※腹責めモノ。苦痛系&嘔吐注意。


『不沈の無神経女』。
それが、女子ボクサー・細貝理緒奈のニックネームだ。
相手選手や観客に対し、配慮のない発言を繰り返す様……だけが由来ではない。
理緒奈が、『痛みを感じない人間』でもあるからだ。
彼女はボクサーとしてデビューして以来、ボディで倒れた経験がない。
そればかりか、苦悶の表情を浮かべた事さえない。
どれほどボディを打たれ続けようと、締まりのない笑みを浮かべたまま相手を蹂躙する。
いかにフライ級のパンチといえど、その様は異常極まるもので、過去には幾度も薬物使用の疑いがかけられた。
しかし、検査で異常は出ていない。
ゆえに理緒奈は“無痛覚症”なのか、と噂されている。

種明かししてしまえば、理緒奈は無痛覚症ではない。
世間が暗黙の内に疑っている通り、試合のたびにドーピングを施している。
仕掛け人は、理緒奈のセコンドである谷内。
スポーツ医学の権威でもある彼の開発した薬が、理緒奈に異常な耐久力を与えていた。
谷内の薬は、摂取した者の交感神経を刺激する。
結果としてアドレナリンの過剰分泌が起き、選手の痛覚を劇的に鈍らせる。
試合中のボクサーが一般的に分泌するアドレナリンの6倍もの量だ。
そうなれば、たとえ車に撥ねられようとも痛みを感じない。
品性と引き換えに、一切のダメージを無視できる体となる。

何人ものボクサーが、このペテンの餌食となってきた。
数知れぬ努力の結晶を踏みにじり、理緒奈は今宵、とうとうフライ級のベルトを獲りにかかる。
日本中の大多数が、王者による返り討ちを期待している事だろう。
『ストイック・ヴィーナス』弓木麗佳……。
アイドル級のルックスを有しながらも、比類なきストイックさで自らを鍛え続けてきた古強者。
その試合内容に博打性はない。どのような相手にも、ボディ打ちを基本とした堅実なボクシングをする。
それはまさしくボクサーとしてのあるべき姿であり、ボクシング界の最後の良心ともいえた。

「調子に乗んなよ、このマグロ女!」
「お前なんかが麗佳さんに敵うもんかよ! 選手としての厚みが違わぁ、厚みが!!」
「麗佳ー、そのガキにボクシングの怖さ教えてやれー!!」

途切れることのない怒号が、四方からリングに浴びせられる。
理緒奈はコーナーに背を預けたまま、トップロープ越しにグローブを突き出す。
親指を下にした、『地獄へ堕ちろ』の形で。
ブーイングがいよいよ苛烈さを増し、ドームに響き渡った。
実にふてぶてしい態度だ。半目の柄の悪い目つき、締まりの無い口元。
鎖骨までのダークブラウンの髪は、その性格を示すように緩くカーブを描き、先端のみ淡い朱に染まっている。
体型は至って普通。ただし、“ボクサーとしての普通”ではない。“一般人としての普通”だ。
腹筋はたるみこそ無いが、割れている様子も無い。
その辺りを歩いている女子校生のセーラー服を捲り上げたような、平々凡々な腹部だ。
とても、タイトルマッチに挑めるような肉体には見えない。

その点で言えば、麗佳などはまるで違う。
腹筋はしっかりと六つに割れ、側筋が実に美しい。
手足もアスリート特有のエッジの利いたもので、けれども女性らしさが損なわれていない。
顔立ちは完全にハーフのそれで、化粧栄えのするものだ。
癖のない黒髪は邪魔にならないよう後ろで括られており、実にスポーティーな印象を与える。
どこを取っても優等生という風で、全く嫌味が無い。
常に喧嘩を売り続けるような理緒奈とは、なるほど好対照といえた。

「タイトルマッチだからと言って、気負う必要はないよ。いつも通りにやりなさい」
谷内は理緒奈の額の汗をタオルで拭いながら、淡々と告げる。
理緒奈は、その忠告を聞いているのかいないのか、小馬鹿にするような表情で対面の麗佳を眺めている。
セコンドアウトが命じられ、リング中央に歩み出る間にも、その表情は変わらない。
「ここで負けて、身の程を知りな。小細工で取れるほど、ベルトってのは軽くないんだよ」
麗佳は静かに告げた。
記者からのインタビューには模範的な回答しかしてこなかった彼女だが、内心では思うところがあったらしい。
しかしその決意をぶつけられても、理緒奈の笑みは消えない。
「残念だけど、無理矢理もぎ取っちゃうから。勝てるわけないじゃん、今のあたしに」
妙にギラついた瞳は、完全に薬物中毒者のそれだった。



かくして、ボクシングの威信を賭けた一戦は始まった。
理緒奈は開始直後にビーカブースタイルを取る。
グローブを噛むような鉄壁の頭部ガード。頭は打てないぞ、さぁ腹を打て。そう誘っているかのようだ。
麗佳はボディ打ちの名手と名高く、本人にその自負もあろう。当然、狙いに行く。
「シッ!」
電光石火。相手の正面に踏み入った次の瞬間、右膝を深く沈めて斜め40度の角度でフックを抉り込む。
ドッ、という鈍い音が、観客席後方にも届いた。
リング上で幾度となく叩き込まれてきた、肝臓直撃の殺人ブロー。
それをもろに喰らった相手の反応は皆同じだ。顔を歪め、体をくの字に折って膝をつく。
しかし……理緒奈は違う。
「ふふっ」
両グローブの端から笑みを覗かせ、挑発するように麗佳の瞳を覗きこんでいる。
「くっ……!」
麗佳が表情を強張らせた。噂には聞いていても、実際にパンチが効かないとなると別物らしい。
特に彼女は、直に殴った事で気付いたはずだ。
理緒奈の腹筋が、事実として柔な事に。
脂肪に隠されたしなやかな筋肉……ではなく、素人の腹筋も同然ながら、ボディブローが効かない。
その異常性にはオカルトめいた怖さがあるだろう。
とはいえ、麗佳も歴戦の猛者だ。特殊な相手と戦うのは初めてではない。
一発で倒れないのなら、二発。二発で倒れないのなら、三発。三発で無理なら……百発でも。
相手が限界を迎えるまで殴り続ける覚悟が出来ている。

「フッ、シィッ!……シッ、フゥッッ!!」
麗佳はボディを打ち続けた。
鋭い息を吐きながら、あらゆる角度から、緩急を織り交ぜて。
後のビデオ映像によれば、丸2ラウンドの間、ほぼ2秒に一発という頻度で攻撃がなされていたそうだ。
当然、理緒奈の腹部には変化が表れた。
刻一刻と赤い痣が広がり、繋がりあい、特に良く打たれた部位は赤黒く染まっていった。
そのダメージは放送打ち切りが検討されるほどの凄惨さで、過度の損傷を理由にTKOが宣告されてもおかしくなかった。
そうならなかったのは、憎き理緒奈がさらに苦しむように、という目論見もあったのだろう。
しかしそれ以上に、理緒奈自身が僅かにも闘気を萎えさせていない事が大きい。
「フーッ……フーーッ…………」
理緒奈は、いよいよ病的にギラついた瞳で麗佳を観察していた。
獲物が弱ったところへ襲い掛からんとする獣のように。
「はっ……はぁっ、はぁっ、はぁっ………………!!」
いつしか息の荒さは、攻める麗佳の方が酷くなっていた。
2ラウンドの間打ち続けだった疲労もあるのだろうが、それ以上に精神的な消耗が激しいのだろう。
深呼吸の合間に見られる、左目尻の痙攣……それが麗佳の動揺を如実に表していた。

転機は、3ラウンド中盤に訪れた。
それまで何十と打ち込まれてきた麗佳のフックが、理緒奈の左グローブに弾き落とされたのだ。
疲労の蓄積で甘く入ってしまったのだろう。麗佳は容易に体勢を崩し、体を開いてしまう。
「っ!」
麗佳が顔色を変えた。
男をそそる絶望の表情。
勘の鋭い女性だ、その表情は、自らの置かれている危機的状況を正確に把握した結果だろう。
ドッ、と鈍い音が響き渡った。
疲労を全く感じさせない、憎らしいほどに綺麗なフォームのフック。
それが深々と麗佳の腹部に沈み込んでいた。
「っがァ…………!!」
麗佳の反応は生のものだ。
目を見開き、口を半開きにして苦悶を表す。
体はくの字に折れ、腕で腹部を庇いながら力なく後退する。
『お、おいおい……効かされたのか!?』
『いや、ありえねぇだろ。麗佳の鋼のストマックだぜ……』
観客席からざわめきが漏れた。
麗佳の耐久力は、同階級の中でもけっして低い方ではない。
しかし疲労が溜まった状態でのボディ打ち、それもほぼカウンターで喰らっては、平静ではいられないらしかった。
理緒奈は渾身の一打を打ち終えた後、静かに構え直す。
ビーカブーではなく、ほぼノーガードに近い構え。もはや守りを固める必要なしという意思表示だろう。
そもそも、力なく後退する相手に追撃しない時点で、舐めた態度と言わざるを得ない。

「へーぇ……フツーはボディ喰らったとき、そういう反応するんだ、チャンピオンでも。
 明日からはアタシがチャンピオンだから、参考までに覚えとくよ。
 って言っても、アタシにはそんなみっともないマネ、とても無理だけど」
理緒奈は挑発の言葉を投げかける。
誇り高き王者として期待を受ける麗佳は、その挑発を受け流せない。
「煩い!」
短く叫ぶと、足を使って一気に理緒奈との距離を詰めた。
無論、ただ近づくだけではない。ようやく覗いた相手の顎に向けて、踏み込みつつの右ストレートを放つ。
しかし、その動きは万全ではなかった。疲労と腹部のダメージが、1割ばかり彼女のスピードを奪っていた。
ほんの1割、されど致命的な1割。
理緒奈は上体を傾けて悠々とストレートをかわしつつ、斜め下から突き上げるように右拳を振り上げる。
ドッ、と先ほどより重い音がマイクに拾われた。被弾箇所は臍の真上だ。
「うう゛---っ!!」
絶望的な呻き声が上がる。アイドル顔負けとされる桜色の唇から、漏れだした声。
『うわぁあーーっ、麗佳ぁっ!!』
どこからか悲痛なファンの声が響き渡る。
その直後、二度目の悲劇が襲った。動きを止めた麗佳に対し、理緒奈が返す刀の左拳を抉り込んだのだ。
防御を捨てた代わりに、相手を痛めつける技術だけは面白半分に鍛え上げたのだろう。
二発目の理緒奈の左拳は、一発目と寸分違わぬ場所……麗佳の優美な臍の真上を抉り上げた。
不意を突かれて力を込め損ねたのか、それとも疲労で力が入らないのか。
6つに割れた健康的な腹部には、理緒奈のグローブが半ばほども沈み込んでしまっている。
『そんな…………!!』
観客の声が先に響き渡った事を考えると、実被害までには一瞬の猶予があったのだろう。
「おご、っが…………ァ………………!!!!」
麗佳はとうとう、顔一面に苦悶の余波を広げた。
目はこれ以上なく大きく開き。
口は女の拳がそのまま入ろうかというほどに開かれ、舌と下部の歯並びを綺麗に覗かせ。
たとえば四肢の一本を失うときでも、人間はもう少しまともな表情をしているのでは。
そう思わせるほどの壮絶な顔つきだった。

ダ、ダン、と耳障りな音がドームに響く。
それは麗佳の右膝、そして左膝が、わずかな時間差でマットに叩きつけられた音だ。
「ダ………………ダウン!!」
レフェリーが、苦虫を噛み潰したような表情で宣言する。
彼も、本心では麗佳の側だろう。ボクシングに真摯な麗佳が、不真面目な理緒奈に制裁を加える事を望んでいるのだろう。
しかし現実には……自らの言葉で、英雄の不利を告げているのだ。なんという皮肉だろう。
『ひぃいいっ、立ってくれぇ麗佳!!』
『う、ウソだろ! あんなに鍛えまくってるの、テレビでやってたじゃねぇか。効かねぇよなあ、なぁ麗佳っ!!』
狂乱が場に渦巻いていた。
その状況を、ニュートラルコーナーの理緒奈は満面の笑みで眺め回す。
「ひひひ、啼いてる啼いてる…………」
デビュー戦で期待のホープを血塗れにして以来、理緒奈には常にブーイングが付き纏ってきた。
そして、それを完勝で黙らせる事を、全ての試合でやり遂げてきた。
今回もそれは同じ。そして今日それが為された時、自分は全国一の強者という称号を得るのだ。
笑いが止まらないというものではないか。
「うう、ぅふぅううぅぐっ…………うふぅっ………………」
麗佳はカウント5が過ぎても、左手で腹部を押さえ、右手でマットを掴みながら這い蹲ったままでいた。
青コーナー最前列からなら、腕の間の表情が覗ける。
右目は閉じ、左目はやや上を向いており、口からは3本の濃密な涎の線がマットと繋がっていた。
目頭から鼻の横を通って流れ落ちる涙の線が、妙に女性らしさを感じさせた。
もう無理なのでは……表情を見た人間の何人かは、早くもそう感じたらしい。

しかし、麗佳はカウント8でマットを押しのけて跳ね起きる。
ボクサーとしての性か。たとえ内股気味であろうとも、確かなファイティングポーズを取る。
『おおおっ、あっさり立ったぞ!?』
『わざとカウント8まで休んでたって訳か。流石だぜ!!』
客席から歓喜の声が上がる。レフェリーもまた安堵の表情を浮かべた。
「ボックス!!」
その掛け声で、闘いが再開される。
肉体的損傷は、比べるまでもなく理緒奈の方が大きい。
しかし現実に表情を歪めているのは麗佳の方だ。
その不釣合いさが、理緒奈というボクサーの異常性を改めて観客に認識させる。
恐怖からか、その余裕すらなくなったのか、いつしか理緒奈へのブーイングは聴こえなくなっていた。
代わりに、希うような悲痛な麗佳への声援ばかりが搾り出されている。
「はぁっ!!」
麗佳はそれに応えようとする。応えることを義務付けられている。
しかし、その動きはいよいよ精彩を欠くものとなっていた。

理緒奈は余裕ある動きで麗佳の攻撃をかわしつつ、積極的に攻勢に出る。
最初の2発で麗佳の動きを止めた後は、小気味良いリズムで左右のフックを繰り出していく。
「ウっ、くぶっ、ン、う゛っ…………!!」
麗佳は左右の脇腹に叩き込まれるフックを受けてよろめき続けた。
そしてコーナーに追い込まれる寸前、尻餅をつきそうになるのをロープに手を掛けて防ぐ。
しかし、素直にダウンしていた方がまだ良かったのかもしれない。
眼前に迫る理緒奈に対し、麗佳はその痛んだ腹部を晒す格好になったのだから。
ギヂッ、とロープが痛々しく軋んだ。
中心から大きくしなったロープ。しならせているのは、腹部に痛烈なストレートを叩き込まれた麗佳だ。
打ち込みは今度も絶望的に深い。
「むぐぅっ………………!!」
右頬の奥を噛みしめ、凛とした表情で前方を睨み据える麗佳。
しかし一見力強いその視線は、どこか焦点がおかしい事に気付くだろう。
強靭なロープが元に戻り、麗佳の肉体を理緒奈の拳に押し付ける方向へと作用する。
そこに生まれるエネルギーを前に、麗佳の体内は耐え切れなかった。
「ぶふゅっ」
その小さな破裂音が麗佳の唇から漏れた。
続いて、しかと引き結ばれていた右唇から、一筋の液体が零れ落ちる。
白いそれは、初めは唾液かと思われた。しかしその一瞬後、誤魔化しようもないほど濃い黄線が上書きされる。
『きゃーっ、吐いてるっ!!』
『うっわマジかよ!?』
『オォイ、マスコミは映すのやめてやれよ、あんなトコよ!!』
場が一気にざわついた。
『ストイック・ヴィーナス』弓木麗佳の嘔吐。そんなものは、今まで有り得なかった。
スクープ性こそあるだろうが、けして公の場に晒されてはならないものだった。
なにしろ、アイドル顔負けのルックスを持つ日本チャンプだ。その広告塔の放送事故など、あってはならない。
数台のカメラが慌てて中継を切る中、麗佳はさらに幾筋かの吐瀉物を吐き出していく。

理緒奈は、それを冷静に観察していた。
そしてちらりとセコンドの合図に目をやった後、追撃として拳を放つ。
しかし、力はない。拳は、軽く麗佳の顎を叩く。失神さえしない程度の軽さで。
『え…………?』
麗佳と観客が、一様にその行動に疑問符をつける。
ヒントは理緒奈の表情にあった。麗佳を見下すような、嘲るような表情に。
そう、彼女は舐めているのだ。本来ならここで仕留められた、けれども慈悲で活かしておいてやる……そう言っている。
その真意に気付いた瞬間、誇り高い王者は激昂した。
「っあ゛あぁ゛ぁ゛っっ!!!」
荒々しい咆哮と共に理緒奈に殴りかからんとする。
しかしその動きは、あろう事かレフェリーによって遮られた。
「くッ!?」
なおも暴れる麗佳に、レフェリーは同じ言葉を繰り返す。
「…………まれ、止まれ! 弓木、ゴングだ、止まれ!!!」
その言葉を認識した瞬間、麗佳は唖然とした表情で動きを止めた。
試合中にゴングを聞き逃すなど、初めてのことだ。
理緒奈の嘲笑が響き渡った。
「あっはっはっ! 基本ルールぐらい守ってよね、チャンピオン。
 あとゲロ臭いから、ちゃんと口ゆすいで次始めてよ?」
タブーに躊躇なく踏み込みながら、『不沈の無神経女』理緒奈はコーナーに戻っていく。
場は完全に彼女に掌握されていた。
観客席から失意の溜め息が漏れたのは、けして気のせいではないだろう。


この試合における麗佳の戦いぶりを、蔑むファンはいないだろう。
チアノーゼの症状をありありと顔に浮かべながら、麗佳は果敢に前へと出続けた。
ポイント勝ちに逃げず、あくまで理緒奈の強みである腹筋を攻略して勝とうとする。
それはボクサーとしての、いや人間としての尊厳に満ちた姿だった。
しかしその勇敢さが、麗佳を刻一刻と崩壊へ導く。

6ラウンド中盤、状勢は決定付けられた。
それまで懸命に打ち合いに応じていた麗佳の拳が、むなしく空を切る。
入れ替わりに理緒奈の強烈な一撃が入った。
縦拳の形で接触し、内へと捻り込むように打つ、コークスクリューブロー。それが麗佳の下腹部に突き刺さる。
麗佳の身体がよろめいた。
ロープへ肩を預けるように倒れ、目を半開きにしたまま、グローブで腹部を押さえている。
明らかに様子がおかしい。
「弓木、大丈夫か? ……弓木?」
レフェリーが麗佳の顔を覗き込み、はっとした表情を見せる。
「ふう゛っ…………!」
麗佳は涙を零していた。
優美な顔をこれ以上ないほど歪め、止め処なく涙を零していた。
黒い瞳に宿るのは絶望。自らの身体ゆえに、現在の損傷の度合いもよく解るのだろう。
それでも、諦めない。
ほとんど立っているのがやっとの状態。両の脚を痙攣させながらもなお、麗佳はファイティングポーズを取る。
「やれるのか、弓木!?」
レフェリーは縋るような声で告げた。
本来であればストップも已む無しという状況にありながら、麗佳の勝利を諦めきれない様子だ。
「う……うぅ…………ぁぁ…………あ!!」
麗佳はその期待に応え、猛然と前へ突き進む。
しかしその道の先には、獰猛な肉食獣が大口を開けて待ち構えていた。

麗佳のファン達は、幾度同じ光景を目にしただろう。
麗佳の研ぎ澄まされた打撃が防がれ、逆に理緒奈の拳が優美な腹筋に叩き込まれる光景を。
スタンスを広く取り、十分に力を乗せてのボディ。
それは、麗佳の片足を僅かにマットから浮かせるほどの威力があった。
「う゛っ、ぐぅう゛うっっ!!!」
もはや麗佳に声を抑える余裕などない。
凄絶に顔を顰めながら倒れる麗佳は、その勢いで仰向けに寝転がる。
「はっ、はひっ……ひっ…………!!」
形のいい胸を病的なほど上下させる、痛々しい寝姿だ。
「ダウン!」
レフェリーが苦々しく宣言し、理緒奈へコーナーに戻るよう指示を出した。
しかし。
「ったく、しつっこいなぁ」
理緒奈は苛立ちも露わに告げ、麗佳の傍らに歩み寄る。
「何をしてる。早くコーナーに…………」
レフェリーがなおも告げた、直後。
「さっさと…………落ちろ!!」
理緒奈のグローブが振り上げられた。狙いは、無数の赤い陥没が残る王者の腹筋。
「ッ!? よせっ!!」
レフェリーの空しい叫びと同時に、拳は風を切る。
鈍い音が響き渡る。
そのとき、場の皆が目撃した。六つに割れた麗佳の腹筋へ、グローブが根元まで埋没する様を。

「…………ごっ……ッォぉおおお゛っ…………ッあ………………!!」
えづき声と共に、麗佳のすらりとした右脚が宙へ投げ出される。
焦点を定めず見開かれた瞳、舌を突き出した大口……深刻なダメージが表情から見て取れた。
「ッハァ!」
嬉々として2打目を狙う理緒奈。
それを、レフェリーが突き飛ばすようにして止める。
「もうやめろ! ダウン後の攻撃は反則だ!!」
ロープ際で指を突きつけて注意を与えるが、理緒奈の顔に反省の色は見られない。
レフェリーは思わず減点を宣告しようとする。

そのやり取りの最中、レフェリーの背後では、王者の最後の意地が燃えていた。
腹部を抱えて苦悶しながらも、麗佳は徐々に身体を起こす。
「負け………………る……か………………ッ!!!」
完全に2本足での直立を成した瞬間、麗佳は猛然と駆けた。
レフェリーを押しのけるようにして、全力で拳を突き上げる。
執念の拳は、見事に理緒奈のボディに突き刺さった。
「んっ」
理緒奈が小さく呻く。
さらに一撃、さらに一撃。理緒奈の身体は左右に揺れ、観客席から歓声が沸き起こる。
効いていない筈がない。死力を振り絞った麗佳の連打は、そう思わせるほどインパクトのあるものだ。
けれども理緒奈は、その連打の中で反撃を試みた。
鋭いフック。麗佳は素早く後ろへ下がってそれをかわし、しかしそこで呼吸の限界を迎えてしまう。
「ハッ……はっ、はっ…………ハァッ、はぁあっ…………!!」
顔中に汗を浮かべ、苦しげな呼吸を繰り返す麗佳。
理緒奈は口元に笑みを浮かべ、悠然と歩を進めて彼女に止めを刺そうとする。
しかし、ここで初めて理緒奈に異変が起きた。
歩みだした足がもつれ、そのまま膝から崩れ落ちたのだ。
「ダ……ダウン!」
レフェリーが信じがたいという様子で叫ぶ。客席からの歓声はいよいよ会場を揺るがす程のものとなる。
それもそのはず。これが理緒奈のキャリアにおいて、初のダウンなのだから。
やはり麗佳はこれまでの相手とは違う。ならばこのまま、逆転もありえるのでは。
理緒奈がキャンバスに膝をつく光景は、観客にそうした希望を持たせるに十分なものだった。
けれども……現実は残酷だ。
大多数の人間がどれほど切実に願おうと、結果を決めるのは事実の積み重なりでしかない。
勝利を期待される麗佳に、もはや追撃の余力はなく。
敗北を期待される理緒奈は、生涯初のダウンを奪われた屈辱で、その相貌を獣のように歪める。
「…………よくも………………この……このォアマアァァアッッッ!!!」
理緒奈が吼え、ヒステリックな音を立てながら麗佳に迫った。
「くうっ…………!!」
麗佳はとうに力の全てを出し切っており、構えを保つだけで精一杯だ。
力ないガードは怒り狂う理緒奈の拳によって突き崩され、悪意の塊が臓腑を抉る。
割れんばかりだった歓声がぷつりと途絶えた。
「ごあ゛っ!!!」
痛々しい悲鳴が響き渡る。
麗佳の腹筋は、すでに内臓を守る鎧としての用を為さない。
ただ薄いだけの柔肉となって、暴虐の拳がもたらす衝撃をそのまま内へ伝えてしまう。
「お゛っ、おう、う゛んっ!!」
腹部への連打を受けて後退を続ける麗佳の体は、ついにコーナーへと追い込まれた。
いけない―――!
誰もがそう思っただろう。そしてその直感の通り、そこから王者への残虐な処刑が始まる。

「ぐごぉおお゛あえ゛っ!!!」
拳が深々と腹部へ埋没し、麗佳は喉を潰したような叫びを上げる。
あまりの苦痛に身を捩って逃れようとするが、コーナーに追い込まれては碌に身動きが取れない。
理緒奈の片手で首をコーナーに押し付けられ、もう片手で連打を浴びる。そればかりだ。
「がぁおおお゛ぼっ!!!」
王者の肉体が痙攣し、マウスピースが口から零れ出た。
唾液を纏いつかせたマウスピースは、キャンバスを空しく転がりまわる。まるで、応援する者の感情のように。
本来であれば、即座に試合を止めるべき一方的な展開だ。
しかし、それは麗佳の負けを決定付ける事を意味する。
誰もが麗佳の負けなど望んでいなかった。それがあってはならないと思い続けてきた。
ゆえに、レフェリーも判断に迷う様子で状況を見守っている。
誇り高い王者の公開処刑を。

理緒奈の拳は雨あられと降り注ぎ、元より傷ついている麗佳の腹筋を徹底的に叩き潰した。
ボゴリボゴリと腹が蠢く様からして、表皮だけという事はありえない。
恐らくは内臓までが、跳ね回る水袋のように蹂躙されている事だろう。
「ごお゛っ、おぼぇ゛ええ゛っ!!! があ゛っ、ごッ、おぶぇっ……!! お゛っ、ぉおおお゛お゛お゛っ!!!」
泣き崩れるような麗佳の表情からは、感情を読み取ることができない。
王者としての屈辱か、それとも単純に、死に瀕する者としての恐怖か。
間近で見守るものには、麗佳の美しい腿を、黄金色のせせらぎが伝い落ちていく様が見て取れた。
それはやがてキャンバスに滴り、より多くの肉眼とカメラに捉えられる。
左右の拳は、それでも麗佳の腹部を叩き続けた。
麗佳はただ、その美しい脚を強張らせ、シューズで空しくキャンバスを擦るばかりだ。
その無力な有様は、スラムの路地裏で強姦される娘と何も変わらない。
『同階級の男性ランカーより強いのでは』……そう噂されたフライ級絶対王者は、そこにはいない。
「らあぁっ!!!!」
理緒奈が殊更力を込めて打った一撃が、強かに麗佳の腹部を抉る。
「お゛、げぼ、がっ…………あ゛げ…ごぼぉ゛…………………っっ!!!」
その一撃で、とうとう麗佳は人の姿を失った。
見開かれた瞳の中で、天井のライトを凝視するようにぐるりと黒目が上向く。
身体中の痙攣がとうとう頚部にまで行き渡り、顎と、頬が膨らみ、一秒後。大量の吐瀉物が吐き出される。
その様を見て客席から悲鳴が上がり、レフェリーが頭上ですばやく両手を交差させた。
ゴングがけたたましく打ち鳴らされ、強制的な試合の幕引きを世に示す。
その瞬間、理緒奈は拳を止めて高く振り上げた。
暴虐からようやく開放された麗佳の肉体が、理緒奈に縋りつくようにズルズルと崩れ落ちる。
理緒奈はそれを汚らしそうに押しのけ、麗佳を文字通り“キャンバスに沈めた”。
自らの吐瀉物に塗れながら、尻だけを高く突き上げ、乱れた黒髪を放射状に拡げる醜態。
それは、レフェリーや観客達の理想が敗北した姿だ。

「はっはっはっはっは! さて、あたしがこいつに敵わないとか、ボクシングの怖さ教えてやるとか言ったお馬鹿は誰?
 必死に必死に、極限まで教科書通りの鍛え方した結果、あたしに全く歯が立たなかったねぇ!
 これで分かったでしょ、このあたしが、ボクシングの常識なんかより遥かに上だって事がさぁ。
 このミジメなザマをよーく目に焼き付けときなよ。あんたらの硬い頭が祀り上げた、スケープゴートの成れの果てをさ!!」

理緒奈は拳を振り上げながら、目に映る全てを侮辱し続けた。
絶望の溜め息、すすり泣く声…………それが場内を覆いつくしていた。
「ふふ、くくくっ…………くっくっくっくっく………………!!」
ただ1人、理緒奈のセコンドである谷内の忍び笑いを除いては。





その日の深夜。
一夜にしてヒーローとなった少女は、ショーツ一枚という姿で拘束されていた。
手足には鎖で繋がれた枷を嵌められ、凧のように身を開いている。
窓のない部屋は極めて無機質だ。
少女と男が一人、カメラが一台…………その殺風景さが、異様な雰囲気に拍車を掛ける。
「さて。心の準備はいいかな、女子フライ級新チャンピオン」
男……谷内は、何とも愉快そうな口調で切り出す。
一方の理緒奈は、そんな彼を敵意むき出しの視線で睨み据えていた。
「やるならさっさとしなよ、ゲス野郎」
理緒奈から悪意ある発言をされても、谷内は微塵も動じない。
「そうだな。私もいい加減、お預けの限界だ」
涎も垂らしそうな言い方でそう告げると、懐からひとつの錠剤を取り出す。
理緒奈から痛みを奪った薬の、解毒剤だ。
「さ、口を開けなさい」
谷内は理緒奈に命じ、開かれた口の中に解毒剤を放り込む。
ごくり、と理緒奈の喉が鳴った。
そこから、ほんの数秒後。理緒奈の雰囲気が変わる。
「…………あれ………………あ、あたし………………?」
そこにいるのは、理緒奈と同じ肉体を持ちながら、リングでの理緒奈ではないもの。
膨大なアドレナリンに支配されていない、臆病で繊細な少女だ。
「落ち着いてきたようだね。今の気分は、どうだい?」
谷内は、ひどく優しい口調で語りかける。
しかし理緒奈の瞳に映る表情には、一かけらも情らしきものが見当たらない。
それは、薬を投与したマウスを見守る研究者の目だ。
理緒奈は優しげな垂れ目を惑わせ、素人そのものの肉体を震わせはじめた。
薬が解毒されれば、まずは攻撃的な気分が消え、その後1分ほどで麻痺していた痛みが感じられるようになる。
リングの上で感じているはずだった痛みが、全て襲い掛かってくる。

「あ、あたし……こっ、怖い。ドクター。あたし、怖くて、たまらない!
 あのチャンピオンの人、ものすごく鍛えてた。凄く強かった」
「ああ。強かったね」
「あたし、そんな人のパンチを、避けずに何発も何発も受けちゃって…………
 最後の方には、意識とは無関係に膝までついちゃった。
 あたしの身体、どれだけボロボロになってるんだろ。どんな痛みが、この後来るんだろ。
 ね、ドクター…………あたし、死なないよね? この後も、生きてられるよね!?」
「……ああ、大丈夫だ理緒奈。おまえの脳は、痛みの許容力が極めて大きい。
 だからこそ、実験のパートナーに選んだ。
 だからこそ、あの捨て置けば死んでいた状態から、二度目の生を与えたんだよ」

理緒奈と谷内の会話はそこで途絶えた。
谷内は嬉しげに笑みを深める。逆に理緒奈は、恐怖で顔を歪ませた。




「ああぁぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっ!!!!」
咆哮とも呼ぶべき、凄まじい悲鳴が密室に響き渡る。
手足を繋ぐ鎖が煩く鳴り散らす。
痣だらけの理緒奈の腹部が、ひどく蠢いていた。
痛みを感じたゆえの反射的な反応なのだろうが、傍目には不可視の何かに殴打され続けているように見える。
「あがあぁあああ゛っ、げぉっ、ふげぇええお゛ごごごおごごぇえ゛ぐっ!!!」
目を剥き、大口を開き、唾液を垂らし。
まるで鍛えていない素人同然の腹部は、プロのパンチに耐えられる代物ではない。
本来リングの上で見せているはずだった醜態が、今この場で遅い再現を見せているのだ。
「ふふふ、いいぞ。いい表情だ、理緒奈。
 これが表の世界では、フライ級王者というのだから傑作だな。
 愚民どもは、痛みを感じないターミネーターのようにお前を見始めるだろう。
 真実を知るのは私だけだ。回ってきた“ツケ”に苦しむお前を見られるのは、この私だけなのだ」
谷内は恍惚とした表情でビデオカメラを回す。
そのフレームの中で、理緒奈は地獄の苦しみを味わい続けていた。

幾度も幾度も、ボクサーとして試合をする度に繰り返されてきた事ではある。
しかし、麗佳は強かった。パンチ力もさる事ながら、打たれても打たれても諦めず戦い続けた。
最後には、身に残った全ての力を振り絞って理緒奈からダウンをももぎ取ったのだ。
そのダメージの総量は、今までの相手の比ではない。
何人もの犠牲の果てに築き上げられた『ベルトの重さ』が、それを愚弄した理緒奈を押し潰す。

「げぼっ、おおぉええ゛っぼっ!! あああっ、もうイヤ゛ぁーーっ!!
 ギブアッぶ、ギブアップしますうっ、ご、ごめんなざいっ、もうイヤッ、もうぐるじいの……ごぶぅ゛ぇっ。
 んん゛もぉ゛ぉえ゛っ、げぼごろっ、ウ゛……っ……!! う゛っ、んん゛ごお゛お゛ぉォお゛っっ…………!!!」

祝勝会で口にしたものを余さず吐き戻しながら、理緒奈は赦しを請い続ける。
すでに全てが過去の事。
どれだけ泣き叫ぼうが、今さら赦される事などないと知りながら……。


                            終
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