。
手が、足が重い。肺が息苦しさに軋む。
インターバルが、休憩が欲しい。
水を飲みたい。
そのような感情のピースを脳内に弾けさせながら、茜は必死に暴虐の斧を凌ぎ続けた。
だが、少しずつ、少しずつその牙城を崩されていく。
試合開始から31分46秒。
ついに捌きがぶち破られ、悠里のミドルキックが茜の腹筋に叩き込まれた。
「うごがぇお゛ッッ!!!!?」
茜は唾を吐き散らし、後ろ向けに倒れこむ。そして妙な咳き込みを繰り返した。
「グっ、…げぶ……う、うう゛んっ!……んォ゛ぼッ!!」
口をすぐに押さえるが、もう一度噎せた際に胃液が指の間から垂れ落ちる。
と、目の前に影が映った。
踵落としだ。
それは転がるようにして何とかかわすが、中腰の姿勢になった所で追撃のアッパーに捕まる。
さらに腹を抉られた。
「んんごおぁあ゛あ゛お!!!!!」
茜ももう堪らない。防御を完全に解き、夢中で腹を抱える。
血がリングに滴った。
皮膚が切れた、などというものではない。臓腑を損傷したゆえの深刻な吐血だ。
揺れる視界の中、駄目押しのフックが頬に叩き込まれる。
ごぎん、と音を立てる頬の骨。
茜はそのまま、投げ捨てられるように頭からマットに倒れ込んだ。
『く、崩れ落ちた!?茜選手、ついに!王者の連打に捕まってしまったッ!!』
会場にどよめきが起こった。
2つに割れていた歓声が、一度凍りつき、氷解の後に一つの方へ集束する。
「つ、強ええぇ……!やっぱ、やっぱ悠里が一番とんでもねぇよ!!!!」
「あぁ、ああ!茜も血ィ吐くまでよくやったけどよ!!」
悠里賛美の一色。
悠里のカリスマじみた強さは、何百人という人間の意見を無理矢理に自らの側へ引き摺り込んだのだ。
そのカリスマが倒れた茜の上で拳を突き上げると、会場が沸き上がる。
「おおおおおお、悠里ぃいいいい!!!!!」
「こっち向いてくれ、女王!!!!」
悠里の名を喉の奥から叫ぶ声。女王の肢体を眺める潤んだような視線。
それは洗脳とすら言って良いものだった。
だがその中で、茜の手がピクリと動く。リングを掴むように。
「…………ッ!」
それを真っ先に瞳で捉えたのは、ある意味で当然というべきなのか、悠里だった。
2.
悠里! 悠里! 悠里!
アリーナの天井がその歓声で埋め尽くされている。
当然だ、と茜は思った。
悠里は花形に相応しい。美しく、品があり、豪快でワクワクするような戦いを繰り広げる。
茜の価値観をがらりと変えたのも、他ならぬ悠里の戦いだ。
その悠里が人気を博す事に疑問はない。
自分など所詮、その華を引き立てる為の雑草に過ぎないのかもしれない。
それでも茜は身を起こす。燻る煙のように頼りない様で。
「お、おい、やめろ茜!お前もうマジやべえって!!!」
「病院行けよ、血ィ吐いてんだぞ!?」
悠里への声援の中、茜へ声が投げかけられる。
もっともだ。
勝ちの目が薄い事ぐらい、茜が一番身に染みて解っている。
疲労で視界はもうドロドロだ。
腕にも脚にも痺れが走り、口からは吐瀉物と血の入り混じった泡を吐き溢している。
エネルギーさえ、天日に干された雑巾のように枯れ果ててつつあった。
だが、まだ動ける。
「うううぅ……うあああぁぁぁああああ゛あ゛あ゛!!!!!!!」
俯いた茜の口から叫びが上がった。
自らを鼓舞する為であろうそれは、場に響く悠里へのコールを途絶えさせる。
うつ伏せから、正座に。正座から、片膝を立て。片膝から、直立へ。
悠里はそれを威風堂々と待ち受ける。
茜が構えた瞬間、悠里はこれで終わりだとばかりに豪快な後ろ回し蹴りを浴びせた。
腰を切って戦斧を叩きつけるような蹴り。
茜は、それを避け……なかった。それどころか、腕を十字に固めて暴風圏に飛び込む。
蹴りはその小さな肩に炸裂した。
「ん゛!」
茜の顔が歪み、痩身は大きく右に揺らぐ。
だがその足先は攻撃に向かっていた。
蹴りで身体が一転する勢いを利用し、逆に里の首筋へ左足を叩き込んだのだ。
「く、うッ!?」
悠里は素早く腕を割り込ませたが、己の蹴りの威力を流用したカウンターを殺しきれない。
「ぎいっ!!」
今度は悠里の身体が大きく傾ぐ番だった。
『カ……カウンター!』
実況席から驚きの声が上がる。しかし、まだ終わりではなかった。
茜は左の蹴りを引きつけ、伸び上がりながらさらに逆の脚を振り上げる。
悠里のローキックで破壊された右足を、だ。
茜はあえてその痛みの中心を叩き込む。
痛みという現実を以って、立ちはだかる幻想の壁を打ち破るかのように。
「破アァぁああ゛ッッ!!!!」
茜は歯を食いしばって膝を持ち上げ、膝下を引きつけ、そして、力の限り打ち込んだ。
音が響く。
研ぎ澄ました刀で空を一閃したような、淀みのない風切り音。
右足は、悠里のこめかみを蹴り抜いていた。
相手の強烈な蹴りを利用して左の蹴りを叩き込み、それすらをさらに利用しての右ハイキック。
折れた右足での根性の一閃。
「あ゛……!!!」
悠里の身体が大きくよろめく。
だが倒れない。目元を押さえたまま、歯を食いしばって直立を保っている。
何というしぶとさだ。会場が息を呑んだ。
しかし茜だけは静止しない。
まるであらかじめそれが解っていたかのように、歯を食い縛りながら脚を踏みしめ、身体の前に腕で円を描く。
「……シッ!!!」
鋭い息が吐かれ、悠里の身体にとどめの追撃が放たれた。
ドッ、ドドン。
臍、水月、喉。人体の急所が並ぶ正中線を、目にも止まらぬ三槍の突きが貫く。
「……か、ふゅ……っ!」
急所を抉られ喉を潰された悠里は、とうとうその強靭な脚を折って横ざまに倒れこんだ。
リングが揺れる。
その中で茜も膝を突く。瞳からボロボロと痛みの涙を零して。
情けない姿だが、その涙を笑う者はいない。
右足の負傷を抱えながら、ただ根性だけで悠里を倒しきった茜。
倒れたまま動かない悠里。
「…………か、勝った……のか……!?」
「ウソ……だろ。…………ゆ、悠里が……?」
急転した死合模様に、ただ驚愕だけが波紋となって広がった。
涙で霞む視界に、白いライトが万華鏡のようにちらつく。観客のざわめきが聴こえる。
意識の遥か上方で。
ダウンしたのか……悠里はそう理解した。
茜の静を、動をもって叩き潰そうとした結果がこれだ。
押しの力には自信があった。ピンチは幾度も訪れたが、その度に力でねじ伏せてきた。
それがさらに押し切られるというのか。練磨に練磨を重ねた、茜の技に。
口惜しい。
だが、悠里は納得もする。
もしも自分を打ち倒すものがあるとすれば、それは純粋な努力の結晶だ。
茜のようなひたむきな武こそが、超常のものを倒すに相応しい。
悠里は心のどこかで常にそう思っていた。
あるいは、茜を初めて見た時に抱いた衝撃は、いつの日か自分を倒してくれる事を期待してのものであったのかもしれない。
白人少女を殺めて以来、長らく悠里の中に棲み続けてきた化け物、『カーペントレス』を。
……ならば今度ぐらい、あの可愛い後輩に甘えてみよう。木こり娘の全てをもって。
悠里が立ち上がる。
油断なく身構えた茜は、その敬愛する女性の目を見て息を呑んだ。
静かな瞳。
いつものギラついた眼ではもはやない。
獣が獲物を仕留める際に見せる、吸い込まれるほどに静かな瞳だ。
「ユーリ……とうとう、最後にするんだね?」
大柄な女ボクサーが表情を強張らせる。
「カーペン…トレス……!!」
令嬢然とした柔道家が顔を顰める。
「ついに、クライマックスですわ」
褐色肌のタイ女が笑う。
「…………!」
可憐なプロレスラーが、珍しく真顔になって身を乗り出す。
無数の視線が見守るリングで、茜は微かに身を震わせていた。
悠里への恐怖心が“消えた”のだ。
その事が逆に、最大の恐怖となって茜を襲う。
恐怖心があればこそ、相手の行動で起こる最悪の結果が思い浮かんだ。
その勘を元に行動を選べた。
だがそんな恐怖心さえ感じられなくなるほどに、今の悠里のプレッシャーは凄まじい。
ある意味、茜の最大の強みだったものが殺された形だ。
もはや頭は役に立たない。
茜はこの強大な女王を、今度こそ純粋にその拳足のみでもって迎え撃たねばならない。
それに震えが止まらなかった。
鍛え抜いてきたはずの己の身体が、幼子のように頼りなく思える。
その茜に悠里がゆっくりと歩み寄った。
硬直する茜へ、拳が突き出される。腕一つぶん離れた場所に。
「え……?」
茜は当惑する。
攻撃ではない。これは……手を合わせろと、そう言っているのだ。
茜は悠里の顔を仰いだ。
無機質にも思える瞳が茜を見据えている。
しかし、その奥にいるのはやはり悠里だ。悠里は悠里のまま、最後の戦いを挑んできたのだ。
その腰には黒い帯が結ばれている。
長らく茜の修練を見守り、その努力の汗を吸ってきた黒帯が。
( ……そうか…… この人、私なんだ )
茜は気がついた。
悠里は茜にとっての強さの象徴。
憧れ、目指しながらも、超える事など出来ないと心のどこかで諦めていたものだ。
その弱い自分を乗り越える。
それこそが、茜が武道を始めた本当のきっかけではなかったか。
そう思い至った時、茜の震えは止まっていた。
観衆のざわめきさえ聴こえなくなる。
もはや何を案ずる事もない。ただ、全てをぶつけるだけだ。
茜と悠里、そして見守る観衆の誰もが理解していた。
この全てを捧げたぶつかり合い、それで2人の戦いは終わりを告げると……。