※ 腹パンチ中心のヒロピン、リョナ物。嘔吐・失禁注意。
  また、かなり徹底的にやられてます。



呼吸。
人間が普段無意識に行っているこれは、生の基本にして、最も重要な要素でもある。
呼吸を正しく行えば、人の心は安らぎ、肉体は飛躍的にその性能を増す。
空手において息吹などの呼吸法が重視されるのもこのためだ。
その中でもとりわけ、呼吸に特化した格闘の流派がある。
名を、『風和呼神流』という。
特殊な呼吸法によって神を宿し、邪を祓うのがこの流派の理念だ。
その源流は神道にあり、政を担う表の人間の陰で、密かに人の世の闇と戦ってきたと伝えられる。
時代が下るにつれ、中国拳法の気功法・錬氣法などを取り入れながら、その技術は脈々と受け継がれてきた。
現代にも、その後継者がいる。
『風和呼神流』第36代目継承者、神代 香澄(かみしろ かすみ)。
齢15にして奥義を見につけた、天賦の才の持ち主だ。
もっとも、香澄が正式に36代目となる事は、まだ決定した訳ではない。
この流派を継ぐにはひとつの条件がある。“邪を祓う”力があると宗家筋の人間に認めさせる事だ。
香澄はまさに今、この試練に臨んでいる最中だった。

暴力が支配する街、多寡見町の高校に入学し、自らが頂点に立って治安を回復すること。
それを高校卒業までに達成すれば、晴れて正式な継承者として認められるという。
とはいえ、容易な事ではなかった。
地域でも札付きの不良が集う多寡見の闇は深い。
強盗に強姦、恐喝に殺人、違法薬物……ありとあらゆる犯罪が蔓延するスラム街だ。
ある広域暴力団がこの街の経済力に目をつけて“戦争”を仕掛けたが、一週間ともたずに敗走したという逸話もある。
多少武術の心得がある程度の女子高生ならば、まず3日と処女を守れまい。
しかし香澄は、その街に身を置いて1年あまり、未だに純潔を保っている。
それどころか、多寡見の各区画を牛耳る人間を次々に倒し、街中の注目を浴びる1人になっていた。
正義感に溢れる彼女の人気は相当なものだ。
通う高校にはファンクラブができ、常に10人以上の女生徒が取り巻きになっている。
下手な男を頼るより、香澄の目の届く場所にいた方が安全なのだから、当然といえば当然だが。
無論、そうした香澄の台頭を煙たがる人間は多い。
今日もまた、校門を出た香澄達の前に数人が立ち塞がる。


「よぉ、クソ女。昨日は弟分が世話んなったな」
タンクトップとジーンズを着用し、拳にバンデージを巻いた男が声をかけた。
線は細く、しかし肩幅はやや広い。見るからにボクサータイプだ。
「皆さんは、下がっていてください」
男の口調から敵意を感じ取り、香澄は取り巻きの女生徒に命じる。
「やーん、早く早く!」
女生徒は我先にと校門の陰へ隠れていく。
急いでこそいるが、誰一人として不安がってはいない。むしろ、アイドルのコンサートを心待ちにするような浮かれぶりだ。
そこには香澄に対する、絶対的な信頼が窺えた。
「おっ、また香澄が喧嘩するらしいぜ!」
「マジだ、しかも制服じゃん! パンチラ見れっかなぁ…………ま、無理だろな」
女生徒だけでなく、近くを通りかかった人間も次々に足を止め、野次馬に加わっていく。
その人の輪の中心で、香澄とボクサー風の男はゆっくりと歩を進めた。
そして、数歩分の間を空けて相対する。

「一応、名乗っとくか。俺は岡崎、テメェにボコられた藤野の兄貴分だ」
「そうですか。では岡崎さん、貴方にも忠告します。怪我をしたくなければ退いてください」
岡崎という男に対し、香澄は凛として言い放った。
『麗しい』という印象の強い見目に反し、声質はやや幼い。しかしその声は、一流のオペラ歌手さながらによく響く。
ただ一言を聞くだけで、特殊な呼吸を会得した稀有な人間である事が窺い知れる。
岡崎の頬に一筋の汗が流れた。
しかし同時に、彼は笑う。相手を屈服させた後を想像して。

岡崎の身長181cmに対し、香澄は170cmほど。体重は格闘家である事を加味すれば60kg前後だろう。
女子としてはかなりの高身長であり、同時にスタイルも群を抜いている。
セーラー服に包まれた胸は、首元の赤いスカーフを押し上げるほどに豊かだ。
腰も細く、紺のスカートから覗く脚線がまた極めつけに美しい。
モデルの世界へ足を踏み入れれば、すぐにでも一線で活躍できる逸材だろう。
顔立ちも整っていた。
瞳や鼻梁、唇といったパーツの全てが主張しすぎず、妙に好感が持てる。
瞬きをしたり、口を開いたり、それら全てに品がある。
風に靡く黒髪は艶やかで、揺れるたびに光の帯が流れていく。
まさに極上。
この後の人生で、もう二度とは巡り合えぬと確信できるほどの和風美人。
もしもその香澄を屈服させた暁には、街のルールに則って公然で陵辱できるのだ。
1匹の雄として、これほど狩猟本能をくすぐられる事はない。

「可愛い義弟の礼だ。悪ィが、初っ端からマジで行くぜ」
岡崎は義を貫く人間を演じながら、曲げた膝で軽やかなリズムを刻み始める。
そして猛然と踏み込んだ。常人の目では追えない速さだ。しかし、香澄の反応はさらに早い。
岡崎が迫るまでのコンマ数秒の間に、香澄は両腕を開いた。
「コオォォォォ…………ッ!」
桜色の唇が薄く開き、空手の息吹に近い呼吸が為される。
「っらァ!!」
まさにその顔面へと、岡崎の鋭いジャブが放たれた。
しかしそれは空を切る。間一髪で香澄に避けられたのだ。
「ッチ!」
相手の運の良さを呪いながら、岡崎はよりコンパクトにジャブを連発する。
しかし、それすらも当たらない。常に間一髪でかわされてしまう。
肩や視線でのフェイントを混ぜても、フックを振り回してもかすりもしない。
香澄の身体はただ、春風に舞う葉のごとく揺れているだけだというのに。

「ハァッ、ハァッ……クソッ、なんで当たらねぇ!!」
数分後、岡崎は肩で息をしながら香澄を睨み据えた。
対する香澄は、呼吸に一切乱れがない。静かな……否、あまりにも静かすぎる呼吸を繰り返している。
その呼吸法こそが香澄の強さの秘訣だ。
『風和呼神流』の極意は、呼吸を通じて風と調和し、遍在する神の力を身の裡へと呼び込む事にある。
無論、ここでいう神とは概念的なものに過ぎない。しかし、その効果は事実として顕著だ。
香澄が信仰する神は『四獣』。
『青竜』の青息(せいそく)、『白虎』の白息(びゃくそく)、『朱雀』の朱息(しゅそく)、『玄武』の玄息(げんそく)。
それぞれ効果の違うこれらの呼吸法を使い分け、あらゆる状況に対処する。それが香澄の戦い方だ。
まさに今、香澄の行っている呼吸が青息にあたる。
青息は、その特殊な呼吸によって、体内の筋やそれを包む膜を伸びやすい状態にする。
伸びやすい柔な筋肉は、動きを軽やかにし、衝撃を吸収し、疲労も溜めにくい。
そして鞭のようなそのしなやかさは、打撃の威力を何倍にも引き上げる。
挙句には、脳に新鮮な空気が循環し続けることによって、反射神経や動体視力が向上する効果さえ期待できる。
いわば究極のドーピングだ。
長年武術の鍛錬を積んできた香澄がそれを使えば、ボクサー崩れのジャブをかわす事など造作もない。
むしろ、リズムとタイミングが全てと言われる近代ボクシングこそ、呼吸を制する者にとって絶好のカモだ。

「ハァッ、ハァーッ…………!!」
香澄を睨みながら、荒い呼吸を繰り返す岡崎。
香澄は冷静にその様子を観察し、相手が息を『吸う』瞬間に動きを見せた。
人間は、吸気の瞬間が最も無防備になる。岡崎も香澄の動きに気付いたが、反応が間に合わない。
「がっ……!」
ガードしようとした手をすり抜ける飛び膝蹴りで顎を打ち抜かれ、鮮やかに意識を断ち切られる。
まさしく電光石火。ボクサーである岡崎を遥かに凌駕する機敏性だ。
見事な決着。しかし、戦いはまだ終わらない。
「こんの、アマァァああああっっ!!!」
香澄が着地しようとした瞬間、ギャラリーの輪の中から1人の男が飛び出した。
名は浜川。岡崎の仲間であり、香澄が岡崎の猛攻で追い詰められた所を羽交い絞めにする役目の男だ。
しかし香澄があまりにも軽やかに岡崎をいなすあまり、決着が付くまで機を逸していたのだった。

「オラアァッ!!!」
浜川は叫びながら、突き上げる形のボディブローを放つ。
「っ!」
香澄の視線が横目にそれを捉えた。
彼女の身体はまだ空中だ。回避は間に合わない、と浜川は確信した。
彼は動きこそ鈍いが、体重は100kgを超える。腹に一発見舞えれば、レスラーでも悶絶させる自信がある。
しかし、この時も香澄は素早かった。
足の先がかろうじて地面に着いた瞬間、素早く両脚を踏みしめ、両腕で身体の前に十字を切る。
「カッ!!」
鋭い呼気が一度発され、美貌が鋭く引き締まった。
直後、叩き込まれるボディブロー。巨体が突進する勢いを乗せた、丸太のような右腕での一撃。軽いはずがない。
美しい香澄の身体がくの字に折れ、吹き飛ぶ……そのイメージを何人のギャラリーが抱いたことだろう。
しかし、現実は違った。
肩幅に地を踏みしめた香澄のローファーは、衝撃で十数センチほどアスファルトを擦る。しかし、それだけだ。
地面に二筋の擦り跡を残して、止まった。
「なっ…………!!」
愕然としたのは攻撃した浜川だ。
体重に裏付けられた攻撃の重さには自信があった。
それを、少々体格が良いとはいえ、女子高生ごときに真正面から受け止められるとは。
動揺する男を他所に、一部のギャラリーからは歓声が上がっていた。
「おおっ、久々に白虎きた! やっぱカッケェなぁ!」
「避けらんねぇって判った瞬間に白虎って判断が流石だわ」
「バカねあいつ、よりによってお腹狙うなんて。香澄さんの一番丈夫な場所なのに!」
声を上げているのは皆、香澄の喧嘩を見慣れた人間だった。
幼い頃から丹田での呼吸を叩き込まれてきた香澄の下腹部は、ゴムタイヤのようにしなやかで強靭だ。
さらに今は、体内の筋肉や膜を故意に収縮させる『白息』を用いている。
その硬さと耐久力は、まさしく鉄板並みだと噂されていた。
「終わりです!」
香澄の鋭い声が響いた直後、自失した浜川の右腕が払い除けられる。
そして、鮮やかな右ハイキックが浜川の側頭部へと叩き込まれた。
「があ゛っ…………」
岡崎と同じく、浜川もまたこの一撃で意識を刈り取られる。

巨体が重々しく崩れ落ちると同時に、歓声が湧いた。
香澄の強さと美しさを称える声、暴力を撥ね退けた事への賞賛、そして……
「ううおおおっ、見えたぁっ!!!」
「ひゃひゃっ、今日はレースつきのピンクか。また可愛いの穿いてんなぁ!」
そう野次を受け、浜川を見下ろしながら残心を取っていた香澄の表情が変わる。
頬を染め、目を見開き。
「あ、あっ………………み、見世物じゃありませんっっ!!!」
通りの果てまで響き渡る香澄の叫びに、ギャラリー達は笑いながら逃げていく。
多寡見の街には長らくなかった、和やかな雰囲気だ。
こうした情景が見られる事こそ、香澄がこの街の“邪を祓っている”証拠と言えるかもしれない。


「相変わらず化け物じみた強さねぇ、あのガキ。……どう、同じバケモノとしては。勝てそう?」
ビルの一室から校門を見下ろし、白人の女が告げた。
返事はない。
女が訝しんで振り返ると、その視線の先では、大柄な男が女を激しく抱いている所だった。
「ん、んん゛っ……うあぐ、ふっ、太いい゛っ…………!!!」
女の悲痛な喘ぎが響く。
「はーっ……アナタねぇ。そいつらを宛がってやったのは、アナタなら神代香澄を潰せるかもって期待してるからよ。
 せっかく、その香澄の戦ってる所が見られるチャンスだっていうのに」
女が呆れたような口調で告げると、男は後背位で激しく交わりながら背を伸ばした。

どれだけの時間をトレーニングに費やしたのかと問いたくなるほど、全身が筋肉で膨れ上がっている。
特に、僧帽筋、三角筋、上腕二等筋などは、充分にマッシブな人間を1人用意し、
その上に戯れで別人の筋肉ブロックを上乗せしたような有様だ。
身長は低く見積もっても190cmを超え、体重は150kgを下回る事は有り得まい。
よく大柄な人間を指してヒグマのようだというが、彼に限っては比喩にならない。
まかり間違っても人を殴ることを仕事にしてはいけない。そう感じさせるほどの異形だった。
その彼がトレーニングすらした事のない素人だと言って、信じる人間がいるだろうか。

「なら訊くがよ、アベリィ。アンタは道向こうのショーウィンドーに肉が飾られててだ、それで涎垂らすのか?
 肉ってなァよ、こう目の前でジュウジュウ言ってて、ソースやらの匂いがして、ナイフが簡単に入る……そこで涎が出んだろうが。
 女も同じだ。手の平でグチャグチャに出来るって状況じゃなきゃ、勃たねぇよ」
男はそう言って、眼前の女の腰を掴む。そして力任せに引きつけながら、自らも腰を打ちつけた。
女はすぐに暴れ始める。
「い、いたいっ、痛いーっやめてっ!! お願い、もうやめてぇえっ!!」
まさに決死の形相で叫ぶ女。しかしそれを蹂躙する男は、彫りの深い顔に笑みを深めるばかりだ。
「ウルセェぞ。テメエもゲロ吐かされてぇのか?
 なら、せめて2発は耐えろよ。どいつもこいつも1発こっきりでオチやがって、クソ面白くもねぇ」
男が盛るベッドの周りには、彼に壊されたと思しき若い女が6人転がっていた。
その全てが腹部を押さえ、涙と吐瀉物に塗れたまま気を失っている。
「それで最後になさいよ。それとあの女も、本当に目の前にあれば平らげてくれるんでしょうねぇ……矢黒(ヤグロ)くん?」
アベリィと呼ばれた女は、男に向かって問う。
「当然だ」
異形の男……矢黒は、泣き喚く女を仰向けにしながら答えた。





神代香澄の元に果たし状が届くと、すぐに街中へ噂が広まる。
ある者は、救世主がまた一つ暴力の種を潰してくれるのか、と期待を寄せ。
ある者は、あの生意気な女が今度こそ地を這うのか、とほくそ笑み。
またある者は、戦いに挑む香澄の姿そのものを目当てに集った。
予め戦いになると判っていれば、香澄も相応の格好をする。吸汗性や通気性、動きやすさを重視した服装だ。
となれば当然、身体に密着した軽装……という事になる。
今日もやはりそうだった。
上はピンク色をしたノースリーブのスポーツウェア、下は3分丈の黒スパッツ。
密着性は高く、理想的な椀型の両乳房や、引き締まった腹筋、くびれた腰、流れるような脚線が浮き彫りになる。
さらにはポニーテールに纏めた髪型がいよいよスポーティな印象を強め、ギャラリーの視線を男女問わず釘付けにした。

「いつ見てもすげぇチチだ。たぶん本物だよな、アレ。蹴られてもいいから揉んでみてぇわ」
「スパッツ姿もエロくて堪らんわ。締まった尻とか、股下の三角の隙間とか、太腿への食い込みとか……」
「スパッツがエロいなんて、運動部系なら大体そうだろ。むしろあの子の場合、腹筋じゃね?
 バキバキに割れてるって程じゃねーけど、やたら綺麗だし」
「息止めてる間は鉄板みたく硬いらしいな。流石にそこまでにゃ見えねーが、確かに無駄がなくてカッコいい腹だよな」

快晴の中、指定の場所に現れた香澄を、ギャラリーが口々に品評する。
香澄はそれに一瞥をくれる事もなく、ただ静かに呼吸を整えていた。
だがやがて、その瞳が大きく見開かれる。
「ん、何だ?」
香澄の開眼を訝しむギャラリー達は、視線の先を追って息を呑んだ。
ゴリラか、あるいはヒグマか。明らかに人間としては不自然なシルエットが、ゆっくりと近づいてくる。
「え…………誰、あいつ?」
「し、知るかよあんなバケモン。ここらじゃ見たこともねぇ」
「っていうか、まず人間なの……?」
「強そうなのは強そうだけどよ、歩き方とかブラッとしすぎじゃね? すごい素人臭いっつーか……」
香澄を相手に軽口を叩いていたギャラリーも、ただ戸惑いの色を浮かべるばかりだ。


ゆったりとした歩みのまま、男……矢黒は香澄と対峙する。
矢黒がまず行ったのは、香澄の瑞々しい肉体を舐め回すように眺める事だった。
「ほぉ……ナマで見ると、また美味そうだな」
口元を緩めて告げる矢黒。小物めいた言動だが、しかし、彼の纏う雰囲気が蔑む事を許さない。
至近に寄れば、その印象はいよいよ獰猛な獣そのものだ。
香澄の顔に汗が伝った。
「あら。流石に余裕なくなっちゃったみたいねぇ、多寡見の救世主さま?」
矢黒の後ろからアベリィが姿を現す。
「なるほど……貴女の差し金ですか」
香澄は正面の矢黒を警戒しつつ、アベリィに鋭い視線を投げた。
香澄とアベリィには因縁がある。
多寡見町を訪れたばかりの香澄に洗礼を浴びせようとした結果、逆に手痛い敗北を喫したのがアベリィだ。
ある意味、香澄が“救世主”と呼ばれるようになったきっかけとも言える。
しかし、香澄の栄光の始まりは、アベリィの挫折の始まり。
力が全ての街で、新参者に後れを取る……それがどれほど致命的な事かは、香澄にも想像がつく。
当然、いつか何らかの形で復讐に来ることは予見していた。
「そういう事。お前には、私が受けた以上の屈辱を味わって貰わないと。
 とりあえず彼にボコられた上で、犯されてちょうだい。そこでどのぐらい惨めに啼くかで、後の処遇を考えてあげるわ」
アベリィは矢黒の腕を撫でながら、血色の悪い唇を歪めた。

「無闇に人を傷つけたくはないのですが……退いては頂けませんか?」
香澄は矢黒の顔を見上げて問う。
岡崎の時も身長差はあったが、矢黒相手ではさらに違った。およそ頭一つ分……いや、それ以上の差か。
そしてその身長差以上に、上腕のサイズが違いすぎる。香澄の腕4本で、ようやく矢黒の1本分。
至近で邂逅したヒグマと少女、まさにその図だ。
そしてヒグマは、飢えていた。交渉の余地など端からなかった。
「残念だがそうもいかねぇ。俺ァたった今、お前を喰う事に決めたんだ」
矢黒はそう告げ、無造作に腕を伸ばした。そう、無造作に。そしてその腕の先は、容易く香澄の左胸を掴む。
「なっ!!」
ギャラリーから驚愕の声が上がった。
ボクサーのジャブすら難なく回避する香澄が、立会い直後に乳房を掴まれるとは思いもしなかったのだろう。
香澄自身も掴まれた左胸を見下ろし、唖然とした表情を浮かべている。
「ふふっ」
アベリィが塀に寄りかかってほくそ笑んだ。
矢黒という男は、格闘技の経験が一切ない。路上の喧嘩のみで勘を養った、正真正銘の素人だ。
そして素人の動きは、時として玄人の裏を掻く。
今もそうだ。『漫然と乳房に手を伸ばす』という無謀な動きが、かえって香澄の虚を衝いたのだろう。
こと神代香澄に対しては、なまじ格闘技が染み付いた人間よりも、全くの素人の方が勝つ可能性が高い。
アベリィは、自分のその読みにいよいよ強い確信を抱いていた。

「チッ、さすがにナマ乳じゃねーか。とはいえ、なかなかの揉み心地だな。
 変な呼吸法を使うらしいが、スーハーしてっと乳まで膨らむのか?」
パッドごとスポーツウェアを揉みしだき、矢黒が笑う。
ギャラリーの中から生唾を呑む音がしはじめた。まさに男の夢を実現している矢黒を羨んでの事か。
しかし、香澄とてされるがままの女ではない。
「………………っ!!」
最初こそ唖然としていた香澄も、胸を揉みこまれるたび、表情に怒りを孕ませ始める。
そして、一瞬にして反撃に転じた。
胸を掴む矢黒の右肘に手を添え、後方に反動をつけてから勢いよく飛び上がる。
跳ね上がった長い両脚は、そのまま蛇のように矢黒の肩に絡みつく。
同時に全体重をかけて腕を引き込んだため、矢黒の巨躯は為すすべなく前転する。
鮮やかな飛びつき腕十字だ。
「うおおっ!?」
姿勢を崩された矢黒が、驚愕の声を上げた。そして直後、その声は腕関節を極められる苦悶の声に変わる。
「ぬ、うぐぐっ……!!」
彫りの深い顔を顰めて逃れようとする矢黒。しかし香澄のポジショニングは完璧であり、固めは微塵も緩まない。

「ウソ、もう決まっちゃうの? 格好よすぎなんだけど香澄さん!」
「だろうな。いくら筋肉あっても、素人が関節外すのは無理だろ。決まりだわこれ」
「まぁあいつも、負けて本望じゃね? スパッツ穿いた香澄の股に挟まれてギブとか、最高じゃん」
ギャラリーは口々に噂する。大半が香澄の瞬殺劇だと考えているらしい。
しかし。壁に寄りかかるアベリィは、口元の笑みを消していない。

「非を詫びて、降参して下さい!」
香澄は背を反らせて極めを強めつつ、よく通る声で叫ぶ。
「ぐぬっ、ぬぐぁ…………お、面白ェ…………!!」
矢黒はしばし両足を暴れさせていたが、やがてその動きをぴたりと止める。
ギャラリーには、それを降参と見る者もいたが、足裏を地面につけて力を溜めているのだと見る者もいた。
そして、正解は後者だ。
「うるぁ…………ああぁらァっっ!!!」
矢黒は獣のように吼え、極めで伸ばされた右肘を強引に曲げ始める。
「あっ!?」
驚愕したのは香澄だ。渾身の力で伸ばしていた肘関節が、重機を用いたかのような凄まじい力で戻されていく。
背中が地面から離れ、矢黒の腕にしがみ付いたまま宙に浮く形となる。
 ――まずい!
その直感が香澄を救った。
矢黒は持ち上げた香澄の身体を、腕の振り下ろしで地面に叩きつけようとする。
香澄はそれより一瞬早く技を解き、頭を庇う形で受身を取った。
もしも反応が遅れれば、後頭部からアスファルトに激突していたところだ。
「うわっ、危ね…………」
ギャラリーの声がした瞬間、香澄の頭上を影が覆う。矢黒の影だ。
右腕を地面に振り下ろした直後、体を反転させる勢いを利用して左拳を振りかぶったらしい。
岩のように巨大な拳が、香澄に迫る。狙う場所は、フック気味の左拳がもっとも自然に狙える場所……腹部だ。
それを察した瞬間、香澄は即断する。
まだ地面に叩きつけられた直後で、矢黒の丸太のような腕が胸の上にある。横に転がって避ける事は不可能。
ならば耐えるしかない。
「カッ……!!」
鋭く大量の息を吸い、肺に留める。身の内の筋肉や膜を極限まで収縮させ、石の一塊と化す。
「おおっ、白虎だ!」
間に合ったか、という響きの声がギャラリーから漏れた。
彼らは『白息』をよく知っている。体重にして倍近い巨漢の突進をも、苦もなく止める受けの奥義だと知っている。
だからこそ、その次の瞬間の出来事を、誰一人として瞬時に理解する事はできなかった。

「ぐふ……っ、……ご、ほ…………っ!!!」

香澄の唇から漏れる、苦しげな息。
瞳孔が開いている。顎が上がっている。
そして、爆心地……左拳を叩き込まれた場所は、岩のような拳の半ばまでが隠れるほどに陥没していた。
その衝撃を物語るかのように、伸びやかな両脚が宙を彷徨う。
股座に食い込んだスパッツもまた衆目に晒され、主の窮地を喧伝すると共に、否応なく男達の鼓動を早めた。
「っぐ、けふっ…………かほっ、あがはあっ…………!!」
香澄は苦しげに咳き込みながらも、跳ねるように数度横転して矢黒と距離を取る。
一方の矢黒は、叩き込んだ左拳をただ見つめていた。
「おお、硬ってぇ……」
そう呟き、視界の端で香澄が立ち上がるのを認めると、逞しい顎を歪めて笑みを作る。
「最高だ、立ちやがった。他の女どもは、一発殴っただけで血ヘド吐いて壊れちまうのによ!」
飢えた獣が威嚇するようなその笑いに、ギャラリーは言葉を失う。
その不穏な空気に影響されたかのように、晴れていた空までもが曇り始めた。
しかし、香澄の心が折れる事はない。
「今の言葉が事実なら、あなたは女性の敵です。…………その悪行、ここで止めます!」
凛と響き渡る声で一喝し、呼吸を整える。
両腕を開いて行う、空手の息吹に酷似した呼吸。『青息』だ。
「ほぉ、生意気なオンナだ。せっかくだが、説教は俺の鬱憤を呑みこんでからにしてくれや。出来るんなら、なァ!!」
矢黒も肩を回して戦いに応じた。
まさに柔と剛。対照的な2人が、互いの瞳を睨みながら間合いを詰めていく。
「――カァッ!!」
矢黒のワークブーツが強く地を蹴った瞬間、静寂は終わりを告げた。




「アイツ、マジで化け物かよ…………」
数分の後、ギャラリーの1人が漏らした言葉は、その他大勢のそれを代弁するものだった。
『青息』を使った香澄の反射神経の良さは、街中で広く知られる所だ。
曰く、ナイフや七首を持った不良6人に襲われても、かすり傷一つ負わなかった。
曰く、生で観たボクシングの世界ランカーと、反応速度がほぼ同じだった。
他にも、多重ドーピングだと揶揄されたり、ピストルの弾すら避けられるのではと本気で語られたり、
その異常性を物語るエピソードは枚挙に暇がない。
しかし矢黒の身体能力は、その『青息』の反応速度をも凌駕する。

「くっ!」
突き出された矢黒の右拳を捌ききれず、香澄の身体が泳いだ。
そこへ間髪入れず左フックが襲う。香澄は頭を下げてかわすが、その首筋を矢黒の右手で押さえ込まれてしまう。
直後、矢黒の左膝が腹部にめり込んだ。
「がはっ……!!」
香澄の瞳が見開かれ、口元から唾液が散る。爪先立ちになった脚が、膝の突き上げの強烈さを物語る。
さらに矢黒は、駄目押しとばかりに右のフックを叩き込んだ。
「ぐうう゛っ!!」
香澄は咄嗟に左腕で脇腹を庇うが、直撃した以上は身体が泳ぐ程度では済まない。
暴風に吹き飛ばされたかのように錐揉みし、地面に2度バウンドして転がる。
無論、自ら飛んで衝撃を殺した部分もあるが、間違っても優勢と言える状況にはない。
パワー、スピード、そして当て勘。矢黒はその全てが人間離れした域にあった。
「やだぁっ、頑張って香澄さん!!」
「そうよ、負けないで!」
香澄の取り巻き達が声を限りに叫ぶ。
香澄という後ろ盾を失えば、たちまち食い物にされる身なのだから必死にもなろう。
またそれを抜きにしても、純粋に香澄に憧れている女生徒もいるようだ。
彼女達は、自分達の強さの象徴である香澄を涙ながらに見守っている。正義が暴力に屈する事のないよう、祈っている。
そうした事情を背負っている以上、香澄に負けは許されない。
「はぁ、はぁっ……」
『青息』を使い続けた挙句にそれを破られ、並外れた肺活量を誇る香澄も、ついに呼吸を乱し始めていた。
しかし、その程度ならば持ち直せる。まだ手は尽きていない。
「すーっ、ふぅーーーっ」
香澄は迅速な深呼吸で肺の中をリセットする。そして次の瞬間から、また異なるリズムの呼吸を始めた。
「ほぉ。まだ何か隠し玉があるみてぇだな?」
矢黒は指を鳴らしながら香澄に歩み寄っていく。
彼は気付いただろうか。繰り返される香澄の呼吸が、彼自身の呼吸と全く同じタイミングである事に。
『玄息』……水に身を映すがごとく、呼吸を通じて相手と同化する、玄武の技。
対象は1人に限られるものの、風のように舞う『青息』以上に精密な回避行動が期待できる。
事実、香澄が『玄息』を使い始めてから、矢黒の攻めは明らかに精彩を欠き始めた。

「ぐおあ゛っ!!」
ビルの合間に野太い声が響く。
右フックを鮮やかにかわされ、巴投げの要領で背中から投げ飛ばされた矢黒のものだ。
矢黒は声ならぬ声で吼えながら跳ね起き、アッパー気味に拳を突き上げる。
「はっ!」
香澄は冷静にそれをかわし、逆にハイキックで矢黒の側頭部を舐めた。矢黒の巨躯が横ざまに倒れ込む。
「っと……フン、馬鹿が。スカりやがって」
片膝を立て、拳を地に突いて立ち上がろうとする矢黒。しかし、すぐに崩れ落ちる。矢黒の表情が変わった。
「脳を揺らしました。眩暈や吐き気もするはずです。これ以上は危険、と忠告しておきます」
矢黒を見下して香澄が告げる。
「…………へへ、う、嘘だろ。なんでだ、なんで立てねぇ。なんで、足がシャンとしねえ。
 この俺が、女の下で地べたを這うだと? ……………クソが…………………クッッソがァあああぁぁッ!!!」
矢黒は吼え、顔中を歪ませた。歯を食い縛り、太い青筋を浮き立たせ。
笑みにも見えるが、そうではない。脳の血管が破れそうなほど激昂した人間が見せる、憤怒の表情だ。
この表情が出た人間の馬力は恐ろしい。
いや……矢黒の場合、理性を飛ばした時の怖さは馬力だけではない。
男としての矜持を傷つけられた屈辱は、生まれついての天才に“執念”を植えつける。
眼前の獲物は生かしておかない。必ずや息の根を止める。そう決した瞬間、規格外の怪物は内なる進化を遂げていた。


ダウンから立ち上がった矢黒の変貌は、傍目にも明らかだった。
つい数分前まで矢黒の攻撃を華麗に捌いていた香澄が、再び後手に回り始めたからだ。
「っ!!」
鼻先を矢黒の拳に舐められ、香澄の表情が強張る。
絶えず『玄息』は用いているが、それで呼吸を合わせてもなお、矢黒の猛攻を凌ぎきれないのが現状だ。
呼吸のリズムから予想されるタイミングと、実際に攻撃の来るタイミングとがズレている。
闘争本能が肉体の望むリズムを振り切っている、という所か。
また、問題なのはタイミングだけではない。
「ッシャア!」
矢黒は香澄の突きをダッキングでかわし、その状態で右腕を振り回す。
上体を水平にまで下げたテレフォンパンチ、という風だ。
普段ならば当たる筈もない。しかしカウンターで出された今は、香澄とて避けきれない。
ならば防ぐしかないが、豪腕から繰り出されるパンチを防ぎきるには、両腕を使うしかなかった。
「ぐっ!!」
両腕をクロスさせて頭を庇い、膨大な衝撃を殺す。その代償として、香澄の脇腹は完全に空いてしまう。
怒りに狂う今の矢黒が、その隙を見逃す筈もない。
「貰った!」
矢黒は腰を捻り、渾身の力を込めて左のフックを叩き込む。
それは香澄の無防備な脇腹へ深々と抉りこまれ、スポーツウェアに歪な皺を刻んだ。
「ほぐうっ…………!?」
悲鳴が響く。豊かな肺活量を持つだけに、曇天へ吸い込まれるかのような悲鳴が。
香澄の身はフックの衝撃で軽々と吹き飛ばされ、アスファルト上でパウンドし、横ざまに数メートル転がった所でようやく止まる。
「…………ァ゛ッ、はっ…………」
桜色の唇から、苦悶の呻きが吐き出された。
右腕はぶるぶると痙攣しながら、患部である右脇腹を抱えている。左手は堪らないといった様子でアスファルトを掻く。
アスファルトに突っ伏し、尻だけを高く掲げる格好はそれ以上に無様だ。
広い輪を形成するギャラリー達は、誰もが目を見張っていた。
いかにも育ちの良さそうな香澄が取る無様な姿に、興奮とも、絶望ともつかぬ感情を覚えているのだろう。

「どうした、もっと楽しませてくれよ。オンナの敵である俺の悪行を、止めるんだろ?」
矢黒は指を鳴らしながら香澄との距離を縮める。
香澄は涎を滴らせながら立ち上がるが、矢黒の猛攻を捌く手立てはなかった。
風に揺れるような『青息』では、反応速度が追いつかない。
相手の呼吸に合わせる『玄息』でも、格闘素人ゆえの出鱈目な動きは読み切れない。
状況が変わらない限り、同じ事態が繰り返される。
「きゃああっ!!」
香澄の悲鳴が響き渡った。
強引なアッパーを避けようとして体勢を崩した所へ、一手早く腰を落とした矢黒からのボディブローを受けたらしい。
『白息』をする暇もない、正面からの直撃被弾。
香澄の身体は再び吹き飛ばされ、背後にあった廃ビルの扉を突き破る。
咄嗟に背を丸めて後ろ受身を取り、空中を蹴り上げて即座に立ち上がる辺りはさすがと言えよう。
「う゛っ!かはっ……けはっ……!!」
しかし、直立できたのも一瞬のこと。すぐに内股で壁に寄りかかり、腹部を押さえて咳き込みはじめる。
「へっ。第二ステージへ突入、ってか」
矢黒もまた老朽化した扉の片方を蹴り破り、廃ビルの中へと踏み込んだ。
「香澄さんっ!」
「やめとけ、危ねぇぞ!!」
香澄の取り巻きの女学生が後を追おうとするが、男達がそれを止める。
その判断は正しかった。化け物2人の戦いに、普通の人間が介入するべきではない。
彼らに許されるのはただ、朽ちたビルを囲み、漏れる音を手がかりに中の様子を想像することだけだ。





長い間換気がなされていないのか、廃ビルは空気が淀んでいた。そして妙に蒸す。
いや、あるいはその熱は、矢黒の肉体が発するものか。
矢黒はシャツを荒々しく脱ぎ去った。汗ばんだ胸板が空気に晒され、興奮が増していく。
下半身も硬く隆起していた。
あと何時間、いや何分か後には、香澄を屈服させられる事だろう。そうすれば、あの瑞々しい肉体を貪れるのだ。
そう考えれば、局部に血が巡って仕方がない。
「そこか」
矢黒は2階の廊下で足を止め、前方に立つ香澄を見やった。
数分前までは腹部を押さえて逃げ惑っていたようだが、いつの間にか呼吸が整っている。
しかし、その見目は変わり果てていた。
解けかけのポニーテールに、皺だらけのスポーツウェア、初めと比べてひどく裾の上がったスパッツ。
頬は切れ、両腕には痣が残り、ウェアに包まれた腹部は呼吸と共に蠢き、膝は細かに震えている。
「ひでぇ有り様だ」
矢黒は言った。無論、同情などではない。あえて言葉に表すことで、嗜虐の快感を高めているに過ぎない。

矢黒は元々、弱者を虐げるのが好きだ。
もっとも、目に映る全てが弱者なのだから、単に『人を殴るのが好き』と言い換えてもいい。
中でも女は最高だ。女の腹は、殴ればぐちゃりと潰れて小気味いい。いい匂いもするし、泣き顔がまたそそる。
唯一の不満が、女は皆、ボディブローの一発限りで潰れてしまう事だった。
しかし、香澄は違う。今まで会った中でも指折り数えられるほどに美しく、凛とした品がある女。しかも、潰れない。
今までに何発も直撃弾を見舞っているにも関わらず、なお静かな闘志を向けてくる。
「あなたのように、理不尽な暴力を振るう人には負けません!」
香澄は矢黒を睨み据え、やや幼い声を響かせる。その声すら、今の矢黒には愛おしかった。
健気だ。健気な人間は誰でも愛でたいものだ。普通の人間なら撫でるだろうし、矢黒のような人種は…………殴る。
キュッという音を立てて、ワークブーツが床タイルを蹴った。
目的は、香澄の“中心”に拳を叩き込むことだ。ただその為に、戦闘の勘を研ぎ澄ます。
「シッ!」
近づく矢黒に対し、香澄がローキックを放った。
恐ろしく鋭い呼気で放たれるそれは、当たれば電気ケーブルを押し当てられたような痺れが走るだろう。
ただし、防ぐのは簡単だ。矢黒は突進の勢いを利用し、香澄に喉輪責めを掛ける。
矢黒と香澄とでは実に20cm以上の体格差がある上、肩幅に恵まれた矢黒はリーチも長い。
その条件下で前屈み気味に喉輪を極めれば、香澄のあらゆる打撃はむなしく空を切る。
「がはっ!」
香澄は顔を引き攣らせていた。喉輪の苦しみか、それとも状況の悪さを察してか。
「なーるほど、最初っからこうすりゃあ良かったんだな」
一方の矢黒は余裕たっぷりに舌なめずりをし、喉輪をかけていない方……利き腕の右を引き絞る。
「ああ、うあ゛っ…………!!」
いよいよ焦りを見せた香澄が脚をばたつかせるが、それも艶かしい股関節がスパッツ越しに強調される効果しかない。
「…………いくぜぇ………………!!」
矢黒は声を震わせながら宣言する。セックスで膣内射精を宣言する時と同じ調子で。
引き絞りに引き絞った右腕を解き放ち、同時に喉輪を極めた左手を引いて、正面から衝突させる。
拳が空気と擦れ合う感覚の後、膨大な肉の壁にぶち当たった。
香澄も『白息』とやらを不完全ながらに行い、必死に力をこめているのだろう。そもそもの腹筋もよく鍛え込まれてはいる。
しかし、そんな壁では止められない。
拳先は易々と香澄の肉壁を突き破った。力を込めた腹筋はウインナーと同じ。一度表皮を破ってしまえば、後は柔らかいものだ。
ぐじゅりっ、と一気に深くまで埋没する。
どくんどくんと脈打つ臓器が手首を押し返そうとしてくるが、拳を捻りこめば簡単に更なる奥まで入り込んでしまう。
「げぇあっほごおお゛ぉえ゛っっ!!!」
抉る感触も会心ならば、漏れる悲鳴も会心の出来だ。
育ちの良さそうな顔からは想像もできない、ヒキガエル以下の濁った声が響き渡る。
「っらぁっ!!」
気合一閃、拳を振りぬけば、香澄の細い身体は為すすべなく壁へと叩きつけられる。
「げほっ、げほっげはっ、ぁはっ!…………ん゛っ、ごぶっ…………!!」
壁沿いにずるずると崩れ落ちながら、香澄は数度激しく咳き込み、口元に手を当てた。
そこでまた咳き込むと、指の合間からどろりと茶褐色の液体が漏れる。
眉根は寄せられ、瞳はきつく閉じられ、目の端には涙が光り。
その姿は、矢黒の歪んだ性癖をひどく満たす。精神的な射精というものがあるとするならば、彼はまずここで達していた。


今まさに嘔吐したばかりの香澄は、俊敏には動けない。
壁際にへたり込んだ所を矢黒の蹴りが襲えば、よろめくように横に避けるしかない。
当然、その動きは矢黒に読まれる。後ろからポニーテールを鷲掴みにされ、そのまま仰向けに引き倒されてしまう。
さらに腹部へ膝を乗せられれば、もう逃れる事はできない。
「う゛ああああーっ!!」
香澄は悲鳴を上げた。
散々痛めつけられた腹部へ、150kgを超える体重が、全てではないにせよ掛かっているのだから当然だ。
「ハハハッ、どうだ。小技使いのテメェでも、こうなりゃ呼吸もクソもねぇだろうが!」
膝頭でグリグリと腹部を虐め抜きながら、矢黒は笑う。
膝を押し込むたび、香澄の美貌が苦痛に歪む。スパッツに包まれた太腿が暴れる。
一度絶頂を迎えた嗜虐心が、また緩々と扱きたてられていくようだ。
「がはっ、かはぁ…………っ!!」
矢黒の言う通り、丹田を潰されては如何な香澄でも呼吸どころではない。
膝で下腹部を抉られるたび、口の端から涎を零して苦悶するしかない。一見、絶体絶命に見える。
しかし、それでも彼女の瞳は、細く開いて矢黒を観察していた。
溢れる涙を瞬きで払い、入念に観察を続けた。
彼女は一瞬を待っている。どんな人間であれ、常に力を篭め続けることは不可能。
力を篭めるためには、どこかで必ず息継ぎをしなければならない。

「すーっ…………」
今、その一瞬が訪れた。膝の力が緩み、矢黒が大きく息を吸う。
「コヒュゥ――ッ」
その瞬間、香澄も息を吸い込んだ。常人には真似できないほど、深く、素早く。
そしてその膨大な空気を肺に留め、一時的とはいえ爆発的な力で背を反らせる。朱雀の力、『朱息』だ。
「な、なにっ!?」
矢黒は完全に意表を突かれた。盛り上がった香澄の腹に押し上げられ、股を開いて体勢を崩す。
空中での大股開き。それはすなわち、男が最大の急所を晒した状態だ。
そこへ、香澄の蹴りが襲った。
一切の容赦なく利き足の甲で蹴り、さらにインパクトの瞬間、内側へ抉り込む。最も効くローキックの蹴り方だ。
「がっ、あ…………ぐぎぉああああがぁあおオオ゛オ゛オ゛っっ!!!」
咆哮が響き渡った。いかに屈強な男といえど、金的を渾身の力で蹴り込まれては堪らない。
「はぁーっ、はぁーっ、はっ…………!!」
矢黒が股間を押さえて苦悶している隙に、香澄は彼の下から腰を引くようにして脱する。

しかし、ここで誤算があった。
矢黒が極度の興奮状態にあった事だ。その興奮状態は、彼に睾丸の痛みをも超えるほどの怒りを湧き上がらせた。
「クォォ……オ゛…………!!」
矢黒は、閉じた瞳を無理矢理に開き、立ち上がろうとする香澄を視界の端に捉える。
そして、見つけた、とばかりの笑みを浮かべた。
「んだらっすぞオラアアァァァッ!!!」
言葉の体を成さない叫びと共に、怒り任せの拳を振るう。
闇雲に放ったそれが、よりにもよって香澄の顔面を捉えるなど、一体どれほどの確立だろう。
だが、結果として不運は起きた。
「ぐぶあっ!!?」
香澄は避ける暇もなく顔面に被弾し、壁に備えられた火災報知機へと後頭部を叩きつけられる。
廃ビルにも関わらず、ジリリリリとけたたましい警報が鳴り響いた。
「うわ、何だっ!?」
「か、火災報知機だ。中はどうなってんだよ、一体……!」
ビルを囲むギャラリー達は、一際耳障りな警報を耳にし、ただ顔を見合わせるばかりだった。


「うぶっ……うぶぁっ…………あぐ、ぅっ」
崩れ落ちた香澄の右目は閉じ、左の鼻から鼻血が噴出している。
呼吸は完全に乱れていた。
大の男に馬乗りになって甚振られ、渾身の力を振り絞って脱した直後に、顔面へ直撃を喰らったのだ。
ショックと恐怖を考えれば、正常な呼吸が出来ている筈もない。
とはいえ、香澄は冷静だ。腰を抜かしつつも距離を開け、呼吸を整えようと図った。
しかし、矢黒がそれを許さない。瞬時に追いつき、横臥した香澄の腹部を痛烈なフックで抉る。
「ぐはっ…………!!」
香澄の目が見開き、口から空気が抜けていく。
「さっきのでよーく解ったぜ、テメェの呼吸は厄介だ。なら、その力の源を止めてやるよ!!」
矢黒は叫び、もがく香澄の腹部をいよいよ集中的に狙い始めた。
香澄も抵抗はするものの、双方共に息が切れた状況下では、単純な筋力が物をいう。
「げはあ゛っ!!」
またしても腹部を抉られ、吹き飛ばされる香澄。
今のままでは勝ち目がない。そう判断し、彼女は受身からの立ち上がり様に逃走を図る。
「逃がすか!」
矢黒はすぐに追いかけるが、当然香澄とてそれを予測している。

香澄は、矢黒との間に充分な距離を稼いでから振り返り、素早く呼吸を行った。
肩幅に開いた両手を、親指を上にした状態で垂直に降ろしつつ、膨大な酸素を取り込む呼吸法。
「コヒュゥ――ッ…………」
独特の呼吸音は、矢黒にも覚えがあった。先ほど、矢黒の押さえ込みを一瞬にして跳ね除けた時のものだ。
さらには香澄自身、総身の毛が逆立つかのような気迫を発し始めている。
流石の矢黒とて、これには追う足を止めた。
「ふっ!!」
直後、気合と共に香澄の身体が凄まじい速度で回り始める。
腰を切り、足を振り上げ、腕を回して、その勢いでまた腰を切る。そうした繰り返しで加速度を増しながら、一息の間に矢黒に詰め寄った。
「うおっ……!!」
矢黒が声を上げた時にはもう遅い。香澄は跳躍しつつ腰を引き上げ、目にも止まらぬ速度で矢黒の鳩尾を蹴った。
「ぐぅえ゛っ!」
思わず噎せかえる矢黒だが、香澄の猛攻は止まらない。
鳩尾に埋まった右足を軸に、振り上げた左脚で首元を蹴り付ける。さらにその反動を利用し、矢黒の髪を掴んだまま、顔面へ右膝を叩き込む。
「ぐぶあああっ!!」
これには矢黒も堪らず、後ろ向けに倒れ込んだ。
明らかに人間離れした動きだ。身体中の筋と膜を格闘用に特化させ、短時間だけ意図的にリミットを外す、これが『朱息』。
この奥義を使った以上、香澄もただではすまない。
「あうっ!」
為すすべなく腰から落下し、呻きを上げた。とはいえ、鳩尾、脊髄、顔面への3連撃を喰らった矢黒よりは回復が早い。
ぜぇぜぇと息を切らしながら立ち上がり、階下に逃れる。
矢黒は、壁に寄りかかりながらそれを眺めていた。
鉄臭い鼻に手を当てると、ぬるりとした感触がある。手の平を見やれば、真っ赤に染まっている。
「…………最高だぜ。大層なジャジャ馬じゃねぇか」
矢黒は鼻の下を拭いながら、愉しげな笑みを浮かべた。
そして、立ち上がる。
階段の一段一段を降り、1階へ。そこには苦しげにへたり込んだ香澄の姿がある。
「なっ…………!!」
香澄は、矢黒を振り返って驚愕の笑みを浮かべた。まだ追いつくはずがないのに、という風だ。
しかし、香澄が化け物なら、矢黒もまた化け物。
スタミナもタフネスも回復力も、一般的な人間の範疇から逸脱している。
矢黒が並みの人間なら、死力を振り絞った先の猛攻で充分な時間を稼げただろう。
矢黒が並みの人間なら、逃げ惑う香澄はポニーテールを掴んで殴り飛ばされ、ガラスに叩きつけられる事もなかっただろう。



廃ビルの1階には、かつて何らかのテナントが入っていたようだ。
至る所に天井から床までのガラスが張られ、通りから中の様子が覗けるようになっている。
とはいえ劣化は著しく、土煙で曇りガラス状になっているものや、激しくひび割れている箇所も多い。
矢黒はその一つに香澄を追い詰めていた。
背中をガラスに付けさせ、細い両手首を纏めて右手で掴み上げた、圧倒的優位な状況だ。
「くっ…………!!」
口惜しげに睨む香澄に、矢黒は挨拶代わりの一発を見舞う。狙いは当然、腹部だ。
「ふも゛ぐぅっ!!」
目を見開き、口元から唾液を飛ばす香澄。矢黒はその反応を楽しみつつ、ゆっくりと香澄のスポーツウェアを捲り上げる。
香澄の腹部は、痛々しいまでに赤く腫れ、陥没している。
普通に呼吸するだけでも激痛で悶えるであろうその有様で、よくもあの猛攻を仕掛けたものだ。矢黒は感嘆する。
しかし、そうして香澄を見直すほど、彼の嗜虐心は燃え上がってしまう。
「どうだ、苦しいか? 救いが欲しいのか?」
赤く腫れた腹部を撫で、矢黒は訊ねた。彼の望む答えは一つだ。ここで“許して”などと哀願されては興が削がれる。
おそらくその瞬間、矢黒は無表情に相手を殺すだろう。
しかし、香澄には…………彼の興味を一身に惹きつける香澄に限っては有り得ない。
哀願どころか、呼吸を深め、汗まみれの顔で睨みあげる。
「いい顔だ。その顔で何発耐えられるか試してやろう」
矢黒は、香澄の腹の上で拳を握り、小さく引いて突き込んだ。
「ぐっ!!」
香澄が苦悶の表情を浮かべる。だが、まだまだ前菜だ。
一旦引き抜かれた矢黒の拳が、より大きく引かれ、腰を切って打ち込まれた。
拳が固められた腹筋を突き破る。後方のガラスから、ビシ、と音が響く。
「ぐぁあ……っかは…………!!」
ストロークを増した分だけ、香澄の反応も大きい。口が開かれ、空気が漏れる。
豊かな乳房が肉感的に暴れまわる。
「もっとだ。もっと苦しめ」
矢黒は対照的に笑みを深めながら、さらに容赦なく拳を抉り込んだ。
徐々に強めていくつもりが、やや力加減を誤り、本気に近い一撃になってしまう。
拳は半ば以上が腹部にめり込んだ。
「ぐぅうおえ゛っ……がは、ぁ、か……っぐ!!」
拳が臓腑を押し上げる事で、肺が圧迫されたのだろう。呻き声はひどく窮屈そうだ。
鳩尾近くまで跳ね上がった右膝が、苦痛をよく物語る。
1本筋の走った大腿部の引き締まりは、アスリート少女特有のものだ。
さらによく観察すれば、やや内股に閉じたスパッツの隙間から、透明な筋が流れ落ちていくのも見えた。
「ははっ、何だ。漏らしちまったのか?」
矢黒は嘲った。香澄の見せる羞恥の表情が、いよいよ矢黒の興奮を底上げする。
そこからは、ひたすらの連打だ。香澄の手首を頭上で掴み上げたまま、幾度も幾度も、腰の入った拳を叩き込んでいく。
「がへぁっ、ごびゅっ……!ぐぶっ、げごぁっ、カはっ……むごぅあ゛、ォう゛ウ゛っぐ!!!」
苦悶の声が響き渡った。
ファーストコンタクトで矢黒に鉄を感じさせた腹筋は、もはや跡形もない。
ガラスに力の逃げ場を塞がれ、腹部を断続的に潰されながら、いよいよ少女の生の反応が出始めていた。
緩い腹肉へ手首まで拳を埋没させるたび、肘付近に涎や唾液、吐瀉物に汗などが雨あられと降り注ぐ。
矢黒に掴まれた手首が無駄な抵抗を繰り返し、スパッツを穿いた腿が跳ね上がる。
打点を左に寄せれば左腿が、右に寄せれば右腿が。まるでそうプラグラムされたゲームのようだ。
足裏が地面に着いている時でも、モデル級に長い両脚はガクガクと激しい痙攣を続けていた。
尋常ではない。女にとって最大の山場といえる出産の瞬間でさえ、香澄をここまで苦しめる事はないだろう。

香澄の窮地は、ビルの外から見守る人間にも余さず伝わっていた。
ポニーテールがついに解け、汗を吸ったスポーツウェアがガラスへ楕円形に張り付いている。
そこへ矢黒の豪腕が襲うと、香澄の背中全体がべたりとガラスに押し付けられる。
元々細く走っていたガラスの亀裂が伸び、枝分かれし、事故を起こした車のフロントガラスのようになっていく。
そしてその都度、聞くに堪えない香澄の呻きが上がった。
『げぼっ、ごぇっ! んも゛ぇっ、ぐぶ、がふ……っ! ぐむっん、げおぉ゛え゛っっ!!』
元は、大人びた見目とギャップがあるほど幼く澄んだ香澄の声。それが、反吐を吐くように濁りきっている。
ぐぇっ、おえっ、という声が聴こえるたび、女学生達は泣き腫らした目を惑わせる。
興味本位で集った野次馬達すら、助けに行くかどうかを談義しはじめるほどの異常事態だ。
しかし結果として言えば、助けに行く必要はなかった。
劣化したガラスの亀裂が広がりに広がった末、とうとう派手に割れたからだ。
心臓を刺すような破砕音と共に飛び出した香澄は、そのままアスファルトへと倒れこんだ。


「がはっ、アは……っげほ、えぼっ……ぐひゅっ…………!!」
香澄は仰向けのまま、喉からの吐瀉物を吐き溢す。
あの類稀な美貌が見る影もない。
美しかった髪は薄汚れて乱れに乱れ、顔は酸欠で青ざめている。スパッツは一部が変色し、つんとした臭いを漂わせている。
手足には数える気をなくすほどの打ち身跡や裂傷があり、見るも痛々しい。
そして、やはり最も変貌著しいのが、スポーツウェアから覗く腹筋だ。
健康的などとは程遠い。さながらネズミに齧られ続け、大部分が赤く変色したチーズ、といった所か。
それは矢黒という化け物が、彼女の丹田から出る力をどれほど危険視したかの表れでもあった。

「カスミさん、カスミさんっ! しっかりして!!」
「ひどい……こんなの、酷すぎる!」
女学生達が香澄に駆け寄り、涙ながらに訴える。
「フーッ、フーッ、クフーーッ…………」
香澄はひとしきり吐瀉物を出し終えた後、風変わりな呼吸を始めた。
息に精通する彼女のことだ、特殊な気道確保の法なのだろう。
確かに、矢黒が追ってこない今はチャンスだ。圧倒的劣勢ではあるものの、ここで呼吸を整えれば多少は持ち直せる。
“不運さえなければ”、まだ香澄にも勝ちの目は残っている。
しかし、それも所詮は空しい願いだ。今日の彼女にはツキがない。
無作為に放たれた矢黒の一撃を、まともに顔で受けてしまったように。
立会いの時点では晴天だった空が、香澄の戦況悪化につれて曇っていったように。

「きゃああああっ!!」
突如、廃ビルの中から悲鳴が上がる。
香澄達が見上げると、ビル2階の窓際で、1人の少女が矢黒の人質になっていた。
「ミユキ!?」
女学生達が少女の名を呼ぶ。香澄もその美由紀という取り巻きの少女は知っている。
普段は臆病なものの、ここぞという時には妙に思い切りのいい娘だ。
矢黒は美由紀の首に鉄パイプを押し付けて人質にしているが、おそらくそれは彼女自身が持ち込んだものだろう。
ビル2階……おそらく火災警報器が原因だ。
警報を聞いて黙っていられず、香澄を心配するあまり、鉄パイプ片手にビルへと忍び込んだものと考えられる。
もしも香澄が窮地に陥っていれば、物陰から矢黒を殴ろうとでも思ったか。
「オラ、早く戻ってこいよ! じゃねぇと、こいつがガキ産めねぇ身体になっちまうぜ!?」
矢黒は香澄を見下ろしながら叫び、美由紀を一旦開放した。
しかしよろけるように歩みだした美由紀の横で、矢黒がフックのモーションに入る。
「危ない、美由紀ちゃんっ!!」
香澄が叫んだ直後、美由紀の姿は窓辺から消えた。
「がぁ゛ああ゛ーーーっ!!」
直後、痛々しい声が響き渡る。大人しい少女が発するものとは思えぬ、断末魔じみた声だ。
女学生達も、ギャラリーも、眼前の悲劇にただ立ち尽くすしかない。
ただの女学生が、異形の怪物に襲われた。無事では済むまい。すぐにでも助け出したいが、では誰が、どうやって?
その絶望的な考えが場を支配した、その時だ。

ギリッ――。

歯軋りの音が、重い静寂を切り裂いた。音の主は香澄だ。
「コフーっ…………ふーーーっ…………」
彼女は満身創痍の身を地面から引き剥がし、廃ビルの入り口へと歩みだす。
「お、おい、何やってんだ、やめとけよ! アンタだってもう、まともな状態じゃねぇんだぞ!?」
「そ、そうよ! ミユキは確かに心配だけど、今行ったら、カスミさんまで殺されちゃうよ!」
何人かが止めに入る。しかし、香澄は静かに首を振った。
「ありがとうございます。でも私は、誰一人として見捨てたくないんです」
覚悟を決めたその表情に、誰もが言葉を失う。
彼らは勇気ある犠牲者のために道を開け、ただ祈りを込めて凛とした後姿を見守るばかりだった。





「お願い、もぉ゛やめでぇ゛っ!!」
2階フロアに上がった途端、悲痛な叫びが聴こえてくる。
フロアの中央……吹き抜けになった場所に、腹部を抱えて倒れ伏す美由紀がいた。
矢黒はその身体を無理矢理に引き起こし、ボディーブローを叩き込む。
「うげぇえ゛お゛っっ!!」
格闘の経験など皆無であろう少女は、その華奢な身体を海老のように丸めた。
細めた瞳からは涙が零れ、開いた口から吐瀉物があふれ出す。

「やめなさい! あなたの相手は、私ですっ!!」
フロア中に響く香澄の怒声に、矢黒の笑みが深まった。
「当然、そのつもりだ。こんな素人のガキじゃあ歯ごたえがねぇ。やっぱテメェの腹じゃねぇとな」
矢黒は無造作に美由紀の体を投げ捨てる。
反応もせずどちゃりとタイルに落ちる美由紀は、精巧な肉のマネキンのようだ。
そして、今まさに人一人を肉に変えた巨岩のような拳が、その矛先を香澄に向ける。
香澄の頬に汗が伝った。
ビル外で多少のインターバルが取れたとはいえ、香澄は本調子には程遠い。
並外れた力で腹部を殴られ続け、肺も臓器も損傷している。アバラも数本逝っているだろう。
呼吸として最も自然にできるはずの『青息』ですら、苦しさのあまり吐き気がこみ上げる。
勝ち目が、ない。

「フン、すっかりブルっちまったか。だが、もう手遅れだぜ。
 テメェはいい女だが、ちっとばかしおイタが過ぎた。この俺に、人前で膝をつかせちまった。
 後々はダッチワイフとして贔屓にしてやるにしてもだ。その前に今日この場で、躾を済ませとかねぇとな」
岩山のような肩が、ゴグッ、ゴグッ、と鳴らされる。
鉄骨を思わせる10の指が握り締められ、パキパキと音を立てる。
腰が左右に捻られ、ヒグマのように分厚い上体が空を圧する。
無造作に暴れるだけで人を殺傷しうる異形の肉体。それが、その本領を発揮するべく解されていく。
これからその絶大な暴力を向けられる香澄の心中は、穏やかであろう筈もない。
「………………ッ」
気丈に濁りのない瞳を見開いてはいるが、引き結ばれた唇の中心はヒクヒクと痙攣している。
そして矢黒は、まさにその反応に沸き立つ。
「さぁて、仕置きの時間だ。その生意気な腹、ベコベコにしてやらぁッ!!」
ワークブーツが床を蹴り、巨体が猛然と駆け出した。
「シッ!」
気合と共に香澄の突きが放たれる。しかし矢黒の反射神経は、それを悠々と回避させた。
その返礼として浴びせられるのは、巨岩のごとき剛拳だ。
下から突き上げるようなそれが、深々と香澄の身を抉り、爪先を宙に浮かせる。
「げお゛はっ!!」
身体をくの字に折ったまま、香澄は床に倒れ伏した。
身を起こそうとする動きの中で吐瀉物がこみ上げ、口から零れていく。
と、その頭上をブーツの影が覆った。
香澄は咄嗟に横転して踏み付けをかわすが、それも矢黒の術中だ。
体勢不十分で立ち上がった香澄の喉を、矢黒の巨大な手の平が押さえ込む。喉輪だ。
「むぐっ、はぁ、う゛っ!!」
無理矢理に天を仰がされながら、香澄の身は震えていた。
嫌というほど、骨の髄にまで染みこんだ痛みがフラッシュバックする。
そして、その悪夢はすぐに現実となった。ズン、と腹部へ沈み込む鉄塊として。
「ぐぅううおっお゛ぉえ゛あお゛あああ゛…………っっっ!!!」
香澄の長身はくの字に折れ、彼女自身の肩より高く突き上げられた。
垂れ下がった胸の果実が揺れる。美しい手の指が、宙に救いを求めるように蠢く。
「っらぁあっ!!!」
突き上げる右拳が引き抜かれた瞬間、入れ替わるように左拳が叩き込まれた。
「げぶぐぅうお゛っ…………!!」
頬を膨らませながら、香澄は呻く。それ以外に行動の余地はない。
カハッと口が開き、唾液と胃液、そして僅かに赤いものが空中に散る。
そして香澄の肉体は、硬質なタイルの上を転げまわった。

「ぐふっ、がふぇあ゛っ! う゛、んう゛、ふむ゛んぐくくっう゛っ…………!!」
腹部を両腕で押さえ込み、額を床に着けて呻く香澄。その声色は泣き声と酷似していた。
「今のは中々良かったぜ、イイ感触が拳に染みてきやがった」
矢黒がゆっくりと香澄に歩みより、苦しみの渦中にある下腹部を蹴り上げる。
「ぎゃうっ!!」
「おう、これもいい声だ。お前の悲鳴は股間に響く……特に、腹ァ痛めつけた時のはな!!」
ただ香澄だけを視界に捉えて笑い続ける矢黒。その一途さは、さながら玩具遊びに興じる子供だ。
玩具役となる香澄にとっては、地獄でしかないだろうが。



激しい格闘の音がフロアに響く。
靴底が床のタイルに擦れる音、荒い呼吸音、拳が空を切る音に、骨が肉を抉る音。
攻撃の応酬ではない。繰り広げられているのは、完全なワンサイドゲームだ。

「オラどうした、立てよクソ女。俺ァ、テメェのその生意気な腹を100発ブン殴るって決めてんだ。
 もし途中でヘバったりしたら、このひ弱そうなガキに肩代わりさせんぞ?」
矢黒は口汚い挑発と共に、美由紀の髪の毛を掴み上げた。
「ま……まだ、です…………!」
香澄は口内の血を吐き出し、痙攣する足を叱咤して身を起こす。
もはや彼女を支えるものは使命感だけだ。
しかし、それにも限界が来ていた。
酸欠で意識は朦朧とし、視界も定まらない。腹部の痛みは極限に達し、死が甘美に思えてしまう。
「ンだよ、フラフラしやがって。しゃあねぇ、もう一発、強烈な活入れてやるよ!!」
矢黒の声がし、身を灼くような殺気が発せられる。

 -―――ああ、駄目だ。あれを喰らったら、今度こそ死んでしまう。

香澄がそう思った瞬間、無意識に身体が動いていた。矢黒の突きを嫌がるように。
ピシッ、と肉を打つ音がした直後、矢黒の殺気が途切れる。
「んおっ!?」
不意を突かれて矢黒はよろめいた。そして首を傾げ、再び打撃の姿勢に入ろうとする。
しかしその予備動作を、また香澄の打撃が止める。矢黒はこれにより、溜めた動作エネルギーを霧散させてしまう。
「なっ……テメェ、さっきから何をしてやがる!」
矢黒が動揺も露わに怒鳴りつけた。
何をした、という物でもない。香澄はただ直感的に、矢黒の嫌な動きを防ごうとしたに過ぎない。
香澄が直感で突いた箇所に、後出しで矢黒が力を篭めようとし、勝手に自滅していく。
強いて言うなら、相手の行動を先読みする『先の先』の呼吸。
いや、更にその上、相手の動こうとする意思そのものを読み取る『先々の先』の呼吸だ。
これにより矢黒のあらゆる行動は、その動作が起ころうとする段階で潰されてしまう。

しばしそれを繰り返した所で、香澄はふと、自分が無意識の内に行っている呼吸に気がついた。
「ぜっ、ぜっ、は、はっ……はっ…………」
「ぜっ、ぜっ、は、はっ……はっ…………」
香澄がやや荒い呼吸をした直後、正面に立つ矢黒から、まったく同じ呼吸が発せられる。
矢黒が香澄の呼吸を真似ているのか。
いや違う。香澄が、矢黒の一手先の呼吸をしているのだ。だからこそ、矢黒が動作に移ろうとする予兆を見抜けるのだ。
なぜ急に、そのような技術が身についたのだろう。
『玄息』でも読めないほどランダムだった矢黒の動きが、勝ちに執着するあまり単調になってきたせいか。
それとも呼吸というものを追求し続けた成果が、この死の淵で結実したのか。
理由はどうあれ、今にも意識の途切れそうな香澄にとっては、これが最後の光明だ。


矢黒は、氷のように冷たい汗を掻いていた。
死に体だった筈の香澄が、どういう訳か矢黒の攻撃をことごとく封じ込めてくる。
肩を動かそうと思った時には、香澄の手が肩の付け根を押し込んでおり、ビクリと体が硬直してしまう。
肘を動かそうとしても、足を動かそうとしてもそうだ。
痛みがある訳でもなく、運動機能を損なった訳でもない。しかし、動けない。
「ぜハッ……ゼハッ…………」
香澄は、虚ろな瞳でこちらの目を覗き込みながら、苦しげな呼吸を繰り返している。
鬼気迫るその様は、燃え上がる矢黒の嗜虐心を鎮火していく。
眼前に立つのはもはや、彼が好んで屠る弱者ではない。この世ならぬ何かだ。
「な、何だっつぅんだよ、クソが…………」
矢黒は顔を引き攣らせ、踵を返して逃げようとする。
しかし、香澄はそれを許さない。足首を掬って巨体を転倒させ、背後から被さるように後三角絞めに入った。
2本の長い脚が首に絡みつき、強烈に締め上げる。
「ぎひぃいいいっ!?」
矢黒は恐怖からの悲鳴を上げた。瞬く間に気道が狭まり、脳への酸素供給が寸断される。
「あ゛、ががかっ…………!!」
苦しい、息が苦しい。
もがく矢黒の脳裏に、ふと酸欠で苦しむ香澄の様子が浮かんだ。
なるほど、これは報いか。散々腹部を殴り、肺を痛めつけてきた自分への罰というわけか。
藻掻けど足掻けど逃がれられず、矢黒はついに観念する。
しかし、それにしても苦しみが長い。
いっそもう絞め落としてくれ、という嘆願を込めて視線を横に向けると、ガラスに映る香澄の体は力なく後ろに垂れていた。
すでに意識を失っている。矢黒の首に脚を絡みつかせた所で限界が来たのだろう。
「ぬぅう、おッ!!」
矢黒が改めて渾身の力を篭めると、ようやくにして脚が引き剥がせた。
支えを失くした香澄の肉体が、どさりと床に倒れ伏す。
「ハァーッ、ハァーッ、ハァァァッ………………チッ」
矢黒は喘ぎながら香澄に一瞥をくれると、口惜しげに舌打ちし、背を向けて歩き出した。
1階への階段を降り、廃ビルの外へ。

矢黒の勝ちを確信していたらしく、ビルの入り口にはアベリィが満面の笑みで寄りかかっている。
「ハァイ、ダークヒーロー。お愉しみの割には早かったわね。
 ……って、あら? お土産の肉はどこ?」
周囲からの冷ややかな視線を意にも介さず、矢黒に問いかけるアベリィ。
矢黒はそれを黙殺し、怯える観衆の波を割って進む。
アベリィの表情が変わった。
「……ま、まさかアナタ、あの女にトドメを刺さなかったんじゃないでしょうね。
 何を考えてるの!? 今があの女を倒す、千載一遇のチャンスなのに!!
 ねぇ、答えて! アナタ、あの女をボコボコにして、犯したいって言ってたでしょう、なのに何でっ!!」
アベリィはヒステリックに喚き立てる。
矢黒が歩みを止めた。
「少し黙れ、ビッチ」
ゆっくりと振り返る形相は、正しく猛獣そのものだ。
「…………テメェなら殺せるぞ?」
唸るような一言を残し、異形の化け物は都会の雑踏へと消えていく。

放心状態のアベリィは、ペタリとその場に崩れ落ちた。



「香澄さん! 香澄さん、しっかり!!」
「美由紀、大丈夫!?」
女学生とギャラリーによって、ビル内から2人の女性が運び出される。
「う゛っ、ゴボッ…………な、なんとか大丈夫…………」
先に意識を取り戻したのは美由紀だ。無事とは言い難いが、意識ははっきりとしていた。
そして、それを救った“救世主”も。

「ん、うぅんんっ…………」
呻き声と共に、香澄が弱弱しく目を開く。そして歓声の沸く周囲を見渡し、数度瞬きを繰り返した。
「ここは……そっか。私、負けちゃったんですね」
香澄が苦笑すると、すぐに周りの人間が首を振る。
「いえ、香澄さんの勝ちですよ。アイツ、ビビリまくって逃げていきましたもん!」
「そうだ。アンタはまた一つ、この街の暴力を潰したんだよ!」
その言葉をきっかけとして、満身創痍の香澄に惜しみない拍手と声援が送られる。
まさに救世主を讃えるが如くだ。
「え、えっ!? あ、あの、ええっと…………ありがとうございます」
香澄は困惑しつつも笑みを見せた。麗しい見目とは裏腹に、童女のようなあどけなさで。


傷が癒えれば、香澄はまた暴虐との戦いに身を投じる事になるだろう。
そしていつまでも、弱きを助け、強きを挫き続ける筈だ。

その身に、息吹が続く限り。


                      終
<初出:2chエロパロ板『【何発でも】腹責め専門SS・その12【叩き込め】』スレ>