※ここからはまた壮介視点。いよいよ次でラストです。


【 壮介サイド 】

僕が刑務所に入る日が来るなんて、思ってもみなかった。そういう世界とは一生縁がないと思ってた。
でも、現実としてここは塀の中。
会社をクビになった代わりに、今は刑務所内での作業に従事する。
視界に映る左手薬指に、和紗との愛の証はない。入所当日に没収されてしまったきりだ。

夕食後には、雑居房内の全員が壁に向かって正座して、5分間の反省をする。
本来は被害者への謝罪をするべき時間だけど、僕はどうしても石山に謝る気になれない。
僕を虐めてたりしたのは別にいいんだ。でも、和紗を、僕の最愛の人を辱めた事だけは許せない。今でも刺した事に後悔はない。
だから謝罪の相手は、まず英児。
せっかくの忠告を無視し、失望させ、それでも残された妻を養ってくれている。その事に感謝の念が尽きない。
そして次は…………和紗。
たった5分の反省時間の中、僕はいつも走馬灯のように、彼女との思い出を頭に過ぎらせる。
記憶の中の和紗は、初めの頃、いつだって笑顔だ。
初めて甘味処で知り合った時も。
オーバーオールを着て、泥だらけになりながら畑仕事をしている時も。
壮介、といきなり呼び捨てにされたのには戸惑ったけど、今考えれば、あの時からすでに打ち解けてくれていたんだ。
いつもボソボソと喋り、表情も暗かったあの頃の僕に。
それから少し経って恋人同士になったら、和紗はいよいよ僕に素敵な笑顔をくれるようになった。
まだ共通語に慣れてない頃で、たまに地元の方言を出しては恥ずかしがるのも可愛い。
特にお腹が膨れた時なんかは素に戻りやすいみたいで、幸せそうな『んめかったぁ~』は外食時に何度も聞いた。

この頃の僕らは初々しかったけど、言い方を変えれば青臭かった。
僕が『鵜久森 和紗』という女性の本当の魅力に気付いたのは、彼女と結婚してからだ。
畑仕事をする和紗は可愛かった。居酒屋でバイトしている和紗も魅力的だった。
でも、台所でエプロンをつけて料理をしている彼女には及ばない。
いかにも『良妻』といった感じのその後姿を見ているだけで、心から彼女を妻に迎えてよかったと思える。
彼女の作る料理は絶品だった。
元々料理が得意だった上に、居酒屋のバイトで何年も調理場を任されてたんだから、ほとんどプロ並みだ。
特にブリ大根の出来は抜群で、僕は一口目を噛みしめた後、感動のあまり言葉を失ってしまった。
今じゃすっかり、一番の好物はブリ大根だ。
そう。和紗と結婚できたのは、僕にとって本当に喜ばしい事だった。
僕を想ってくれる和紗のためなら、どんな苦しい仕事にだって耐えられた。彼女を笑顔にするためなら、何だってできた。
……でも。
和紗の笑顔は、僕らの悲願だった子供の出産日を境に消える。
あの日以来、和紗は一度も笑っていない。笑う表情を作ってはいても、眼が笑っていた事はない。
彼女の笑顔を毎日見てきた僕だからこそ、それが痛いほど判った。
そりゃ、笑えるわけもない。彼女は僕の知らない所で、石山相手に恥辱を受け続けていたんだから。

『俺じゃねぇよ。あ、あの女から誘ってきたんだ。
 つまんねー旦那に愛想が尽きたから、変わったやり方で抱いて欲しいっつってよ!』

激昂した僕に殴られながら、石山はそう叫んだ。
姑息なあいつの事だ、そう言えば僕が動揺すると思ったんだろう。
そんな見え透いたウソをついたって、相手の神経を逆撫でするだけなのに、そんな事も判らないんだろうか。
つくづく相手の気持ちを察せない、独りよがりな奴だ。
その点、和紗と英児は真逆と言っていい。彼らはいつだって僕の気持ちを汲んでくれた。
一日も早くここから出て、また2人の元に戻りたい。僕はその一心で、黙々と日々の刑務作業をこなし続ける。
僕のような刑期の短い受刑者に、仮釈放は許されない。ただひたすら、1年8ヵ月を勤め上げるしかない。

英児や和紗との面会が、この灰色の生活での癒しだった。
英児はいつも明るい。身の回りの出来事や社会で起きている事件を、冗談交じりに教えてくれる。
この一年あまりで仕事も覚えて人脈も広がったから、自分で会社を立ち上げての独立を考えているそうだ。
美人の秘書を横に置こうと思ってる、なんて冗談めかして言ってたけど、英児ほどモテる人間が認める美人なんているんだろうか。
何しろ高校時代から、校内のめぼしい女子はみんな英児にツバをつけられてる、なんて噂があったぐらいだ。
そして僕は、その噂がまったくのデタラメじゃない事を知っている。
英児と遊園地にでも遊びに出かけようものなら、クラスの一番人気や、ひとつ下の学年で抜群といわれる女子が必ずついてきた。
一応は3人で一緒に遊んでたけど、傍から見れば完全に、美男美女カップル+冴えない男だ。
おまけに英児は、そんな学年のアイドル達とさえ、一ヶ月ももたずに別れていた。
『なんか、飽きちゃってよ。もう一緒にいても刺激がねぇ』
別れた理由はいつもそれだ。
その英児の眼鏡に適う女性なんて、そう簡単に見つかるとは思えない。
もっともそんな英児だからこそ、いつまでも僕の親友でいてくれるのが有り難いんだけど。

「和紗は、元気にしてる?」
一通りバカ話を終えた後、僕はいつもこう訊く。一番の気がかりは、なんといってもそれだ。
「ああ、少なくとも俺の前じゃあな。人前でわんわん泣くタイプの娘じゃねぇだろ」
英児の答えも大体同じ。
確かに、最近の和紗はそうだ。芳葉谷で初めて会った頃は、すぐ感情を表に出していたのに。
東京で暮らし始めて落ち着いたのかな。それとももしかして、僕に影響されたんだろうか。
和紗。
僕の大切な人。
その和紗が面会に来るときは、いつも頬が赤い。額には汗もうっすらと滲んでいる。
少しぎこちない笑みの陰では、かなり緊張してるんだろう。
せっかくの貴重な面会時間なのに、僕と和紗の会話は少ない。
交し合う一言一言のすべてが、お互いの胸の内を探っているように感じてしまう。
妻なのに。この世の誰よりも、心の距離が近い相手のはずなのに。
その理由はきっと、僕らを隔てるアクリルの壁だ。放射状に穴のあいたこの壁が、僕らに普通の会話をさせないんだ。
だから今は、お互い元気でやっている事を確かめられればそれでいい。本当の会話は、ここを出てからの楽しみにしよう。
そうすれば僕は、もっと頑張れるから。



僕には面会の他にもう一つ、心の支えがある。たまに英児から送られてくる、和紗の写真だ。
公園、街中、僕らのマンションのリビングと、様々な場所を背景に撮られたもの。
『これ見て元気出せ』という英児のメッセージがあたたかい。
僕はそれを大切に保管し、雑居房の他の人間が寝静まった後でこっそりと眺めていた。
でもその行為は、房内の誰かに見られてしまっていたらしい。
「お前、いっつもコソコソ何見てんだよ?」
元々いじめられっ子気質な僕だ。ここでもそれは例外じゃなく、ある夜、眺めていた写真を取り上げられてしまう。
「どれどれ…………って、うお、ちょっ、何だよこの美人!?」
「ンだよ、俺にも見せてくれよ……うおっ、マジやべぇ! よぉ、これ何て名前のアイドルだ?」
群がり始めた雑居房の人間から、次々と驚きの声が上がる。でも、それを喜ぶような心の余裕はない。
何しろこの房に纏められてる人間は、全員が犯罪者だ。
強盗、強姦、恐喝……。殺人犯まではいないにしろ、ガラの悪い人間なのは間違いない。
「あ、アイドルじゃなくて、僕の奥さんだよ」
周囲の顔色を窺いながら、そう答えるのが精一杯だった。僕に集まる視線が、一気に怪訝なものになる。
「ハァ、嫁? これが、お前の? やー無いわ、その妄想」
「おまえ真面目そうに見えて、何、アイドルヲタこじらせちゃってる系?」
「あれ、でもちょっと待てお前ら。よく見りゃこの背景、写真撮影のセットにしちゃ、やたらナマナマしくね?」
「そういやモヤシとかアロエの葉あったりして、やけに生活観あるリビングだな。つー事ァ、マジでこいつの嫁なわけ? この子が!?」
そう言って大盛り上がりだ。
ちょうどその時、看守さんが扉を開ける音がして、皆一斉に布団で寝たフリを始める。
でも看守さんが立ち去った後は、また起き出して和紗の写真を眺め始めた。

それからだ。和紗の写真が、房内の人間のオカズにされはじめたのは。
刑務所の中は女っ気がない。労働で得た賃金で雑誌は買えるけど、あんまり過激な成人雑誌の購入は認められない。
だからこそ、和紗の需要は高かった。
毎晩のように誰かが和紗の写真を枕元に持ち込み、見回りの看守さんに気付かれないよう自慰に耽る。
その状況には石山の時みたいな黒い衝動が湧き上がるけど、僕は耐えた。
模範囚のまま、一日でも早くこんな所を出るために。

「ヤベェよ壮介、お前の嫁よ、何遍見ても勃起が収まんねぇ。なあ教えてくれよ。この女、締まりはどうだ? キツいのか?」
「ああクソッ、この口にしゃぶらせてぇ。壮介、お前ン家の場所教えろよ。ここ出てから、この女ヨガらせまくってやっからよ」
「ヘッ、強姦魔が懲りてねぇな。お前の武勇伝、久々に聞かせてくれや。この女に重ねてシコるわ」
「お、ンなに聞きてぇかよ。しゃあねぇな。まず俺ァ、狙ってた女の家の裏口に回ったのよ。したらちょうど窓が空いてて、着替えてるところだったからよ。
 シャツをバーッと脱ごうとしてる所に押し入って、腹に思いっきり一発食らわせたんだわ。
 したら悲鳴上げながらぶっ倒れてよ、ガチガチ歯ァ鳴らしながらビビりだした。
 そっからは逃げようとするたびに『またブン殴るぞ』って脅しながら、近くに落ちてたタオルで手足を縛ってったのよ」
「縛りかぁ。この女、オッパイでけぇし脚すらーっと長ぇし、縛って転がしたらすげえエロいんだろうな。
 んで着てたパジャマのズボンずらしてよ、ピンクのビラビラにぶち込むのよ。
 そん時の声は…………おお、そうだ壮介。この女、声はどんな感じなんだ?高い?低い?似てる芸能人でいうと誰よ?」
 
夜毎、そんな会話が僕の周りで交わされる。
新しい写真が送られてくるたびに、房内のヒエラルキー順にその写真が回ってきた。
僕の元に届くのは一番最後。何人もの男の精液が跳ねて、表面がカピカピになった後でだ。
それはまるで和紗本人を穢されているようで、僕の心に渦巻くドス黒さがいよいよ濃さを増していく。
でも、僕は耐えた。何週間も、何ヶ月も…………一年が経っても。
その甲斐あって、釈放の時は着実に近づいてくる。
そんなある日、また一枚の写真が届けられた。
写真はいつものように奪われ、房内のボス格3人が僕に先んじて眺め回す。
「うひゅっ、今回のもまた良いな。家でリラックスしてる若妻って感じでよ」
「ああ。しっかし本当、イイ女だよな。今風の格好も、和服も、こういう家の普段着も、何着ても全部似合ってやがる。
 スタイルいい上に、芯の強そうな顔が服の存在感に負けてねぇからだろうな。
 チクショウ。壮介の野郎、ここ出たらナマのこの女と好きなだけ乳繰りあえんのかよ!」
「つか、この女の写真もそろそろ見納めなんだよな。アイツ釈放されたら……」
3人はいつになく真剣な目で、奪い合うようにして写真に見入っていた。
そんな扱いをされれば、当然写真は揉みくちゃになる。そしてその末に、写真の端が捲れてしまう。
「あっ!!」
1人が叫び、他の2人も焦ったような顔になった。僕も思わず彼らの手元を覗き込んだ。
やっぱり写真の端は捲れていた。でも、何か変だ。写真表面が台紙から剥がれた、という風じゃない。
元々あった写真の上に、薄いカバーのような物が貼り付けてあり、それが剥がれたという感じだ。
「何だ、これ…………?」
1人が呟いた。そして僕を含めた3人と目を見合わせ、喉を鳴らす。
全員が異常に気付いていた。

 ――何故わざわざ、写真を重ねるような事を?

写真を持つ1人が、捲れた部分を震える指先で摘み、ゆっくりと引き剥がしはじめる。
少しずつ、少しずつ、下に隠された画像が現れていく。
まず見えたのは、白い生足。すらりとしたその脚線には、ひどく見覚えがある。
片膝を立てたまま伸ばされた両足がすっかり露わになると、次はその根元が見えはじめた。
ショーツは見当たらない。足と同じく真っ白なデルタゾーンに、黒い茂みがかすかに見て取れる。
そしてその茂みの中には、よく日焼けした男の手が潜り込んでいた。
写真はさらに捲れていく。
次に僕が見たのは、くびれた腰と、水風船のように豊かな乳房。これも見覚えがある。
まったく英児も悪趣味だ。こんなよく似た女優の裸を、和紗の写真の下に隠しておくなんて。
僕はそう考えて不安を誤魔化そうとした。でも、そんなものは一秒と続かない。
完全に写真が捲り切られた時。そこにあったのは、正真正銘、和紗の顔だったんだから。
ドクン、と心臓が脈打つ。
全身の筋肉が強張り、火照るような背中に生暖かい汗が伝っていく。
「うおぉおおおっ、何だこれ!」
「ハメ撮りかよ、気持ちよさそうな顔してんなー!!」
そんな周りからの声もひどく遠い。
そう。映っているのは和紗だ。和紗に間違いない。でもどうして、こんな写真が?
石山にやられた時の写真か?
いや、違う。あの頃とは、若干とはいえ髪型が違う。
それに、和紗の股座に潜り込んでいる腕は…………この色の黒さと逞しさは、英児のものだ。
他の誰が間違ったって、僕が間違える事はありえない。僕はずっと、ずっと、その逞しい腕に憧れていたんだから。
なぜ。どうして。
その疑問に答えを出せないまま、気付けば僕は房の荷物入れを漁っていた。
小さな木箱を開け、今まで英児から届いた写真を一枚ずつ取り出す。
この間届いた写真。端を爪で引っ掻くと、僅かに捲れる。
その前に届いた写真。同じく、端が捲れる。
結局、全てではないにしろ、半分近くの写真に和紗の痴態が隠されていた。
黒々とした怒張を咥え込む和紗を、ほぼ真上から撮影した一枚。
ベッドの上に突っ伏す格好の和紗を、背中側から撮影した一枚。
愛液に濡れ光る指と、見覚えのある女性器のアップ……。
「へへっ。こりゃあすげぇや!」
「送ってきた奴もよく解ってるじゃねぇか。こりゃ最高のオカズだぜ!!」
僕が取り落とした写真の束に何人かが群がり、歓声を上げる。その中心で、僕はただ立ち尽くしていた。
全身に震えが走る。

実はドッキリのジョークで、よく似た女性の裸に和紗の顔を合成しただけ?
 ――違う。

僕が寂しがってると思って、普通の写真の下に和紗の裸を写したものを隠してくれた?
  ――違う。

何か、やむにやまれぬ事情があって?
    ――違う!

僕はどこまでお人好しなんだ。いい加減ストレートに認めろ。
英児の手で送られてきた写真に、和紗とのセックスの様子が収められていた。セックスの相手は明らかに英児だ。
この事実から導き出される結論はひとつしかない。
英児は、和紗とセックスをしている。僕が塀の中にいる間に。
英児も和紗も人間だ。それも、お互い精力を持て余した若い男女だ。
百歩譲って、英児が和紗の面倒を見るうちに良い雰囲気になり、間違いを犯す事があったとする。
でもそれならどうして、その痴態の証拠をわざわざ僕に送りつけた?
そしてなぜ英児は、和紗は、もう何ヶ月も前からぱったりと面会に来なくなった?
こうもあからさまにやられて、それでも気付かないほど僕も馬鹿じゃない。
これは、僕の『親友』からの宣戦布告だ。
嫁を寝取られている事実に気付けるか? 気付いた所で、俺を相手に行動できるのか?
英児はこの写真を通して、僕にそう問いかけてるんだ。

きっと今この瞬間も英児は、僕の妻を抱いている。
問題は、その抱かれている相手…………和紗が、何故それに応じているのかだ。
僕を待つのに疲れたのか?
男としてより優れた英児に養われるうち、心変わりしてしまったのか?
それとも何らかの弱みを握られて、不本意ながらに身体を差し出しているんだろうか?
僕は、常にその疑惑に駆られながら日々を過ごす事になった。
注意力散漫だと作業を監視するセンセイに何度も怒鳴られたけど、考えずにはいられない。
刑期を勤め上げさえすれば、また和紗との幸せな生活が送れる――そう信じられていた頃が懐かしい。
そんな中、出所まであと一週間と言うところで、和紗から一通の手紙が届いた。
送り元住所は、僕と住んでいたマンションだ。

『もうすぐ出所だね。早く壮介に会いたいな。出所の日には、門の前で待ってるからね』

罫線に触れる事を怖がるかのように、小さく纏まった『鵜久森さん』の字。
文通していた頃のことを思い出す。
あの頃の僕らは純粋だった。何の邪魔もなく、隔たりもなく、ただただお互いの事を好きでいられた。
今は 違うんだろうか?
僕と和紗が、お互いの事を純粋に好きでいられる機会は、もう無いんだろうか?
それを確かめるには、和紗本人に訊ねるしかない。
たとえそれが、どれほど怖くても…………。



                              続く