※ お ま た せ
地獄の始まりです
すんなりと大手の内定を取った英児に比べて、僕の就活は泥沼の戦いだった。
他人より優れていると主張するのが苦手な僕は、採用する側にもさぞダメそうに見えた事だろう。
それでも諦めず頑張り続けられたのは、偏に和紗のおかげだ。
『がんばれ パパ』。
白米に海苔でそう書かれた“愛妻弁当”を公園のベンチで広げれば、どんな疲れだって吹っ飛んでしまう。
そして我が家に帰った後は、日増しに膨らんでいく妻のお腹に耳を当てる。
「ふふ。生まれてくるの、楽しみだねぇ」
内職の編み物をしながら、和紗は笑う。外で見せる綺麗に整った笑顔とは違う、子供のように屈託のない笑顔で。
「うん……楽しみだ」
僕も満面の笑みを返す。
心の底から活力の湧いてくる、温かな時間だ。
そして、22歳の春。
僕は悪戦苦闘の末に、なんとか新社会人としての生活を送りはじめた。
給料は決していいとは言えず、入社2日目にしてサービス残業を強いられる。
とはいえ、和紗と2人で暮らすマンションの家賃補助ぐらいは出たし、何より不満を言える身分でもない。
僕はひたすら『良い歯車』になるべく、必死に仕事を覚えた。
もちろん、和紗との生活もないがしろにはしない。
和紗のお腹が目立ち始めた頃、2人で芳葉谷に帰った時のことは印象深い。
まずは和紗のお爺さんの所へ挨拶に伺い、その後で甘味処の跡地に立ち寄った。
廃業してから4年強。ボロボロに朽ちて蔦だらけになった店を眺めていると、僕でさえ物悲しい気持ちになったものだ。
和紗は何も言わなかったけれど、僕の手を握る強さから、その心情は読み取れた。
甘味処を後にしてしばらく歩けば、山の中の寺に辿り着く。
この芳葉谷で、僕が最初に辿り着いた南の寺。
安産祈願のこの寺こそ、この小旅行における一番の目的だ。
「元気な子が生まれますように」
2人して手を合わせ、心を込めて祈る。
かなり長く祈ったつもりではあったけど、僕が目をあけた時、隣の和紗はまだ祈っている最中だった。
祈りにかける想いで負けたような気がして、少し恥ずかしくなる。
それと同時に、僕は改めて和紗を真横から観察する機会を得てもいた。
妊娠っていうのは不思議だ。少し前までは驚くほどにスレンダーだった体型が、すっかり変わっている。
それもただ太ったわけじゃない。腕の細さはそのままに、お腹だけがぽっこりと突き出ている。
その中に僕と和紗の愛の結晶がいると思っただけで、嬉しいような恥ずかしいような、妙な気分になってしまう。
「なーによ壮介、ジロジロ見て」
と、和紗がいきなり片目を開けて、僕をジロリと睨み上げる。
「いやぁ、あはは…………!!」
僕はつい照れ笑いを浮かべた。
そう、この時は笑っていられた。少し先に待つ運命なんて知らなかったから。
――もう少しでも長く、もう少しでも真剣に祈っていたら、すべてが変わっていたかもしれない。
後に嫌というほどそう後悔するなんて、想像もしていなかったから。
和紗が産気づいたと連絡を受けたのは、仕事の昼休憩が終わる直前だった。
僕はすぐに上司に事情を説明し、病院に駆けつける。
周りから見ても相当な慌てぶりだったみたいで、上司からも病院の受付の人からも、落ち着いてと宥められてしまった。
「はぁっ……はぁっ、そ、そう…………すけ………………」
和紗は分娩台の上で、真っ青な顔をしながら僕を呼ぶ。
いつもの血色の良さがない。そのまま死んでしまうんじゃないかってぐらい、顔色が悪い。
「和紗、が、頑張って…………!!」
僕は愛する妻の手を握りながら、祈りを込めてそう言った。
僕らは予め、出産時に立会いはしないと決めている。僕が血が苦手なのもあるし、和紗も産む瞬間を見られたくないそうだから。
立ち会えない分、気持ちだけでも和紗の傍に置いておこうという気持ちで、僕は和紗を励まし続けた。
「はぁっ…………はーっはっ…………ううう゛っ!!」
和紗は最初こそ嬉しそうに笑ってくれたけれど、それもすぐに苦しそうな顔に変わる。
「出産の準備を始めますから、外に掛けてお待ち下さい」
助産婦さんにそう促されて、僕は入り口に向かう。
そして、扉を開けてまさに外へ出ようという瞬間、たまらずに振り返った。
和紗はそれに気付いて、苦しみの中でも僕に向けて笑顔を作ってくれる。心配しないで、と言うように。
なんて強くて、なんて優しい妻なんだろう。僕は改めて感動してしまう。
後は彼女自身の頑張りと、経験豊かな助産婦さんに任せるしかない。
廊下に置かれた長椅子に浅く腰掛けながら、僕はただ時を待った。
ドラマなんかで見飽きるほどに見た光景だけど、実際自分が経験してみると新鮮だ。
ほんの数秒がおそろしく長く思える。
分娩室の中で頑張っているだろう和紗にエールを送りつつ、子供が産まれた後の事を延々と想像したりもする。
一寸先への不安と、将来への期待が入り混じる時間。
椅子から立ち上がっては分娩室のドアを見つめ、窓の外に目をやり、また座っては貧乏揺すりして、の繰り返し。
その果てに、ふと、赤ん坊の声が聴こえた気がした。
「!!」
僕は弾かれたように顔を上げ、全神経を目の前の扉に集中させる。
確かに扉の向こうから泣き声がしているようだ。ただ、それが和紗の部屋からなのかがはっきりしない。
隣の部屋でも今まさに出産が行われているみたいで、そっちから聴こえてきているような気もする。
改めて周囲を見ると、僕と同じようにやきもきしている男の人が他に何人もいた。
どうも今日は、複数件の出産が重なっているみたいだ。
と、その時、僕の目の前の扉が開いた。
疲れた表情の助産婦さんが一人出てきて、後ろ手に扉を閉める。
「あ、あのっ、生まれたんですか!? 男の子ですか、女の子ですか!?」
僕は辛抱できずに助産婦さんに問いかけた。この時の僕は、多分半笑いだったはずだ。
心配こそしたけれど、心の底では無事生まれるものと決めてかかっていたんだろう。
『元気な男の子ですよ』
そんな声が今にも聞けるはずだと、僕は思っていた。
けれど。
「…………少し、お話よろしいですか」
助産婦さんは難しい顔のまま、部屋の一室に僕を招く。
「えっ?」
僕の喉からは、ただ間の抜けた声が出た。何かおかしい。何か変だ。その悪寒で、背中にじっとりと汗を掻きながら。
「…………つまり………………死産、って事ですか?」
僕がかろうじて搾り出したその問いに、助産婦さんは申し訳なさそうな顔で頷く。
その反応を見た瞬間、僕は思わず丸椅子の上でバランスを崩しそうになった。
腰が抜ける、というやつだろう。身体の芯がすっぽり抜け落ちたみたいに、一瞬座る姿勢を保てなくなったんだ。
「あまり、お気を落とされないよう……」
助産婦さんは必死に励ましの言葉をくれていた。でも、正直耳に入らない。
「か……和紗に、妻に会わせてください!!」
僕はそう乞うた。死産でショックなのは僕だけじゃない筈だ。まずは和紗の元へ駆け寄って励ましてやりたかった。
でも、助産婦さんは厳しい顔で首を振る。
「奥様も今、ひどく取り乱されています。今、混乱した状態の貴方がお会いになるのは危険です。
しばらくは私共にお任せになって、まずは貴方ご自身がお気持ちを整理なさって下さい」
強い語気でそう言われると、もう何も言えなかった。
それに言われてみれば、今和紗に会うのが良い事とは限らない。
和紗のことだ。僕に申し訳ないと思う気持ちがまずあって、僕本人を前にした瞬間、その自責の念が爆発する可能性だってある。
「………………すみません、取り乱してしまって。妻を、よろしくお願いします」
僕は助産婦さんに深く頭を下げた。
助産婦さんも頭を下げ返し、申し訳なさそうな目で僕を見る。
その目と、現在の状況。どちらもが居たたまれない。
僕は逃げ出すように家に帰って、思わずソファに崩れ落ちた。
涙が頬を伝う。ソファからほのかに漂う和紗の匂いが鼻をくすぐって、また目の奥から涙があふれていく。
――どうして、どうして僕らなんだ!
その感情が胸に渦巻く。
僕も和紗も、悪いことをした覚えなんて一つもない。他人の悪口も言わなければ、困っている人の手助けを渋った事もない。
我ながら呆れるほど品行方正にやってきたつもりだ。和紗と出会ってからは、特に。
その僕と和紗の子供を、どうしてこの手に抱く事ができないんだ。
贅沢を望んだわけじゃない。過ぎた身分を求めたわけでもない。
僕らは、ただ一つの宝物…………愛の結晶が欲しかっただけなのに。
「畜生っ!!!」
僕は拳を振り上げて、ガラステーブルに叩き付けた。
冷たい感触の直後、手の骨の中にハンマーを打ち込まれたような鈍い痛みが襲ってくる。
小指が痺れて、曲がったまま戻らない。小指の付け根が、折れたみたいに痛い。
でもそんな刺激的な痛みでさえ、胸のそれを掻き消すには程遠かった。
※
「…………じゃあ、行ってくる」
和紗は僕を振り返り、笑みを浮かべた。
明らかに無理をした表情だ。やつれた顔に浮かぶ薄笑みは、むしろ痛々しくさえある。
喪服に近い黒のロングワンピースやパールのネックレスが、余計にその陰を増している。
ただ、僕はそれを非難しない。彼女なりに考えがあっての事だろうから。
「ご飯は、冷蔵庫に入ってるから。お肉もちゃんと食べてね。それから、火の元には気をつけて」
「うん。解ってるよ、大丈夫」
僕は苦笑する。和紗はいつもこうして、母親のように世話を焼くんだ。僕自身がかなり抜けているせいなんだけど。
ただ考えようによっては、普段の彼女に戻ったともいえる。いや、そう思いたい。
「ごめん……今度こそ、行くね」
和紗はそう言いながら、僕のおでこにキスをする。
「!」
突然の事に固まる僕。和紗はそんな僕を見て目を細めて、ドアを開く。肌寒い風が吹き込んでくる。
「…………大好きだよ、壮介。」
ドアに身を滑り込ませながら、和紗は囁いた。
そこには一瞬妙な感じがあったけれど、その正体をはっきりさせる暇もなく、鉄のドアが僕達の間を隔ててしまう。
和紗が向かったのは、僕達が安産祈願を行った寺だ。裏では水子供養も行っている所らしい。
僕らの安産祈願を聞き届けてくれなかった寺で、供養なんて。
僕は最初そう思った。でも逆に、だからこそ、という考え方もできる。
それにあの寺は、和紗の甘味処のすぐそばだ。つまり和紗にとっては馴染みの寺だったはずで、無碍にできる訳もない。
そういう事情があって、僕は水子供養のために帰郷する和紗を見送った。
もちろん、僕も一緒に供養したいのが本音だ。でも和紗はそれを許してくれない。
「これは私なりのけじめなの。心に整理がつくまでの。いつか必ず区切りをつけるから、待ってて。
それにパパとママが両方神妙な顔してたら、あの子だって怖がっちゃうよ」
神妙な面持ちでそう言われたら、何も反論なんてできなかった。
ただでさえ精神的に不安定な状態なんだ。下手な事を言って、追い詰める結果になっちゃいけない。
それに僕自身、まだ新入社員の身であまり余裕もなかった。
休日も仕事をしないととても回らない。会社が遠いのもあって、毎日朝早く出て、帰りは遅い。
だから和紗の事を心配はしつつも、そっちにばかり構ってもいられなかったんだ。
とはいえ、大きな変化があれば流石に気付く。
例えば、それまで喪服のような地味な服だったのが、ある時から急にカジュアルな感じになったりすれば。
「あんまり暗い服ばっかりだと、かえって水子が成仏できないんだって」
僕が理由を訊くと、和紗はそう説明した。
なるほど一理ありそうだ。僕が祈られる側でも、遺族に毎日暗い服を着られたくない。
だからカジュアルな格好については、僕もそれほど気にはしなかった。
ただ、ちょうど和紗がそういう格好をし始めた頃から、妙に帰りが遅くなってきたのは引っ掛かる。
「行ってくるね」
ある土曜日。和紗はいつも通り、笑みを浮かべながらドアノブに手を掛ける。
そう、いつも通りの和紗だ。でも疑心暗鬼に陥った僕には、その笑顔さえ、どこか無理をしたものに思えてしまう。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
僕はほぼ無意識に、和紗を背後から抱きしめて囁いた。その瞬間、僕の腕の中で和紗が強張る。
やっぱりおかしい。以前の和紗なら、こうしても余裕綽々で僕の頭を撫でてきたのに。
「う、うん。気をつけるよ」
和紗はそれだけを言い残して、ドアの向こうに消える。
僕は、胸に靄が渦巻くような気分だった。
一体どうしたっていうんだ。死産がショックだったのは解る。でももう、あれから3ヵ月だ。
体型だってすっかり元に戻ったっていうのに、心の方は改善する気配がない。
いや、普段は割と普通なんだ。
まるで何もなかったかのように、僕と晩酌して談笑するし、先輩達から茶化されるぐらいの愛妻弁当だって作ってくれる。
セックスこそタブーな気がしてしていないけど、それ以外は新婚の頃のままだ。
ただ、今日のような日……寺に行く日だけは、急に表情が翳る。
もう寺に行くのを止めたほうがいいんじゃないか。
いくら亡くなった子供を思っての事だとしても、引き摺られすぎなんじゃないか。
それともそう思うのは、僕が出産に立ち会っていないからなのか。
僕は父親として、情が浅いのか。
アパートに一人いると、そんな事を悶々と考えてしまう。
気がつけば、窓の外には夕日が見えていた。
平日の疲れからか、知らないうちにリビングのソファで寝入ってしまっていたらしい。
「……和紗?」
寝室の方へ声を掛けてみるけれど、返事はない。トイレにも、風呂にも、和紗の姿はなかった。
今日も遅いのか。地元の知り合いと話し込んでいる内に、泊まる事になったのかもしれない。
僕はそんな事を考えながら、冷蔵庫を開ける。
中には、和紗が作ってくれたブリ大根が冷えていた。僕は素朴なこれが好きだ。
でも、何か物足りない。いくらレンジで温めても、どんなに美味しくても、一緒に食べる相手がいないと暖かみが感じられない。
「もう、呑むしかないな……」
寂しさを紛らわせようと、僕はテレビを見ながら一人で晩酌を始めた。
まるで家庭に居場所のないオヤジみたいだ。
ふとそんな事を考え、殆ど間違っていない事実に涙が出そうになる。
気分が落ち込んでいる時は、何もかもが不快だ。
和紗と並んで見ている時は楽しかったバラエティ番組も、今は笑える気さえしない。
起きていても不快なだけだ。
僕は速いペースで酒を進め、電気を消して、無理矢理に夢の世界に逃避する。
そして、しばらく後。
家の傍に一台の車が止まった音で、僕は眠りから醒めた。
時計を見ると12時を回っている。
和紗が帰ってきたのか、とも思ったけど、すぐにそうじゃない事に気がついた。
もし和紗が知り合いに送って貰ったんだとしても、マンションの正面に車を止めるはずだ。
でも、今車が止まったのは裏手の駐車場。
裏の駐車場はうちのマンションとは関係がなく、寂れた雰囲気の割に結構広い。
だから若者連中が、宿代を浮かすためにそこで車中泊する事もよくある。
ただ静かに寝てくれるならいいけど、大体は酒盛りやらを始めて騒ぐから、マンション側の人間としてはいい迷惑だ。
そして悪いことに、今日の来客もまた“そういう類”らしい。
車が止まってからしばらくは、何の音も聴こえてこなかった。
でも暇つぶしがてら窓辺で耳を澄ましていると、かすかに水音のようなものがし始める。
最初こそ控えめだったその水音は、ある時を境に大きくなった。
じゅるっ、じゅるっ、という生々しい音。和紗のフェラチオを思い出して、しばらくご無沙汰だった僕はそれだけで少し勃起してしまう。
そのうち聴いているだけじゃ物足りなくなって、僕は小さくカーテンを開けた。
草だらけの駐車場には、それらしいワゴンが一つ。
深夜の駐車場は暗く、ワゴン自体も若干死角にあるせいで、車内の様子までははっきり見えない。
それでも運転席に男が座っている事と、助手席の女がその股間に覆い被さっているらしい事は見て取れた。
女の背中は、薄暗い車内でも白く浮かび上がっていて、なんだか幻想的だ。
――和紗。
嫌でも、最愛の妻が脳裏に浮かぶ。
体目当てで付き合っていた訳じゃ断じてない。でも今の僕は、彼女の白い裸を思い出して勃起していた。
そして、しばらくした頃。それまで続いていた水音が、ふいに聴こえなくなる。
代わりにし始めたのは、ギッギッと車体の揺れる音。
何度かこの部屋でカーセックスの現場を見ているせいで、それが『行為』の音だとすぐに解った。
非常識だ。よりによって、こんな場所でするなんて。
僕は毎度のごとくそう思いつつも、誘惑に駆られて小さくカーテンを開けてしまう。
相変わらずはっきりとは見えない。
でも色白の女性が、誰かの上に跨っている事だけはわかる。
長い黒髪に、若い身体。今までにもカーセックス現場で何度となく見たタイプだ。
でも今は、その後姿が和紗にダブって見えてしまう。
男の首に手を回して、大きくお尻を上下させる黒髪女性……。
『あっ、あっ…………』
抑えがちな喘ぎ声まで、和紗に思えてしまう。
今の僕は異常だ。
自分の意思とは無関係にアレを握って、扱いている。漏れ聴こえる音と声をオカズにして。
「うう、和紗……ああ、あ、和紗ぁ………………っ!!!」
押し殺した声で呻きながら、僕は射精した。こんな時でも、外に聞こえないよう気を遣ってしまう自分が嫌だ。
「はぁっ、はあっ……はぁっ…………」
する事を済ませると、ひどい倦怠感が襲ってきた。
数週間分溜めた精液は、盛大に床やガラステーブルに飛び散っているみたいだ。
その片付けも億劫だけど、それ以上に後悔の念が強い。
見知らぬ女性を、和紗に見立てて慰めてしまった事。それが彼女へのひどい裏切りのような気がして、
僕は静かに泣いた。
続く
地獄の始まりです
すんなりと大手の内定を取った英児に比べて、僕の就活は泥沼の戦いだった。
他人より優れていると主張するのが苦手な僕は、採用する側にもさぞダメそうに見えた事だろう。
それでも諦めず頑張り続けられたのは、偏に和紗のおかげだ。
『がんばれ パパ』。
白米に海苔でそう書かれた“愛妻弁当”を公園のベンチで広げれば、どんな疲れだって吹っ飛んでしまう。
そして我が家に帰った後は、日増しに膨らんでいく妻のお腹に耳を当てる。
「ふふ。生まれてくるの、楽しみだねぇ」
内職の編み物をしながら、和紗は笑う。外で見せる綺麗に整った笑顔とは違う、子供のように屈託のない笑顔で。
「うん……楽しみだ」
僕も満面の笑みを返す。
心の底から活力の湧いてくる、温かな時間だ。
そして、22歳の春。
僕は悪戦苦闘の末に、なんとか新社会人としての生活を送りはじめた。
給料は決していいとは言えず、入社2日目にしてサービス残業を強いられる。
とはいえ、和紗と2人で暮らすマンションの家賃補助ぐらいは出たし、何より不満を言える身分でもない。
僕はひたすら『良い歯車』になるべく、必死に仕事を覚えた。
もちろん、和紗との生活もないがしろにはしない。
和紗のお腹が目立ち始めた頃、2人で芳葉谷に帰った時のことは印象深い。
まずは和紗のお爺さんの所へ挨拶に伺い、その後で甘味処の跡地に立ち寄った。
廃業してから4年強。ボロボロに朽ちて蔦だらけになった店を眺めていると、僕でさえ物悲しい気持ちになったものだ。
和紗は何も言わなかったけれど、僕の手を握る強さから、その心情は読み取れた。
甘味処を後にしてしばらく歩けば、山の中の寺に辿り着く。
この芳葉谷で、僕が最初に辿り着いた南の寺。
安産祈願のこの寺こそ、この小旅行における一番の目的だ。
「元気な子が生まれますように」
2人して手を合わせ、心を込めて祈る。
かなり長く祈ったつもりではあったけど、僕が目をあけた時、隣の和紗はまだ祈っている最中だった。
祈りにかける想いで負けたような気がして、少し恥ずかしくなる。
それと同時に、僕は改めて和紗を真横から観察する機会を得てもいた。
妊娠っていうのは不思議だ。少し前までは驚くほどにスレンダーだった体型が、すっかり変わっている。
それもただ太ったわけじゃない。腕の細さはそのままに、お腹だけがぽっこりと突き出ている。
その中に僕と和紗の愛の結晶がいると思っただけで、嬉しいような恥ずかしいような、妙な気分になってしまう。
「なーによ壮介、ジロジロ見て」
と、和紗がいきなり片目を開けて、僕をジロリと睨み上げる。
「いやぁ、あはは…………!!」
僕はつい照れ笑いを浮かべた。
そう、この時は笑っていられた。少し先に待つ運命なんて知らなかったから。
――もう少しでも長く、もう少しでも真剣に祈っていたら、すべてが変わっていたかもしれない。
後に嫌というほどそう後悔するなんて、想像もしていなかったから。
和紗が産気づいたと連絡を受けたのは、仕事の昼休憩が終わる直前だった。
僕はすぐに上司に事情を説明し、病院に駆けつける。
周りから見ても相当な慌てぶりだったみたいで、上司からも病院の受付の人からも、落ち着いてと宥められてしまった。
「はぁっ……はぁっ、そ、そう…………すけ………………」
和紗は分娩台の上で、真っ青な顔をしながら僕を呼ぶ。
いつもの血色の良さがない。そのまま死んでしまうんじゃないかってぐらい、顔色が悪い。
「和紗、が、頑張って…………!!」
僕は愛する妻の手を握りながら、祈りを込めてそう言った。
僕らは予め、出産時に立会いはしないと決めている。僕が血が苦手なのもあるし、和紗も産む瞬間を見られたくないそうだから。
立ち会えない分、気持ちだけでも和紗の傍に置いておこうという気持ちで、僕は和紗を励まし続けた。
「はぁっ…………はーっはっ…………ううう゛っ!!」
和紗は最初こそ嬉しそうに笑ってくれたけれど、それもすぐに苦しそうな顔に変わる。
「出産の準備を始めますから、外に掛けてお待ち下さい」
助産婦さんにそう促されて、僕は入り口に向かう。
そして、扉を開けてまさに外へ出ようという瞬間、たまらずに振り返った。
和紗はそれに気付いて、苦しみの中でも僕に向けて笑顔を作ってくれる。心配しないで、と言うように。
なんて強くて、なんて優しい妻なんだろう。僕は改めて感動してしまう。
後は彼女自身の頑張りと、経験豊かな助産婦さんに任せるしかない。
廊下に置かれた長椅子に浅く腰掛けながら、僕はただ時を待った。
ドラマなんかで見飽きるほどに見た光景だけど、実際自分が経験してみると新鮮だ。
ほんの数秒がおそろしく長く思える。
分娩室の中で頑張っているだろう和紗にエールを送りつつ、子供が産まれた後の事を延々と想像したりもする。
一寸先への不安と、将来への期待が入り混じる時間。
椅子から立ち上がっては分娩室のドアを見つめ、窓の外に目をやり、また座っては貧乏揺すりして、の繰り返し。
その果てに、ふと、赤ん坊の声が聴こえた気がした。
「!!」
僕は弾かれたように顔を上げ、全神経を目の前の扉に集中させる。
確かに扉の向こうから泣き声がしているようだ。ただ、それが和紗の部屋からなのかがはっきりしない。
隣の部屋でも今まさに出産が行われているみたいで、そっちから聴こえてきているような気もする。
改めて周囲を見ると、僕と同じようにやきもきしている男の人が他に何人もいた。
どうも今日は、複数件の出産が重なっているみたいだ。
と、その時、僕の目の前の扉が開いた。
疲れた表情の助産婦さんが一人出てきて、後ろ手に扉を閉める。
「あ、あのっ、生まれたんですか!? 男の子ですか、女の子ですか!?」
僕は辛抱できずに助産婦さんに問いかけた。この時の僕は、多分半笑いだったはずだ。
心配こそしたけれど、心の底では無事生まれるものと決めてかかっていたんだろう。
『元気な男の子ですよ』
そんな声が今にも聞けるはずだと、僕は思っていた。
けれど。
「…………少し、お話よろしいですか」
助産婦さんは難しい顔のまま、部屋の一室に僕を招く。
「えっ?」
僕の喉からは、ただ間の抜けた声が出た。何かおかしい。何か変だ。その悪寒で、背中にじっとりと汗を掻きながら。
「…………つまり………………死産、って事ですか?」
僕がかろうじて搾り出したその問いに、助産婦さんは申し訳なさそうな顔で頷く。
その反応を見た瞬間、僕は思わず丸椅子の上でバランスを崩しそうになった。
腰が抜ける、というやつだろう。身体の芯がすっぽり抜け落ちたみたいに、一瞬座る姿勢を保てなくなったんだ。
「あまり、お気を落とされないよう……」
助産婦さんは必死に励ましの言葉をくれていた。でも、正直耳に入らない。
「か……和紗に、妻に会わせてください!!」
僕はそう乞うた。死産でショックなのは僕だけじゃない筈だ。まずは和紗の元へ駆け寄って励ましてやりたかった。
でも、助産婦さんは厳しい顔で首を振る。
「奥様も今、ひどく取り乱されています。今、混乱した状態の貴方がお会いになるのは危険です。
しばらくは私共にお任せになって、まずは貴方ご自身がお気持ちを整理なさって下さい」
強い語気でそう言われると、もう何も言えなかった。
それに言われてみれば、今和紗に会うのが良い事とは限らない。
和紗のことだ。僕に申し訳ないと思う気持ちがまずあって、僕本人を前にした瞬間、その自責の念が爆発する可能性だってある。
「………………すみません、取り乱してしまって。妻を、よろしくお願いします」
僕は助産婦さんに深く頭を下げた。
助産婦さんも頭を下げ返し、申し訳なさそうな目で僕を見る。
その目と、現在の状況。どちらもが居たたまれない。
僕は逃げ出すように家に帰って、思わずソファに崩れ落ちた。
涙が頬を伝う。ソファからほのかに漂う和紗の匂いが鼻をくすぐって、また目の奥から涙があふれていく。
――どうして、どうして僕らなんだ!
その感情が胸に渦巻く。
僕も和紗も、悪いことをした覚えなんて一つもない。他人の悪口も言わなければ、困っている人の手助けを渋った事もない。
我ながら呆れるほど品行方正にやってきたつもりだ。和紗と出会ってからは、特に。
その僕と和紗の子供を、どうしてこの手に抱く事ができないんだ。
贅沢を望んだわけじゃない。過ぎた身分を求めたわけでもない。
僕らは、ただ一つの宝物…………愛の結晶が欲しかっただけなのに。
「畜生っ!!!」
僕は拳を振り上げて、ガラステーブルに叩き付けた。
冷たい感触の直後、手の骨の中にハンマーを打ち込まれたような鈍い痛みが襲ってくる。
小指が痺れて、曲がったまま戻らない。小指の付け根が、折れたみたいに痛い。
でもそんな刺激的な痛みでさえ、胸のそれを掻き消すには程遠かった。
※
「…………じゃあ、行ってくる」
和紗は僕を振り返り、笑みを浮かべた。
明らかに無理をした表情だ。やつれた顔に浮かぶ薄笑みは、むしろ痛々しくさえある。
喪服に近い黒のロングワンピースやパールのネックレスが、余計にその陰を増している。
ただ、僕はそれを非難しない。彼女なりに考えがあっての事だろうから。
「ご飯は、冷蔵庫に入ってるから。お肉もちゃんと食べてね。それから、火の元には気をつけて」
「うん。解ってるよ、大丈夫」
僕は苦笑する。和紗はいつもこうして、母親のように世話を焼くんだ。僕自身がかなり抜けているせいなんだけど。
ただ考えようによっては、普段の彼女に戻ったともいえる。いや、そう思いたい。
「ごめん……今度こそ、行くね」
和紗はそう言いながら、僕のおでこにキスをする。
「!」
突然の事に固まる僕。和紗はそんな僕を見て目を細めて、ドアを開く。肌寒い風が吹き込んでくる。
「…………大好きだよ、壮介。」
ドアに身を滑り込ませながら、和紗は囁いた。
そこには一瞬妙な感じがあったけれど、その正体をはっきりさせる暇もなく、鉄のドアが僕達の間を隔ててしまう。
和紗が向かったのは、僕達が安産祈願を行った寺だ。裏では水子供養も行っている所らしい。
僕らの安産祈願を聞き届けてくれなかった寺で、供養なんて。
僕は最初そう思った。でも逆に、だからこそ、という考え方もできる。
それにあの寺は、和紗の甘味処のすぐそばだ。つまり和紗にとっては馴染みの寺だったはずで、無碍にできる訳もない。
そういう事情があって、僕は水子供養のために帰郷する和紗を見送った。
もちろん、僕も一緒に供養したいのが本音だ。でも和紗はそれを許してくれない。
「これは私なりのけじめなの。心に整理がつくまでの。いつか必ず区切りをつけるから、待ってて。
それにパパとママが両方神妙な顔してたら、あの子だって怖がっちゃうよ」
神妙な面持ちでそう言われたら、何も反論なんてできなかった。
ただでさえ精神的に不安定な状態なんだ。下手な事を言って、追い詰める結果になっちゃいけない。
それに僕自身、まだ新入社員の身であまり余裕もなかった。
休日も仕事をしないととても回らない。会社が遠いのもあって、毎日朝早く出て、帰りは遅い。
だから和紗の事を心配はしつつも、そっちにばかり構ってもいられなかったんだ。
とはいえ、大きな変化があれば流石に気付く。
例えば、それまで喪服のような地味な服だったのが、ある時から急にカジュアルな感じになったりすれば。
「あんまり暗い服ばっかりだと、かえって水子が成仏できないんだって」
僕が理由を訊くと、和紗はそう説明した。
なるほど一理ありそうだ。僕が祈られる側でも、遺族に毎日暗い服を着られたくない。
だからカジュアルな格好については、僕もそれほど気にはしなかった。
ただ、ちょうど和紗がそういう格好をし始めた頃から、妙に帰りが遅くなってきたのは引っ掛かる。
「行ってくるね」
ある土曜日。和紗はいつも通り、笑みを浮かべながらドアノブに手を掛ける。
そう、いつも通りの和紗だ。でも疑心暗鬼に陥った僕には、その笑顔さえ、どこか無理をしたものに思えてしまう。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
僕はほぼ無意識に、和紗を背後から抱きしめて囁いた。その瞬間、僕の腕の中で和紗が強張る。
やっぱりおかしい。以前の和紗なら、こうしても余裕綽々で僕の頭を撫でてきたのに。
「う、うん。気をつけるよ」
和紗はそれだけを言い残して、ドアの向こうに消える。
僕は、胸に靄が渦巻くような気分だった。
一体どうしたっていうんだ。死産がショックだったのは解る。でももう、あれから3ヵ月だ。
体型だってすっかり元に戻ったっていうのに、心の方は改善する気配がない。
いや、普段は割と普通なんだ。
まるで何もなかったかのように、僕と晩酌して談笑するし、先輩達から茶化されるぐらいの愛妻弁当だって作ってくれる。
セックスこそタブーな気がしてしていないけど、それ以外は新婚の頃のままだ。
ただ、今日のような日……寺に行く日だけは、急に表情が翳る。
もう寺に行くのを止めたほうがいいんじゃないか。
いくら亡くなった子供を思っての事だとしても、引き摺られすぎなんじゃないか。
それともそう思うのは、僕が出産に立ち会っていないからなのか。
僕は父親として、情が浅いのか。
アパートに一人いると、そんな事を悶々と考えてしまう。
気がつけば、窓の外には夕日が見えていた。
平日の疲れからか、知らないうちにリビングのソファで寝入ってしまっていたらしい。
「……和紗?」
寝室の方へ声を掛けてみるけれど、返事はない。トイレにも、風呂にも、和紗の姿はなかった。
今日も遅いのか。地元の知り合いと話し込んでいる内に、泊まる事になったのかもしれない。
僕はそんな事を考えながら、冷蔵庫を開ける。
中には、和紗が作ってくれたブリ大根が冷えていた。僕は素朴なこれが好きだ。
でも、何か物足りない。いくらレンジで温めても、どんなに美味しくても、一緒に食べる相手がいないと暖かみが感じられない。
「もう、呑むしかないな……」
寂しさを紛らわせようと、僕はテレビを見ながら一人で晩酌を始めた。
まるで家庭に居場所のないオヤジみたいだ。
ふとそんな事を考え、殆ど間違っていない事実に涙が出そうになる。
気分が落ち込んでいる時は、何もかもが不快だ。
和紗と並んで見ている時は楽しかったバラエティ番組も、今は笑える気さえしない。
起きていても不快なだけだ。
僕は速いペースで酒を進め、電気を消して、無理矢理に夢の世界に逃避する。
そして、しばらく後。
家の傍に一台の車が止まった音で、僕は眠りから醒めた。
時計を見ると12時を回っている。
和紗が帰ってきたのか、とも思ったけど、すぐにそうじゃない事に気がついた。
もし和紗が知り合いに送って貰ったんだとしても、マンションの正面に車を止めるはずだ。
でも、今車が止まったのは裏手の駐車場。
裏の駐車場はうちのマンションとは関係がなく、寂れた雰囲気の割に結構広い。
だから若者連中が、宿代を浮かすためにそこで車中泊する事もよくある。
ただ静かに寝てくれるならいいけど、大体は酒盛りやらを始めて騒ぐから、マンション側の人間としてはいい迷惑だ。
そして悪いことに、今日の来客もまた“そういう類”らしい。
車が止まってからしばらくは、何の音も聴こえてこなかった。
でも暇つぶしがてら窓辺で耳を澄ましていると、かすかに水音のようなものがし始める。
最初こそ控えめだったその水音は、ある時を境に大きくなった。
じゅるっ、じゅるっ、という生々しい音。和紗のフェラチオを思い出して、しばらくご無沙汰だった僕はそれだけで少し勃起してしまう。
そのうち聴いているだけじゃ物足りなくなって、僕は小さくカーテンを開けた。
草だらけの駐車場には、それらしいワゴンが一つ。
深夜の駐車場は暗く、ワゴン自体も若干死角にあるせいで、車内の様子までははっきり見えない。
それでも運転席に男が座っている事と、助手席の女がその股間に覆い被さっているらしい事は見て取れた。
女の背中は、薄暗い車内でも白く浮かび上がっていて、なんだか幻想的だ。
――和紗。
嫌でも、最愛の妻が脳裏に浮かぶ。
体目当てで付き合っていた訳じゃ断じてない。でも今の僕は、彼女の白い裸を思い出して勃起していた。
そして、しばらくした頃。それまで続いていた水音が、ふいに聴こえなくなる。
代わりにし始めたのは、ギッギッと車体の揺れる音。
何度かこの部屋でカーセックスの現場を見ているせいで、それが『行為』の音だとすぐに解った。
非常識だ。よりによって、こんな場所でするなんて。
僕は毎度のごとくそう思いつつも、誘惑に駆られて小さくカーテンを開けてしまう。
相変わらずはっきりとは見えない。
でも色白の女性が、誰かの上に跨っている事だけはわかる。
長い黒髪に、若い身体。今までにもカーセックス現場で何度となく見たタイプだ。
でも今は、その後姿が和紗にダブって見えてしまう。
男の首に手を回して、大きくお尻を上下させる黒髪女性……。
『あっ、あっ…………』
抑えがちな喘ぎ声まで、和紗に思えてしまう。
今の僕は異常だ。
自分の意思とは無関係にアレを握って、扱いている。漏れ聴こえる音と声をオカズにして。
「うう、和紗……ああ、あ、和紗ぁ………………っ!!!」
押し殺した声で呻きながら、僕は射精した。こんな時でも、外に聞こえないよう気を遣ってしまう自分が嫌だ。
「はぁっ、はあっ……はぁっ…………」
する事を済ませると、ひどい倦怠感が襲ってきた。
数週間分溜めた精液は、盛大に床やガラステーブルに飛び散っているみたいだ。
その片付けも億劫だけど、それ以上に後悔の念が強い。
見知らぬ女性を、和紗に見立てて慰めてしまった事。それが彼女へのひどい裏切りのような気がして、
僕は静かに泣いた。
続く