「こういう書類はコピーしてから、って前にも言いましたよね」
七瀬真琴(ななせまこと)はファイルを手に、眼前の新人へ言葉を投げた。
抑揚のない口調、眼鏡ごしに睨みつける鋭い眼光。
そこには、叱責が期待を込めたものではなく、ただ相手を疎んじてのものだと言う事が
あからさまに見て取れる。
騒がしかったオフィスも、日常会話にはありえない低いトーンに局地的に静まり返った。

「は…はい、す、すみません………!」
新入社員の美穂は恐縮しきり、青ざめたまま頭を下げる。
入社したての頃は噂話の好きな、明るく人懐こい娘だった。
しかし真琴に毎日のように絞られ、入社2ヶ月目にして借りてきた猫のように縮こまってしまっている。

 (鬱陶しい……)
美穂の社交的な性格は、真琴がこの世で2番目に嫌いなものだった。
気に入らないことは他にもある。
高学歴で、少し幼さが目立つものの可愛がられそうな愛嬌。
19歳で何も出来ないこの青二才が、4つ上である真琴よりも上、という空気が社内にはあった。
しかし、それらはあくまで「ついで」に過ぎない。
真琴が真に美穂を嫌う理由は、彼女がある女性のお気に入りだからだ。

「そんなに気にしなくていいよ、七瀬って結構変わったところある子だから。
 最近ちょっと目に余るし、今度何かあったら私から一言言っとくからさ」
美穂の頭を撫でてそう言う女性こそ、真琴が最も忌み嫌う平山亜由美(ひらやまあゆみ)だった。
所属は華の企画営業部。
24という歳ながら、新人と見紛う瞳の輝きを持つ女。
学生時代はテニスで名を馳せつつも「スケバン」を髣髴とさせる硬派であったらしく、腕っ節は社内の腕相撲大会でラガーマン上がりを下したほどだ。
性格はおおらかで面倒見がよく、端正なルックスはそのままメディア宣伝に使えるとの声もあった。
その影響力は当然に強く、社内では殆どの女子社員が「亜由美派」に属している。
彼女がセミロングの髪を広げて現れると、社内の朝の空気が一新される。

真琴はそれが気に食わなかった。


苛ついている。
帰宅した真琴は、腕を見てそう感じた。
白い、美白とは違う病的に白い腕には、産毛よりもやや濃い毛がうっすらと浮いている。
昨晩手入れをしたばかりなのに、だ。
それは彼女の感情が昂ぶっている証拠だった。
「はん…」
真琴はひとつ自嘲気味に笑うと、机に転がった注射器を拾い、腕に添えた。
白い表皮を破って沈む針がうっすらと見える。
その感覚と体内に染みる液を感じ、真琴はほくそ笑んだ。
注入したのは男性ホルモンだ。

『言っちゃ可愛そうだけどさぁ、七瀬さんって女らしさゼロだよね』
『チビで眼鏡で、いっつもしかめ面だもんね。あそこまで色気放棄できる神経が解んないよ』
学生時代、よく聞こえてきた会話だ。
真琴はそれをもっともだと感じた。150ほどしかない貧相な身体も、黒縁のださい眼鏡をかけている事も、苦い顔が基本になっている事も全て事実だ。
鏡を見るたび落胆はしたが、マシになろうという足掻きは15,6でやめた。
限界を知ったのだ。
どんなに化粧を覚えようが、どんなに栄養を取ろうが、女として行き着けるのは並みより下。
赤点をめざし勉強する者がいるか?
その自問に対する真琴の答えは、否だった。

しかし、真琴は何もかもを放棄したわけではない。恵まれぬ者は恵まれぬなりに落ち所を探す。
真琴は生来毛深いほうだ。きっとそれは、女ではない女として生きろということだ。
そう思い、いつしか開き直ったように男性ホルモンを摂取する自分がいた。
女でないとは言え、無駄な毛はきちんと剃る。筋肉をつけても見た目には細さを保つ。
その上で鍛え込んだ。
女を超える女として、女なぞには到底できないと思えるほどのトレーニングを課した。

「92……93、94…95……」
にちにちと畳を鳴らしながら、真琴は指立て伏せを繰り返す。これで8セット目だ。
指立て伏せは毎日1000回をノルマとする。体質なのか、それだけこなしても腕は枝のように細い。
彼女はそれら一回一回を噛み締めるようにこなした。
乳酸の限界が来るのは600回あたり。自分と同じ身体をもった人間ならそこで倒れ込むだろう。
しかし真琴はそこで水滴に塗れた眼鏡をとり、歯を喰いしばって腕を奮い起こす。
支えとなるのは自分への陰口だ。
『陰気な声を聞くだけでイライラする』、『向かい合って食事なんかしたくないよね』。
そんな言葉が限界を迎えた腕の一筋一筋を爆ぜさせる。

真琴は確信していた。自暴自棄とも思えるハードトレーニングを続けてはや7年、
今の自分の筋力はプロの格闘家にすら通用するだろう、と。
実戦経験はないかもしれない。だがイメージトレーニングは十分だ。
あの女、この女、憎い相手を殴り殺す一連の流れを夢の中ですら夢想していた。
ああこれは危ないな、と思い始めて一月あまり。
美穂と、そして亜由美に対する脳髄が焦がれそうな激情は、いよいよ発散させることが
難しくなりつつあった。

そして、ある日のことである。




「七瀬、ちょっといい?話があるの」
そう声をかけられ、真琴は面倒臭そうに顔を上げた。
目の前に亜由美が腕を組んで立ちふさがっている。
長身の亜由美に見下ろされるだけでも不愉快な真琴だったが、今の亜由美は柳眉を吊り上げ、怒りを顕わにしている。
真琴には、それがドブネズミが牙を剥くよりも醜悪に思えた。

「何でしょう。私の業務に何かミスでもありましたか」
真琴は眼鏡の淵をずり下げて嘆息した。言葉を交わすのも億劫だった。
亜由美の怒りがさらに層を成したのがわかる。
「ミスはないわ、あんた個人の業務にはね。でも、先輩としては褒められない」
激昂で亜由美のワイシャツがはだけ、僅かに谷間が覗く。
それがまた真琴の気に障る。
はだけ具合が垢抜けた亜由美をより洒落て見せ、そしてそれが意図せずとも男を射止めるから。

「昨日も美穂に些細なことで書類作り直させて、終電過ぎまで残業させたそうね。
 私はそっちの事情は良く知らないけどさ、まだ仕事の目的もよくわからない新人に、
 叱るばかりで伸びるとは思えない。
 ……美穂、あんなに真面目で、すごくいい子じゃない!」
亜由美は少し鼻声になっているようだった。
他人のために怒り、泣いているのだ。
感受性が豊かなのだろう。それは良い事かもしれないが、真琴には理解できない。
「正直言って、今の七瀬のやり方は見過ごせない。
 話、させて貰うよ」
亜由美の強い視線を受け、真琴は心に沸々と湧き上がるものを感じていた。
相手が今、自分に持っている不快感と同じ、いやもっと根源的な怒りが湧き上がっていた。
恵まれた人間が指図をしている、それが理不尽で仕方ない。

真琴は静かに目を閉じ、眼鏡をかけ直すと亜由美の方に体を向けた。
思えば、こうして彼女と正面に相対するのは初めてかもしれない。
「わかりました。今日は少し仕事が立て込んでいますので、夜の10時にご連絡差し上げます」
「OK、必ずよ」
レンズの向こうで亜由美が頷く。
真琴はその即断を称えようか嘲ろうか迷った。
週末の22時、誰もいない社内での立会いを亜由美は受けたのだ。


真琴が指定したのは地下の倉庫だった。
音が漏れず、十分な広さがある。高みから強烈なライトに照らされたそこはリングのようだった。
真琴は資材のひとつに腰掛け、缶コーヒーを傾けた。
興奮の為かひどく喉が渇く。
「ごめん、待たせたかな」
その時、倉庫の扉を押し開いて亜由美が姿を現した。
亜由美は気持ちの整理をつけてきたのだろうか、穏やかな表情だ。
「夜も遅いから簡潔に話そうか。私はね、七瀬」
亜由美はそう切り出そうとし、真琴が自分へ向けて缶を放ったのを見て口ごもる。
オレンジジュースだ。
軽やかに缶を受け止め、亜由美は戸惑いを浮かべた。
彼女の中には、真琴が気を利かせてジュースを奢るなどという想定はなかったのだろう。
「……あらぁ、悪いね!」
亜由美は無邪気に笑みを浮かべる。
このままいけばいくぶん和やかな空気になるだろう。ともすれば親密な関係を築けるかもしれない。
真琴がなにもしなければ。

しかし、それには真琴は亜由美を嫌いすぎていた。
見目良くスタイルもよく、情に篤くて人望まである、そんな亜由美を妬みすぎていたし、
何より今まさに缶を傾けて果汁を飲もうとする亜由美は、無防備に過ぎた。
対話をする気など端からない。ジュースの差し入れは親睦の為ではない。
それを飲むときの大きな隙をつくる為、
喧嘩慣れしているらしい亜由美に、コーヒー缶をひしゃげさせる右拳を確実にぶち込む為だ。
真琴は奥歯を噛み締めた。
何千回、何万回と夢想してきた瞬間だ。
重心を低くし、しっかりと地を踏みしめ、指立て伏せで鍛え上げた握力をもって拳を石ほどに固める。
腰の捻りを加え、放つのは渾身のストレートだ。
「ふぅ、おいし…」
缶から口を離した亜由美の顔面へ、入れ替わるように叩き込まれる拳。
――鍛えすぎたかな。
そう思ってしまうほどあっけなく、手の甲にぐちゃっと何かの潰れる感触が伝わってきた。
何か? 亜由美の鼻だ。
あの綺麗に筋の通った、顔の美しさを纏め上げる部分だ。

「げほっ!ぐ、ぐふ、う!うぶううっっ!!!」
亜由美は缶を取り落としながら鼻を手で覆った。
指の間から黄色い果汁と鼻水、血の混じった混合液が滴り落ちる。
「…こ……この、野郎……ッ!!」
目から涙を流しながら亜由美が睨みつけてくる。
「あら、良い眼。いつもの善人ぶった目よりよっぽど好きですよ、そのガラの悪い目つき。
結局、それが本性みたいですね」
真琴は血に塗れたコーヒー缶を投げ捨てて言った。
事実、今の亜由美の目には不快さではなく、今まで感じたことのない凄みを感じた。
「うるさい!アンタ何のつもりよ、先輩に手あげるのはクビを覚悟の上ででしょうね!」
尚も鼻を押さえて叫ぶ亜由美に、真琴は淡々と返した。
「あら、このこと外に漏らすおつもりですか?」
「…………!!」
真琴の言葉に、亜由美ははっと息を呑む。

真琴は亜由美の性格を良く知っていた。
『出来る』人間にありがちなように、彼女は人に弱みを見せない。
仕事の協力を請うようなことは基本的にしないし、弱音を吐いているのも見た事がない。
昔から姉御肌の一匹狼を気取っている亜由美は、暴力を振るわれた、鼻を折られたという
事実があってもそれを漏らさない。
ましてやそれが屈強な男にであればまだしも、小柄で地味な目下の者からとなれば、
気の強さで鳴らす亜由美のプライドが話すことを赦さないだろう。

「最低ね、あんた……」
ようやく鼻血の止まった亜由美が唇を噛んで拳を握る。
円状に赤い筋の走ったその顔が痛快で、真琴はこの数年で久々の笑みを浮かべた。


真琴の勝算は十分にあるはずだった。
亜由美の喧嘩の強さは聞いていたし、自分に格闘経験がそうある訳でもない。
それでも今この状況でなら勝ち得た。
「歯ぁ食い縛んなっ!!」
眼光も鋭く挑みかかろうとした亜由美は、しかし三歩と歩けずにたたらを踏む。
しまった、という表情がありありと見える。
理由は靴だ。彼女は仕事のままハイヒールを履いており、まともに走れない。
周到なことに真琴は安全靴だ。
「食い縛りますよ、この通りね!!」
その安全靴の固いつま先でもって、真琴は正しく歯を食いしばっての蹴りを放つ。
余裕があるため想定どおりの綺麗なフォームだ。
亜由美のほうなど無残なもので、腹筋に力が入らない、それどころか重心さえ傾いた状態で
その蹴りを喰らうことになった。
「おう゛ぇ…っ!」
目を開き、口から漏れた声は真琴の想像より低く苦しげだった。
「きたない声。」
人の腹筋を痛めているという感覚が真琴の臀部に染み渡る。

そして、それでは終わらない。
よろめく亜由美を追って真琴は一歩踏み出し、低空でのローを放った。
狙いは亜由美の左の踝、踏み潰すように蹴り込む。
ぐきり、とはっきりとした感触がする。
「うあ゛あああああああ!!!!!!」
亜由美はたまらず屈み込んだ。捻挫だ。
ブーツの不安定さとよろけた姿勢を狙っての蹴りが、無残にも亜由美の足を挫く。
亜由美は目をきつく閉じて丸まったまま震えた。

 ――なんだ…つまらない。
真琴は感じた。上手くいきすぎ、このままでは目論見よりずっと簡単に亜由美を壊せてしまう。
なら、少しは遊ぶか。
真琴はうずくまる亜由美に近寄り、おもむろにその黒髪を掴んだ。
ふわりとシャンプーの心地よい香りが漂う。
社内で綺麗だと散々噂される髪だ、なるほど確かに絹のように手触りがいい。
せっかくだからいくつか引きちぎろうか。
真琴がそう考え、髪を掴む手に力を込めた瞬間。
がしりとその手首が掴まれた。
ぎょっとしたのも一瞬、即座に肩の根元も押し込まれ、腕が伸びきる。
そして亜由美の身体が後転するように回った後…真琴の右肘と肩を、弾けるような痛みが襲った。

「い、痛いいぃっ!!」
真琴は反射的に腕を振り上げ、かろうじて致命的な感覚から逃れた。
右肘を電気のような痺れが壮絶に渦巻いている。
折れてはいないようだが、手のひらを握るということが叶わない。
そして肘の痛み以上に、真琴は心に衝撃を受けていた。
不用意に出した腕を掴んで固定し、身体ごと回転させて蹴り上げる。
反応が遅ければ肘が壊されていただろう。そんな動きは、想定にはなかった。
「砕けてれば、おあいこだったんだけどね」
亜由美が立ち上がる。
完全に左足を痛めたらしく、身体が左へ傾いている。
それでも両足はハイヒールを脱ぎ捨てて身軽になり、何より瞳が死んでいない。
2人は一瞬硬直し、先に動いたのは経験に勝る亜由美だった。
振り回すようなフックを素早く真琴の脇腹に打ち込む。ドッといい音がした。
「う、ん!」
真琴はその痛みに息を詰まらせながらも、冷静に怒りを組み立てていた。
容姿の壁によって味わった様々な理不尽さを思い出す。
そうすると、おもわず拳から音が鳴るほどに強く握り締めることができた。
その硬さで亜由美を殴りつける。
鍛え、鍛えて、鍛えた腕は、やはり面白いほどの威力を誇った。
「あぐ!」
亜由美の頬肉が歪み、鼻が殊更にひしゃげ、頭がぐるんと仰け反って黒髪が真琴の手を撫でる。
亜由美は右足だけでは堪えきれずに倒れ込んだ。
あの亜由美が這いつくばっている、真琴はその情景を振りぬいた姿勢のまま焼きつけた。
「あう、がふっ…!!」
亜由美は再び鼻を押さえた。また血が噴出したのだろうか。
必死な様子だが、真琴は今度は油断しない。危うく腕を折られかけた苦い経験からだ。

かくして、それは正しかった。
亜由美は立ち上がりざま、目にも止まらぬスピードでの裏拳を放つ。
風を切る音がかろうじて聞こえるだけの一打だ。
うかつに近づいていればガードなど叶わず、綺麗に頭に貰っていただろう。
ぞっとした。
ぞっとして、戦いのさなかに真琴は動きを止めた。それが経験の浅さだ。
亜由美はその隙を見逃さない。無事な右足で踏み込み、冷静に真琴の顔に拳を打ち込む。
ワン・ツーだ、と真琴はわかった。
距離を測る1打目で顔面へ水を飛沫きかけられたような感覚が襲い、眼球が少し痛んだ瞬間、
2発目が鼻と逆の目を抉り込んできた。

頭が真っ白になる、とはこの事で、真琴は棒立ちになっていた。
感覚としては少しずつ前に倒れ込んでいるようなのだが、一向に地面につかない。
棒立ちはまずい、そう感じたときには、当たり前だが遅かった。
ずん、という音が聞こえる衝撃で背骨が軋み、腹筋に痛みが降りてくる。ボディだ。
身体がくの字に折れ、喉からはそれが楽だというようにかふ、と自然に息が漏れる。
その直後、再び続けざまに同じ衝撃。ボディだ。
肺の辺りに岩ができたような苦しさのあと、ひく、ひくとその上部が喘ぎ、押し出すように食道を遡る。
「こぷっ」
身体が揺れる衝撃で眼鏡が地に落ちる。直後、口からほんの僅か、感じたよりは僅かな胃液がこぼれ出た。その事にまた頭が真っ白になる。
「は、吐いちゃった……」
誰に言うともなく真琴は呟き、落ちた眼鏡の傍に膝をついた。胸が熱く張る。
胃液とはこうも容易く溢れるものなのか。いや違う、それを搾り出した亜由美が強いのだ。
「吐いちゃったね。私に対してちょっとオイタが過ぎたわよ、あんた」
亜由美は真琴の襟首を掴み、片手で捻り上げた。もう片手は垂直に身体の向こうに控えている。

どこを殴られる。顔ならばいい、潰れてしまうかもしれないが顔ならばいい。
胸や腹部だったら自分は、きっと耐えられない。
真琴は震えた。亜由美の引き絞った右手が死神の鎌に思える。
この恐怖を怒りに変えなければ、しかし、それは無理だ。それにも経験が要る。
ならばなんとかしなくては。
なんとか、彼女の攻撃を止める方法を……。
そのとき、真琴の目には映った。自分を締め上げる亜由美の折れた左足首。
ここだ。

「うああー!!」
無我夢中で蹴った。慈悲など微塵もない。遅い来る猛獣に銃を放つほどの必死さで脚を振った。
目は瞑っていた。弾が当たったのかどうかは、獣の声で判別するほかない。
「ぎっ!」
それはまさしく獣の声だった。
虎や獅子ではない、小動物の断末魔のような声。
「い、いいぎぃいあぁああ----------------っ!!!!!!!」
甲高い叫びを上げ、亜由美の拘束は離された。
亜由美はまず膝から崩れ落ち、痛みから飛び跳ねて、横ざまに倒れ込む。
「あ…足が、足があ……ッ!」
呻き、左の足首を抱えていよいよ深刻な汗を流す。
助かった、と真琴は安堵した。
すると現金なもので、その途端に恐怖に塗りつぶされた怒りが沸々と沸いてくるのである。

「よくも……吐いちゃったじゃ、ないですか!!」
真琴は怒りをそのままに、安全靴を履いた足で亜由美の腹部を穿つ。
「うごおぉっ!!」
亜由美はそれどころでない時に蹴りを受け、まったく対処が出来ない。
勝った、とこのとき真琴は感じた。緊張が解けたわけではない、ただ、もう亜由美はダメだろう、
そういったどこかしら同情にも似た予感を持った。
実際、亜由美は絶望的なほどに不利だった。
真琴はさらに腹部を狙う。今度はさすがに腕でガードする亜由美だが、何しろ安全靴だ。
防いだ腕に顔が引き攣るほどの痛みが走り、しかももう立ち上がることが出来ないようなので
弱点である左足が狙われ放題となる。
「う、うぐ、ぐ……!!う、ぢぐ…しょう………っ!!」
腕のガードが破壊され、左足を執拗に踏まれ、想像を絶する痛みに亜由美の抵抗は
目に見えて弱まっていった。
根性がないと言われるだろうか。だがこの間に亜由美が上げていた声の悲痛さを聞けば、
きっと誰もがそのようなことは言えない筈だ。

その声を浴びながら尚も腹責めを続ける真琴は、自分でもイカれていると解っていた。
しかし、その倒錯がひどく快感だった。
皮膚の下の男性ホルモンが活性化し、亜由美の悲鳴で猛り、男根があれば狂おしいほどに屹立していることだろうと感じた。
実際、真琴はこの後で亜由美を嬲りつくすことに決めていた。
当初は敗北の言葉でも吐かせて終わりにしようと思っていたが、今はもう収まりがつかなくなっている。
まずはこの後。
何としても自分と同じ恥辱、嘔吐をこの女に味合わせてからだ。

安全靴は重い、そして亜由美の身体も力をなくして真琴の足にしなだれかかるようになっている。
蹴りは効率が悪く、真琴は拳を亜由美の腹に叩き付けた。
「もう、もぉ……ひ……う、うぉおえ゛え゛え゛ええ…!」
声だけは凄いが、中々内容物が出ない。
「らあっ!さっさと吐きなよ!」
真琴はさらに拳を振るう。そうして双方汗まみれで揉みあっているうち、ふと真琴は倉庫の扉が薄く開いていることに気がついた。
ぎょっとしたが、そこにいる人物を認めて口を歪に歪める。
「あら、ねえ先輩、可愛いギャラリーがいますよ」
その言葉に、亜由美もはっと顔を上げ、目を見開いた。
ただ一人の観客は美穂だ。亜由美が心配になって見に来たのだろう。
亜由美としては醜態を後輩にさらすという、この上なく屈辱的な状況になるだけだが。

そして、確かな瞬間はついに訪れた。
十数発目の拳が腹部に突き刺さった瞬間、亜由美が小さく息を吸い、下唇を痙攣させた。
 ――来た!
真琴はそう確信する。
「…み………み……らい、れぇえ…………!」
その囁きが終わらないうちに、真琴の肩の入ったパンチが亜由美の細腰をくの字に折る。
亜由美とてもう限界だった。
「おえぇええ゛え゛っ!!ひっぐ、うっ、うえええ゛え゛え゛え゛っっ!!!!!!!」
我慢して、我慢していたのだろう。
小さな口から溢れ出る吐瀉物を床にぶちまけ、えづきながら、嗚咽していた。

覗いている美穂はもはや言葉もない。
目の前の事が受け入れられていないのか、それとも受け入れたうえで呆けているのか。
彼女に見られたのは真琴にとっては誤算だったが、誰かに密告するような度胸はないだろう。
「美穂」
「は、はい!」
真琴はいつもの冷ややかな声で告げた。美穂が背筋を伸ばす。
「この場の片付けをしておきなさい。これも仕事の内です」
真琴はそういい、気絶した亜由美の体を背負った。
美穂はうろたえながら、精一杯の勇気でもって尋ねる。
「…はい。…そ、それで、あの……これから、どちらに?」
美穂の問いに、真琴はやはり冷ややかな眼で答えた。

「亜由美先輩には、暫くの有休を取って頂きます」
※<初出:2chエロパロ板『★女同士の壮絶なバトル Round4★』スレ>
 女同士のバトルという事で、単なる殴り合いではなく、嫉妬という要素を絡ませてみた作品。