1.

眠ってはいないはずだ。
薄くまぶたを開いているし、布団の柔かい感触も微かに感じる。
それでも結花の頭の中には、ぼんやりと見慣れた情景が映っていた。
その状態は、少女に、自分がいかに辛い心境であるかを否応なく認識させた。
 天蓋つきの豪奢なベッド。
正面に見える天井は緩くカーブを描いており、傷一つ、汚れ一つない。
周りを覆う羽衣のようなカーテンも、同じく染み一つない透き通った白だ。
こんな所に寝られるのは、せいぜい童話の中のお姫様ぐらいだ、と結花は思う。
 大きな泣き声が聞こえる気がする。赤ん坊の泣き声だ。
その泣き声は、かなり近い所から発せられているらしい。
ほとんど耳元と言ってもいい場所から…

そこで目が覚めた。
正しくは、白昼夢が薄れて現実がはっきりと知覚できるようになった。
泣き声は止んでいる。やはり夢の中の幻聴だったらしい。
結花は起き上がり、部屋の電気をつけた。
 部屋には誰もいない。
長い間寝起きを共にした母は、まだ帰ってはこない。
朝まで抱きしめて幸せを分かち合った友は、もう傍に居ることはない。
六畳の部屋は、それでも少女が一人寝るには広すぎた。
今朝は冷え込んでいる。

学院へ向かう間、結花はいくつもの視線にぶつかった。
灯と歩いている時は、同じくすれ違う人が振る返る事は多かった。
しかし今はまるで意味が違う。
一睡もしていない少女の泣き腫らした目は赤く充血した上、いわゆる座っている状態だ。
その異常な様は、“幽鬼”とでも表せばいいだろうか。
その幽鬼は、道行く者などに興味は無かった。
彼女が狙うのはただ一人。

   
    ズダァンッ!

一年A組の教室に衝突音が響く。
「待って!落ち着きなさい結花ッ!!何の事か……」
顔をかばったリカの腕に鞄がぶつけられる。
「あなた以外に誰がいるの、灯に何したのよ!!!」
 リカは壁に体を押し付けられたまま、全く身動きが取れなかった。
かつて彼女が結花の首を絞めた時、結花は抵抗できなかった。
それの、立場を変えた再現だ。
リカは、以前よりも少しやつれているように見える。
 変わった事はもう一つ、今日は取り巻きの邪魔が入らない。
結花がリカに掴みかかった時、はじめは少し制止するそぶりを見せたが、すぐに諦めてしまう。
それは、結花の気迫に圧されたというより、本気で止める気がないという風だった。
リカの影響力は明らかに衰えている。
 リカに三度ほど叩きつけた後、結花は鞄を取り落とし、すがりつくようにリカの体を掴んだ。
「お願いだから、灯を返してっ!酷い事は私にしてよ!!
  灯は関係ない…。 私、もう、灯なしじゃ……!!」
唇を震わせ、嗚咽するように言葉を吐く結花。
リカの顔が恐怖と当惑に歪んでいる。
「放しなさい!! 本当に私がやったんじゃないわ!
 いくらパパの力使ったって、警視正の娘が相手じゃ何も出来ないわよ!!」
リカは結花の髪の毛を掴み、体を引き剥がす為にその腹部に膝蹴りを喰らわそうとした。
しかし、リカが足を踏ん張った瞬間、その力が抜けるような声が教室内に響く。
「あ~~。結花ちゃんリカちゃあん、喧嘩しちゃだめですよお~」

場違いな声の主は、言うまでもなくちなみだ。
ちなみは豊満な体を揺らしながら教室へ入ってくる。
「そんな事してると、このひとが悲しんじゃいますよー?」
その声と共に、ちなみの取り巻きに引きずられるようにして、廊下からある人物が姿を現した。
 結花はその人物を知っていた。
「お、お母さん!!」
 結花の探していた美鈴は、居なくなった日と同じ服を着ていた。
それは所々擦り切れて汚れており、他の服に替えることが無かったのがわかる。
結花は駆け寄ろうとするが、ちなみの取り巻きがその行く手を遮った。
 一方のリカは、見知らぬ相手を大して興味がなさそうに眺める。
「誰なの?その薄汚れた女は?」
蔑むようなリカの言葉に、結花は眉を吊り上げた。
しかし当の美鈴は、気まずそうに顔を背けるだけだ。
 ちなみがくすくすと笑っている。
「ひっどいリカちゃん。もうちょっと言葉選びましょうよ~ぉ。」
笑いながら、まるで独り言のように続けた。

 「・・・・仮にも、『 産みの親 』に対してなんですから。」

ちなみが発した言葉に、場の全員が訝しげな顔になる。
 鼓 美鈴 が 如月 リカの産みの親?
作り話にしても脈絡がなさすぎる。
だがちなみ以外にただ一人、美鈴だけは、深刻な表情に諦めのような悲壮感を漂わせていた。
「ちょっと待…」
リカが抗議の声を上げるが、ちなみはリカの顔の方へ掌をかざしてそれを制した。
「あ~いいですう。よく考えたら言われて当然の事してますから、このひと。
 今回だって、逃げ回りながら密かに外国へ高飛びする寸前に捕まえたんですよ」
リカへ向けた掌をくるっと裏返し、今度は結花を紹介するように示す。
「ね~、わかるでしょちびちゃん?高飛びする費用、ちびちゃんの店の売り上げから出てる。
 ま、それがまた嫌味なんですよ~。」
ちなみはそう言い、結花を示していた手で美鈴の頬をつついた。
「他にも悪い事してますけどぉ、一番悪いのは、最初にやった・・・
  子 供 を 入 れ 替 え た  事かな?」
美鈴は肩を一つ大きく震わせ、少し身を引く。
質問できるほどの情報が無い結花達は、ちなみを見て続きを待つしかない。

ちなみは手をパンパンと打ち鳴らして「注目!」を促す。
「リカちゃん、っていうか整形さんは、特に黙って聞いててくださあい。
 一人の女のイケナイ話ですう~。」
セイケイサン、という言葉に、結花が少し不思議そうな顔になる。
ちなみが厚めの唇をぺろっと舐めて話し始めた。


 ちょっと昔、ある所に美鈴っていう女の子がいたんです。
彼女は親が事故で死んで、中学生にして天涯孤独の身となりました。
身寄りも無くて、義務教育すら受けてなかったんですねえ。
 そんな時出会ったのが、如月病院の跡継ぎ、如月正造氏だったんです。
氏も好き者ですから、養う代わりに手を出しちゃいました。
それからしばらく関係が続いた頃、氏はさる令嬢と結婚する事が決まったんです。
相手はアメリカの資産家、氏は家の為にも結婚するしかありません。
だから氏は、いつか自分が消えても大丈夫なように店を開き、
美鈴さんに経営を教えたんでしょう。

 美鈴さん、よっぽど運がいいのか、悪いのか、先に身篭ったのは令嬢の方でした。
そして、その後を追うようにして美鈴さんもおめでた。
そこで、名前が決められます。
令嬢の子につけられた名前は『 梨花 』。
その話を聞いた美鈴さんは、対抗したんですかねぇ、『 結花 』ってつけました。
 
 それから一年ほど不倫状態が続いた後、ここが問題の日ですね~。
とうとう如月病院がアメリカに移る事になって、梨花ちゃん達は一時日本を離れる事に。
 これを聞いた美鈴さんが怖いんですよね。
自分が報われない代わりに子供にいい思いをさせようと企んで、氏の家が引越し準備で
忙しくしてる隙に二人の子供を入れ替えたんですよ。

 梨花は結花に、結花は梨花に。

一歳児ですし、ご令嬢自身は子供の世話なんてしないんで、気付く人は居なかったようです。
そのまま氏の一家は美鈴さんの子供を連れて渡米。
目論見通り、『結花』はアメリカで幸せに育ち、本来その場所に居たはずの『梨花』は…

言うまでもない、ですよねぇ?

結花は美鈴を見つめた。リカも美鈴を見据えた。
美鈴は俯く。
二人はゆっくりと顔を見合わせた。

「まあ要するに~、本当のコンテスト出場者はちびちゃんの方なんですよぉ。
 おかしいと思いませんでした?今年の他の出場者は、誰もちびちゃんに手を出さないでしょ。
 整形さんならわかりますよねえ、『正出場者に手を出す』って事の怖さとか」
リカの表情がみるみる青ざめる。
自分の何よりの強みだと思っていた物が、逆にリカを押し潰しはじめた。
「っていうかあ、整形してる時点で反則っぽいですけど。
 豊胸手術とか骨延長までしてるでしょ~。アメリカの医学って凄いですね 」
リカを指差してちなみが告げる。
結花は、やっとセイケイサンの意味が分かったと同時に、更なる衝撃の事実に困惑していた。
リカの取り巻きやクラスメートの目も変わっている。
リカは支えるものが無くなったように、その場にがっくりと膝をついた。

「じゃ、この親子を連れて行って」
ちなみがな命じると、取り巻きは素早くリカと美鈴の体を引き起こし、
教室を出て連れ去って行ってしまう。
結花はお母さん、と叫ぼうとしたが、実の母ではないという事実がその言葉を呑み込ませた。
「ちびちゃんは本当のお家に行きましょう。そう、今は整形さんが暮らしてる家です。」
取り巻きに体を押され、結花はよろめいて歩き出す。
錯乱する少女に抵抗する余裕など無かった。

2.

「さ、着きました。中へどうぞ、お嬢様」
ちなみがうやうやしく敬礼してみせ、結花の手をとって歩き始める。
「整形娘が日本に帰ってから一年しか経ってませんから、まだちびちゃんが暮らしてた
 名残が あるかもしれませんねぇ。」
広い正門前の広場を歩きながら、ちなみが笑う。
 如月家の自宅は、日本にある建物とはとても思えなかった。
そびえる白壁の上方で、いくつもの大きな嵌め殺しの窓が陽の光を反射して輝く。
庭には噴水があり、辺りに花が咲き乱れている。
中世欧州の城の趣があるその屋敷は、少女が一度は憧れるかもしれない。
しかし結花は気に入らない。
 (こんなとこに住むの、やだな…)
未知の空間ながら、無意識に少女の心が拒絶している。
 理由はなんとなくわかった。
ここには恐らく『あれ』がある。
「ここがちびちゃんの生まれた部屋です。昨日まで別の人間が占拠してましたけど」

やはり、あった。
全体が淡い黄色と純白に覆われた、高貴な姫君の御殿。
いつしか結花のつらい心と結び付けられるようになった、記憶の欠片。
 
あの夢の情景は、少女の始めて目にした世界だった。

「自分の部屋はどうですかぁ?本当ならここに住むはずだったんですよ?」
立ち尽くして部屋を眺める結花に、ちなみが訊いた。
結花は首を振る。
「…落ち着かなくて、あんまり好きじゃないです」
 その様子を見て、ちなみはくすくすと笑いながら、他愛のない話をはじめた。
 『梨花』がアメリカに行き、他の生徒に嫉妬して『リカ』と改名、さらに整形などを施した事。
 彼女の両親はまだアメリカにいて、家に女中はいるもののまるで一人暮らし状態のため、
酒に手を出すなど意外に乱れた生活を送っている事。
話はリカについてのことが多く、中には相当プライベートに立ち入ったものもあった。
明らかに他人が知り得るはずのないレベルまで。

結花はとうとう不信感を露わにして尋ねた。
「…どうして、あなたはそんな事を知っているの?あなた何者なの?」
 ちなみはどうやら、そう聞かれるのを待っていたらしい。
無邪気だった笑顔が少し歪んだ。
表面上の筋肉の動きは僅かなものだ、しかしそのイメージはがらりと変わる。
 結花はなぜか、背中に一筋の汗が流れるのを感じた。

「ねぇちびちゃん。学園祭、出たくないなら出なくてもいいんですよ?」
ちなみはいきなり本題を切り出した。
「え?……ほ、本当ですか!?」
結花は一瞬その言葉の意味が分からなかった。
「はい。何しろ、美鈴さんのせいでイレギュラーな存在になってしまってますし」
ちなみが頷いて答える。
リカの呪縛が解けた途端、暗い日常が一気に晴れるということだろうか。
思えば、彼女はリカの敵のようだ、ならば自分の味方かもしれない。
 結花がそこまで考えた時、ちなみは唇をぺろっと舐めて続けた。
「ちびちゃんが出なくても、代わりの子はいますから。」

何かおかしかった。
意味ありげな言葉、結花の反応を探るような瞳…
左手を見ると、ちなみはポケットから取り出していた何かを握っていた。
結花と揃いで買った、灯の携帯。
結花は目を見開いてちなみの顔を見上げた。
ちなみは口を曲げ、侮るような笑みを浮かべている。
「あなただったのね……!!」
結花は拳を握り締めた。
すると、ちなみも手を胸の前に構える。
「やあだあ、暴力反対ですよぉ?」
口ではおどけてみせているが、素人の結花でも彼女に隙がないというのがわかった。
無闇に手を出せば、簡単にその手を締め上げてしまうだろう。
 見える範囲にはあの得体の知れない取り巻きの姿はないし、リカの時のように直接的な暴力が
伴っているわけでもない。
しかしちなみのその余裕は、充分結花の動きを止めるに事足りた。
 結花が肩を震わせながら拳を下ろすと、ちなみも構えを解いて髪をいじりだす。

「どうして…?灯があなたに、どんなひどい事したっていうの!?」
結花はちなみを睨み据え、あまりの激昂に押し殺したような声で問う。
ちなみは髪を弄っていた手で携帯をとんとんと叩いた。
「だってあの栗毛ちゃん、イジメのことばらすとか言ってたじゃないですかぁ。
 万が一でもそんな事されたら困るんです。 だから、知り合いの偉い人におねがいしただけ」
「・・・・・・っ!!」
結花は一瞬でも味方と思った自分を呪う。
この人物は、通じる相手ではない。

「そんな不気味な物見るような目、止めてくださいよ。
 何者か、って訊きましたよね。 名前は原 千波、百合嶺女学院理事長の孫です。
 で、実質、学園を取り仕切ってます。」
ちなみは結花の視線を受け止めるように見つめ返している。
「一番大事な仕事が、美少女コンテストの演出ですねぇ。
 ところで、どうして百合嶺の学費が、ちびちゃんみたいな貧乏でも払えるくらい安いか
 ご存知ですかぁ?」
ろくでもないものが絡んでいるのは予想がついたが、結花は黙っていた。
「鍵を握るのはもちろんコンテストです。学院にゆかりのある名士の方々が、
 学園祭のショーで満足する代わりに運営費を出して下さるんです。
 そして、今回の目玉はあなた達姉妹。責任重大ですね」
ちなみはまた髪をいじりはじめる。
「さっきも言いましたけど、別に出なくてもいいですよ。代わりは取ってありますから。
 ………どうします、出ますか?」
結花は俯いて奥歯を噛みしめた。
ちなみは携帯を開き、また勢い良く閉じる事を繰り返している。
まるで何かのカウントのように。

 9度目にパチンという音を聞いたとき、結花は意を決して顔を上げた。
「出るわ。・・・だからこれは誓って。『灯には手を出さない』って」
決意に要した時間は僅か9秒ながら、その眼は確かな固い覚悟を秘めている。
ちなみは嬉しそうに口笛を吹いた。
「かぁっこいいですねえ、ちびちゃん!……でも、言っちゃいましたね。
 その言葉を口にした以上、『やらされてる』なんて受け身の姿勢は認めませんからぁ。」
ちなみは目を閉じた。
急に張り詰めてきた空気に、結花の息が上がっていく。
ちなみの眼が開く。
遠くを眺めているような、近くを凝視しているような、得体の知れない狂気の瞳が覗いた。

「今ちびちゃんは、自分から観客を欲情させる祭りに身を投じたんですよ。
 ・・・・艶を楽しむ宴、百合嶺の『 楽 艶 祭 』にね 」

ちなみはショルダーバッグから一冊のファイルを取り出し、結花に手渡した。
表紙に『楽艶祭マニュアル』と記してある。
結花はそれを受け取ると、ちなみの顔をちらと見た。
ちなみは顎をしゃくった。
「それの意味ををよーく理解して、どうすれば効率的に観客を昂ぶらせられるか考えて下さい。
 状況は一万人収容の円形ドーム、ちびちゃんはその真ん中の舞台に一人です」
その言葉を聞きながら、結花はファイルを開いた。
そして、ページをめくり、目を通して、戸惑いの表情でちなみを見上げる。
ちなみは鼻を鳴らした。
「甘えは許さない、って言ったでしょう?
 まあ、学園祭まであと5日。その間は準備で学校は休みですから、時間は十分ありますよぉ。
 それからー、まだ栗毛ちゃんは生きてます。学園祭後は知りませんけどね。
 あとは、ちびちゃんが逃げずに来るだけです」
ちなみは眼を元に戻し、部屋を出て行きかけて足を止めた。
くるりと振り返り、唇を舐めて囁く―――


リカの居た家は落ち着かないので、結花は美鈴の家へ帰ってきた。
家には本当に誰もいない。
灯も、美鈴も、リカさえも消えた。
 
少し前まで、結花は一人でいることを苦に感じなかった。
むしろ進んで一人になった。
幼い頃美鈴に茶化されたように、床ばかりみつめる少女だった。
しかしある日、平坦な床は荒地に変わり、少女は下だけでなく前を見る必要に迫られた。
前を向いたことで、今まで気付かなかった明かりが見えるようになった。
その明かりは少女を照らす事を望んだ。
一度その安心を知ると、少女も明かりなしでは歩けなくなった。
今、千波にさらわれてその明かりが消えようとしている。
同時に、少女を囲んでいたものも闇に沈みかけている。
 
どうすれば助けられるだろう。少女は考える。

ファイルを投げ出し、結花は携帯を手に取った。
そこに残された最後のメールを見つめる。
結花は唇を噛みしめた。
ちなみの残した言葉が頭に響く。

    
     『 ちびちゃんの覚悟に、期待してますよ・・・・ 』


      
     ――――そして、学園祭の幕が開く――――
※次でラストです。