大樹のほとり

自作小説を掲載しているブログです。

禁忌のステーキソース・パスタ

※久々の飯を食うだけ小説です。


「……とにかくね、すっごい変なの、あのレストラン!」
その締めの言葉を聞いて、やっと俺は、優貴のジェスチャーが『すっごい変』を表していたことに気付く。よさこい踊りでもなければ、俺を呪っていたわけでもないらしい。

優貴が熱く語るレストランの名前は、『A Rank × B Rank』。一流の料理と二流以下の料理を掛け合わせ、フランクな満足感を与えるとかいう、よくわからないコンセプトの店だ。
メニューは日替わりの一品のみ、価格帯もまちまち。先週オープニングセールに乗じて優貴が行った時には、『フカヒレと金華ハムをあしらったラーメン』が出てきたそうだ。正直ゲテモノにしか思えないが、優貴的には相当イケたらしい。つまりは高級食材を使ったB級グルメか、嫌いじゃない。
でも。いざ店の前に行き、『本日の予算 4,000円』の看板を見た時には、少し腰が引けた。美味いという確証もない店に、そうそう使える額じゃない。後ろから猛烈な勢いで押してくる彼女がいなければ、数秒で踵を返していたところだ。

恐る恐る足を踏み入れたレストランは、案外ちゃんとしていた。シャンデリアが照らす空間に、真っ白なクロスの掛けられたテーブルが並び、畳んだナプキンなんかも置かれている。壁には絵画も掛かっていて、俺のような庶民の目には充分高級レストランに映る。
「ふわぁ、今日はこういうのなんだ……」
優貴の呟きからすると、前に来たときはまた雰囲気が違うらしい。
先客はすでに何組かいて、格好はフォーマルからカジュアルまで色々。少し失礼かもしれないが、まさに一流から二流まで、という雰囲気だ。
「お客様。こちらへどうぞ」
入口近くで突っ立っていると、中央あたりの席を案内された。白いテーブルクロスに置かれた銀のカトラリーは1セットのみ。これが3セットも4セットもあるとそれだけで混乱してしまうから、ありがたい。

「食前酒にシェリーとキールをお選びいただけますが、どちらになさいますか」
渋い声でそう尋ねられるが、そもそもどっちも知らない。
「キールで!」
悩む俺とは対照的に、正面の優貴がキッパリと答えた。これは意外だ。子供っぽい見た目のくせに、案外酒を知って……
「で、キールってなに!?」
ウェイターが踵を返した直後、優貴が俺に囁きかける。まあ、解ってはいた。解ってはいたが、なぜ知らない酒を自信満々に頼むんだ。さすがは大学のサークル仲間から、『愛嬌だけで世を渡る女』と呼ばれるだけはある。もっとも、その愛嬌にほだされて付き合い、挙句こんな所にまで駆り出されている俺が偉そうに言えたことでもないが。

キールとは、ショートドリンクに分類されるカクテルの一種で 、白ワインに少量のカシスのリキュールを加えたものを言う。らしい。もちろん出展はウィキペディアだ。
そうと判った上で運ばれてきたグラスの中身を飲んでみれば、確かにカシスらしい味がする。白ワインの爽やかな酸味も相まって、胃が開いていく感じがする。なるほど、これが食前酒か。そう感心しつつグラスの中身を空けたころ、早くもメインディッシュが運ばれてくる。
メインは肉。それも、肉の中の肉、ステーキだ。
肉汁が弾ける音のする鉄板に、ブ厚い肉の塊が乗っている。400g以上は軽くあるだろう。さすがの優貴も、そのステーキの皿を前にしては言葉がない。そのぐらいの熱気と、存在感と、期待感の塊なんだ。
皿から立ち上る湯気を吸い込んでいるだけで、身体がとろけてしまいそうになる。原因は直感でわかった。バターだ。ステーキにはたっぷりのソースが掛かっているんだが、そのソースが肉汁を絡めたたっぷりの焦がしバターで作られてるんだ。そこへ仄かに混じる香りは、ガーリックとタイムか。逆に言えば、その2つの独特の香りすら背景になってしまうぐらい、バターの香りが圧倒的なんだ。
「よ、涎でちゃうね、これ……」
ようやくという感じで優貴が口を開く。下品な、とはいえない。こればっかりはしょうがない。
香りに散々あてられながら、肉を見つめる。肉汁がプチプチと音を立てる表面にはしっかりと焼き色がついていた。でもその一方で、横にはまだ赤みが差している。ブ厚い肉なのに、見た目だけでとてつもなくやわらかいのが理解できてしまう。
誘われるようにカトラリーの1セットを手に取り、フォークで肉を固定しつつナイフを滑らせる。すると、あっさりと肉が“裂けた”。想像していたよりもさらにやわらかい。ただ手前に引くだけで、驚くほどなめらかな断面ができる。
断面は、見事なレアだった。ごく表面だけが黒く、中に行くほど淡いピンクになっていく。そしてそのピンクの隙間隙間に、これでもかというほど肉汁が光っているんだ。
もう、理性も何もない。今切り取ったばかりの肉の端を、口の中へ放り込む。噛みしめる……までもなく、歯で軽く挟んだ時点で肉汁があふれ出し、敏感になっている舌を覆い尽くす。ジューシーな牛の野生味が、ダイレクトに心臓まで届いてくる。このパンチの強さは豚や鶏には真似できない。
そしてそれに浸る間もなく、舌がバターの旨味を感じ取る。『まろやか』という言葉を思わず使ってしまいそうなぐらい、有無をいわせずとろかしてくる味。優しいのにしつこくて、反則的なまでに人を骨抜きにする風味。ただ舌に乗せているだけでこれなのに、噛んでしまえばもう幸せな地獄だ。ますます存在感を増していく肉汁のパンチと、バターの風味、ガーリックの憎いまでの香ばしさがない交ぜになり、立て続けに舌と脳を刺激してくる。刺激が強いのに、噛む速さが勝手にどんどん増してしまう。
 スジをほとんど感じない肉が口の中でどろどろに解けた頃、ようやく飲み込むことを許される。喉を心地良い塊が滑り落ちていけば、後は口の空洞に旨味が漂うばかり。後味がいい、なんてものじゃない。中毒だ。俺はその至福に酔いながら、壁に目をやった。席まで移動する間に確認していたんだ。『本日の予算 4,000円』……入口と同じその文言が、壁のボードにも描かれているのを。
4,000円。店に入る前とは逆の意味で信じられない。このステーキは、そんなものじゃない。店が店なら、1万、いや2万円取られたって文句が言えないレベルだ。
俺はそこまで考えてから、またナイフを滑らせる。最高の肉だけに、最高の食べ時を逃すのが惜しい。そういう小市民的な考えで。
二口目でも、三口目でも、俺の舌と脳はパンチを喰らい、とろかされてしまう。肉自体も凄まじく美味い。でも何といっても、ソースが反則的だ。ミシュランで星いくつを取るレストランの、秘伝のソース――そういう触れ込みでもなければ逆に不自然に思えるぐらい、悪魔的な旨さを秘めている。おまけにこのソース、相性がいいのは肉に対してだけじゃない。付けあわせで盛られたマッシュポテトにも、オリーブオイルで素揚げしているらしいブロッコリーやニンジンにも、恐ろしいほどマッチする。

気付けば俺は、最初圧倒された400gあまりの肉をあっという間に平らげていた。安い肉なら300gでも飽きが来るのに、負担らしい負担を感じる瞬間は一度もなかった。本当に、いつの間にか最後の一切れを食ってしまっていた。そしてそれは俺だけじゃなく、向かいの優貴も同じくだ。
「あれ、もうなくなっちゃったぁ……」
その言葉は、まるで俺の脳から漏れたかのようだった。
肉のなくなった皿には、俺を悩殺したあのソースだけが残っている。俺は、それがあまりにももったいなかった。もしここで他人の目がなかったら、まず間違いなく皿を持ち上げて舐め取っているだろう。
そもそもよく考えれば、なんでステーキなのにパンがないんだ。それさえあれば、このソースへたっぷりと浸し、絡ませて堪能できるのに。俺がそう思った、まさにその時だ。
「美味しくお召し上がりになったようですね」
さっき肉を運んできたウェイターが、俺達の横で足を止めた。手にはドーム型の蓋が被せられた皿が乗っている。心なしか、さっきより砕けた雰囲気だ。
「お腹の具合はどうですか。まだ……いけそうですか?」
なんだろう。こっちの『何か』を察しているような、誘っているような口ぶりだ。俺と優貴は、その誘いにまんまと乗って頷く。すると、ウェイターが笑みを浮かべた。
「かしこまりました」
そう言ってウェイターは、ドーム型の蓋を開ける。
中から現れたのは、もうもうと湯気の立つパスタ。
「失礼します」
ウェイターは蓋をテーブルの端に置くと、トングを取り出し、パスタを俺と優貴の皿へと取り分けていく。ステーキのソースが、たっぷりと残った皿にだ。
「では……当店自慢のソースを、心ゆくまでご堪能ください!」
そう言ってウェイターは、白い歯を見せて笑った。最初は高級レストランのウェイターとして違和感がなかったのに、今では悪巧みを打ち明ける兄貴に思える。
ほどよく盛られたパスタの1本を、下品と知りつつ摘み上げる。そして食べてみれば……ほとんど味はしない。うっすらと塩味がついてはいるが、いたって普通。安い弁当のスペースを埋める目的で敷き詰められている、あの素パスタとほぼ同じだ。
なるほど、これがBランク。さっきのこれでもかというほど上等なAランクの余韻を、これで汚せというわけか。高級に慣れた人間の中には、馬鹿にしているのかと怒る人間もいるだろう。最後はこれでは格調も何もない。
でも、下賎な身……それこそ人の目がなければ皿を舐めとろうと考える人間にとっては、まさしく禁忌の誘惑。
「たまんないね……これ…………!!」
優貴が堪え切れないという風に笑う。それはたぶん、俺も同じ。

そして、俺達は史上の残飯を食い漁った。極上の肉汁と、香ばしいガーリック、そして脳をとろかすバター……それらを安っぽいパスタに存分に絡め、思うさま啜る。
つくづく合理的だった。それ自体に味のないパスタだけに、ソースの味が最大限楽しめる。喉の通りのいいパスタだけに、ステーキを食った後でもツルツルいける。ほんの少し物足りなかった腹具合もきっちりと満たされ、何より極上のソースを最後の一滴まで余さず消費できる。本物の高級店なら、こんな真似は許されないだろう。どれほど上質なソースを作っても、ステーキを食い終わった時点で皿は下げられ、ソースは捨てられてしまう。これはまるで、そんなソースと、それを作った職人の無念を晴らす一品に思えた。
「たまんねぇな、これ……」
心も腹もすっかり満たされた頃、俺はフォークを置きながら、思わずそう呟いていた。正面の優貴と、遠くから見守っているウェイターに、心地いい笑みを向けられながら。



                                (終わり)

上海夢中料理

※中華を喰らうだけ。


入社4年目にして、貧乏クジを引いたものだ。
得意先の会長である史沼氏との会食。
それは、中途退社の目安である3年目を乗り越えた社員への、洗礼の儀式である。
偉大なる俺の先輩方は、口を揃えてそう言った。
聞けば、史沼老人は某難関私大の出である事を誇りに思っており、同大学出身の者を贔屓するという。
そしてもし、会食の『犠牲者』が別の大学出身であった場合、史沼氏には苦言を呈される事となる。
態度が悪い、喋りがつまらない、食事のマナーが云々……。
それらのクレームを会社が受け止め、恩を売る形で『犠牲者』を萎縮させる。
そうしてこの会社は、某大学の出身者を中心として派閥を形成してきたのだそうだ。
大学を出たばかりの頃、俺はその話を信じなかった。
しかし、入社以来3人の『犠牲者』を見てきた今は、もはや信じざるを得ない。
まさか自分がその『犠牲者』になるとは思いもしなかったが。

史沼老人に連れられて中華料理屋に向かう最中も、俺の心は晴れなかった。
俺は件の大学などとは全く無縁の人間。暗黒の未来がすでに見えるというものだ。
そもそも、中華料理屋という時点で色々と勘繰ってしまう。
近年重要な市場である中国への理解度を試そうというのか。
俺が中華料理を食べる様を見て、マナーがなっていない、学習意欲に欠けるとこき下ろすつもりか。
そのような疑惑が頭の中を駆け巡る。

事実、席についてからも史沼老は快い反応を一切示さなかった。
俺の世間話は確かに大したものではなかったかもしれないが、それに対して返事もろくにしない。
ただ仏頂面でこちらを観察しているだけだ。
そうして場の空気が依然として硬いまま、届いた食事を摂る破目になった。
俺が頼んだのは“上海套餐”。
いくつかの上海料理が少量ずつ楽しめ、値段も手ごろというお得なセットだ。
史沼老が頼んだものに合わせたのだから、チョイスに文句を言われる筋合いはない。
となれば、後は食べ方だ。
史沼老は相も変わらず、今ひとつ読みづらい表情で静かにこちらを観察している。
馳走を前にしてその視線に晒される。
それは俺にとって、耐え難かった。
趣味の少ない俺だが、食に関する興味は強い。そこを侵されるのは、たとえ得意先の会長とて度し難い。
この怒りが俺を開き直らせた。
それまで続けていたおべんちゃらを放棄し、目の前の料理に専念する。
もはや相手の評価は考えない。悪くて元々、だ。



それなりに高級そうな中華料理店だけあり、セット料理はいかにも美味そうだった。
サラダに麻婆豆腐、シュウマイ2つ、若鳥の唐揚げ。それに白米とワカメスープ。
それらを一瞥した瞬間、俺の頭に直感が走る。
“白米が足りなくなる”、という危惧が。
セットの中で、白米を消費するのは麻婆豆腐、シュウマイ、唐揚げの三種。
シュウマイ2つの消費量はたかが知れているとしても、唐揚げが問題だ。
一瞥して美味いことが判別できる類の、衣も美しい大振りの唐揚げ……それが8個。
俺は、本当に美味いメインディッシュはどうしても白飯を添えて食いたい。
しかし、茶碗一杯の飯では明らかに足りなかった。
唐揚げに一口かぶりつくたび、チマチマと箸の先に白飯を乗せる、とやっても、唐揚げ分だけで飯が消える。
通常であればそれでもいいかもしれないが、問題は残る麻婆豆腐だ。
何しろこの麻婆豆腐、黒い。
赤い色をしているなら、唐辛子系の味として割と普通に食える。
しかし経験上、本場の黒い麻婆豆腐はヤバイ。花椒の舌にビリビリくる辛さは、白米なしには耐えられない。

「すみません、ご飯のお替りできますか」
俺は食事に入る前に、まずそれを店員に確認していた。
中国人らしき店員は、一瞬俺の言葉を頭の中で確認して首を振る。
メニューの白米欄を指し、ツイカ、と呟いた。
どうやらお替り自由ではなく、替わりが欲しければその都度ライスを頼む必要があるらしい。
しかし、背に腹は変えられない。たかだか200円、軽い傷だ。

俺は店員に、ライス追加の予定があり、今から10分ほど後にもう一椀持ってきて欲しい旨を伝えた。
10分後、さりげないが譲れない線だ。
俺の脳内では、すでに料理の攻略がシュミレートされ始めている。
シュウマイを軽く片し、肉厚大振りの極上唐揚げを堪能する時間が約10分。
そこで一杯目の白飯が空になり、すかさず追加の白飯で麻婆豆腐に挑む……これが理想。
あまり早く追加の飯が来て冷めるのはNG。かといって待たされるのも辛いものだ。
メインの一品ごとに、まだ熱い飯をガツガツといきたい。

ちなみに俺は、『三角食べ』が出来ない人間だ。
一品に手をつけると猪突猛進。付け合せの青野菜まで食い切り、皿を空にするまで他には目もくれない。
それが俺の培ってきた食事作法だ。今さら変えられないし、変える気もない。
史沼氏の評価は、いよいよ下がってしまうだろうが。


中華料理特有の長い箸を手に取り、いよいよ食事開始だ。
こちらを見つめる史沼老はとりあえず無視し、本能に身を委ねる。
俺の箸はまず、無意識に唐揚げを掴みあげた。
作法としては多分最悪だ。
和食の場合は汁物から手をつけるべきだし、消化吸収を考えるなら、前菜でもあるサラダから行くべきだ。
しかし、俺の腹は減りすぎていた。こうなっては、まず唐揚げ以外にはありえない。

澱みない動きで唐揚げを口へと運ぶ。
半ばほどへ歯を立てると、ジュリリ、と衣の割れる音が響いた。耳に心地良い。本当に良質な衣である時の音だ。
衣自体にほのかな醤油めいた風味がついているので、レモンも山椒塩も必要なさそうだ。
衣を愉しみながら、さらに肉の中へと噛み進めると……当然、肉汁が来る。
その瞬間、俺は見えないながらに確信した。この肉汁の色は、澄んだ黄色だと。
前歯の圧迫で飛沫き、舌の上へと広がる油。
尋常でない快感が、そそそそと細く脳を駆け上っていく。
美味い、これは美味い!
あまりの美味さに、舌の柔らかさが増していくのが解る。
味蕾はふつふつと歓喜し、新たな肉汁が伝うたび、舌の先がくるりと巻いてしまう。
極上の肉汁を逃がすまいという反応だろう。
衣には、ジュリ、ジュリと噛める絶妙な湿り具合の部分もあれば、サクサクとした香ばしい部分もちゃんとある。
この衣の多様さこそが本当に良い唐揚げの条件だと、俺は勝手に思っている。
勿論、肉自体も質が良い。
歯で噛むとサクリと抵抗無く切れる柔らかさ、臭みのない肉の味、そしてあふれ出す汁。
牛豚ならともかく、鶏肉にこれ以上の説明なんて必要ないだろう。最高だ。

1つ目の唐揚げを咀嚼しながら、白米をかき込む。
当初箸の先にちびちびと乗せて喰うはずだった計画は早くも崩れた。
箸先に乗るギリギリを掬い取ってがばりと喰らう。そうでないと肉の旨みとの調和が取れない。
噛みしめれば、たちまちコメの甘さが唐揚げの味わいを覆い尽くしていった。
飯ひとつを取っても丁寧な焚き方だ。この甘さからいって、たぶん釜炊きだろう。
改めて、細部まで拘った立派な料理屋だ。
白米が美味いのも誤算となり、唐揚げの消費と共に米もみるみる減っていく。
ここは計画を変更し、いくつかの唐揚げは単体で食すしかない。
コメの甘みと共に味わう機会が減るのは悲しいが、たまに肉本来の旨みを堪能するのも変化がついて良い。

そんな事を考えるうち、茶碗は完全に底を晒す。
唐揚げは残り2個。
うち1つを口に含み、付けあわせの野菜も口に放り込んで咀嚼する。
生野菜なぞ嫌いな俺だが、こうすればかろうじて食える。しかし、これを最後に持ってくるのは愚策だ。
唐揚げと併食してもなお残る野菜の青臭さを、残る1つの唐揚げで完全に払拭する。
白米も野菜も気にすることのない、純粋に味わえる肉の旨み。ある種金曜の夜に近い開放感がある。


ついに唐揚げの皿が空になり、膳の中にぽっかりとスペースが空く。
ここまででおよそ4分弱、美味だっただけあって計画より早く平らげてしまっている。
次の白米が来るまではやや猶予がある状態だ。
が、視界を巡らせると誤算に気付く。まだシュウマイもサラダも残っているのだ。
いずれも俺の中でのメインディッシュたり得ない。麻婆豆腐を堪能した後でこれを食べる状況は御免だった。

仕方なくサラダに手を伸ばす。青臭さを先に取り、シュウマイで口直しする作戦だ。
だが、思ったよりこのサラダは口当たりが軽かった。
上にかかっている中華ドレッシングのせいか、あるいは千切り大根の効果か。
いずれにせよあっさりとサラダを平らげ、シュウマイに移る。
こちらは、まぁ予想通り。肉汁充分、大きさもあって、ただ流石に若干冷めているのが残念だ。
とはいえ、俺の中でシュウマイは唐揚げより優先するものではないので、多少の劣化は仕方ない。
期待外れではないので上等だ。

と、ここでタイミング良く白米の2杯目が運ばれてくる。
となれば、いざ麻婆豆腐との対決だ。
ごろごろとした豆腐を真っ赤な唐辛子が縁取り、さらにそれを花椒が覆い隠している。
上に飾られた刻みネギが良いアクセントだ。
皿を手前に引き寄せた時点で、ツンと来る挑戦的な匂いが鼻腔を支配する。
しかし、臆するわけにはいかない。
添えられたレンゲで勢い良く豆腐を掬い、口に運ぶ。
レンゲから啜るように食せば、たちまち清涼感が頭をつき抜けた。
そこから後追いでラー油の辛さが舌を炙り、そしてあの舌のビリビリくる辛さが燃え上がる。
たまらず白飯を口に放り込んだ。
コメの甘みが、かろうじて麻婆豆腐の辛さを中和してくれる。
まだ湯気の立っている暖かい飯だと、余計に甘さが感じられて助かるものだ。
辛い、本当に辛い。
しかし……本格的な麻婆豆腐なのは疑う余地も無かった。
そして本格的な麻婆豆腐の悪い点は、非常に中毒性が高いことだ。
舌の痺れが、いつのまにか次なる快感を待ちわびる疼きへと変化している。
唾液が止まらず、自然と指が動いてしまう。

2口、3口、4口5口6口……。
豆腐の口当たりの良さも手伝い、中毒になったように次々と手が動く。
食べ進めるほどに、辛さにも慣れてしまうのが凄い。
飯も凄まじい勢いで減っていき、ちょうど麻婆豆腐との共倒れという形で空になった。

ふぅーと長い息を吐く。
痺れた舌を細い空気が通っていき、むず痒い。
額にびっしりと汗を掻いている中、視界は唯一残るワカメスープを捉えていた。
この辛さに対する口直しにはもってこいだ。
俺はやはりレンゲを使い、ワカメを掬い上げて口に含んだ。
痺れた舌へ湿布のように張り付かせ、スープを染み渡らせてから飲み込む。
とろりと蕩けたワカメが喉を通る感触は最高だ。
それを数度繰り返した後に、ほどよく冷めたスープを一気に飲み干す。
最後の最後でまた胡椒の味が多少したとはいえ、良い口直しだ。

また、息を吐く。今度はさっきよりも長く。
視界にはもう何も食い物は映らない。ただ白い皿と黒い茶碗が並んでいるばかりだ。
そして、ここで初めて俺は気がついた。
正面にいる史沼老が、呆けた様な表情でこちらを凝視している事に。
さすがに無視が過ぎただろうか。反応が悪くとも、もっと丁寧に接待するべきだったかもしれない。
これは最悪、左遷もありうるかもな。
俺は食後の心地良い気だるさに包まれながら、ぼんやりそう考えていた。



数日後。
史沼氏の俺に関する評価が、噂通り会社経由で伝えられた。
それを聞かされた俺は、なにやら妙な気持ちが今も抜けずにいる。
だって、仕方ないだろう。

『じつに素晴らしい喰いっぷりだった』

毒舌で知られるあの史沼氏が、ただ一言、そう伝えたきりだったというんだから。



                     終わり
続きを読む

仮初の異国

※またしてもメシを喰らうだけのお話。


私は趣味を問われれば、登山だと答える。
しかし、一般的にイメージされるようなアクティブなものではない。
ごく低い山の中腹まで歩き、森林浴を愉しむ程度。
最近はお気に入りのロッジもある。

そのロッジは、私のようなにわか登山者の溜まり場だった。
食事の提供はあるが、材料は客持ちなのが特徴的だ。
訪れた人間達が何かしらの具材を持ち寄り、ロッジの主がそれを調理して場の人間に振舞う。
どのような具材が入るのか解らないため、闇鍋のような楽しさがある。
とはいえ、幾度も痛い目を見た常連ほど、保守に走ってしまいがちなのだが。
私は今週末もそのロッジへと足を向ける。弘前の友人が送ってくれたイカを携えて。
私もまた、無難な方に走ってしまう常連の1人だった。




扉を開けると、途端にカレーの匂いが鼻をつく。
このロッジでカレーが作られることは多い。
たとえどれほどバランスの悪い具材が揃っても、カレールゥを溶かしたスープにぶち込みさえすれば、
最低でも『カレーもどき』になるからだ。
ただ、カレーとて万能ではない。山で食うカレーは美味いが、ビールの相方としては不十分だ。
「おう、待ってたぜ!」
「遅かったな。何ぞ新しいツマミでもくれやァ」
顔なじみ達が私を振り仰ぎ、口々に言う。
彼らの前にあるテーブルには、宴の残滓があった。
くい散らかされ、欠片しか残っていないチーズ。ルゥのこびりついた皿。焼き鳥の串……。
私がクーラーボックスからイカを取り出すと、その倦怠感溢れる空気が一新される。
「おお、良いモン持って来やがって!」
「イカだ、イカ!!」
赤ら顔の親父達が騒ぎはじめる中、私はイカをロッジの主に手渡した。
無口で無愛想な主は、しかしかすかに笑みを見せたような気がする。
ロッジで供される料理は、一切の金を取らない代わりに、彼の賄いも兼ねているのだ。



持参したイカが調理されている間に、私は奥まった席に腰を下ろした。
目の前に皿と、いくつか氷の入ったコップ、そしてビール瓶が回されてくる。
ビールの種類は『ビア・ラオ』、俗に言うラオスビールだ。
ロッジ主の趣味なのか、小屋内にはこれとスーパードライしか常備されていない。
私はビア・ラオの栓を開け、コップへと注いだ。
常温で放置されたビールを、氷入りのコップに注ぐ。この原産地ラオスに則った飲み方にも、ずいぶん馴染んだものだ。
たっぷりの泡を壊さないよう気をつけて注ぐ。
そしてその後、乾いた喉へと一気に流し込む。
えもいわれぬ爽やかさが私の中を通り抜けた。キンキンに冷えている訳ではないのに、十分に涼やかだ。
口当たりが軽いビア・ラオの特性がまた良い。
甘い泡に続き、すっきりとした苦味が食欲をそそる。

途端に腹の根が鳴りはじめ、私はツマミを探した。
とはいえ、やはりめぼしい物はない。
楕円形の陶器皿に盛られた、ルゥばかりのカレー。
その横には深さのあるガラス皿があり、その中に沢山のシジミが入っていた。
それぞれ塩味と唐辛子で味付けしてある。『ビア・ラオ』と同じく、東南アジアで見られる小料理だ。
これが山のように残っている理由はハッキリしている。喰いづらいのだ。
僅かな中身を食べるために、いちいち殻を歯で割って取り出さなければならない。
それは面倒で、よほど腹が減っている時ぐらいしかやらない。
 
私は仕方なくシジミに手を出した。
唐辛子の塗されたひとつを口に放り込み、奥歯で殻を割る。
そして舌で殻を口の外に追いやりながら、中の身を咀嚼する。
運よくスムーズにいった。悪い時だと殻が細かく砕け、吐き出すのに苦労する。
しかし苦労の甲斐あり、この唐辛子で味付けされたシジミはビールに非常によく合う。
特に『ビア・ラオ』のような軽い口当たりのビールとは相性が絶妙だ。
その美味さが空き腹に染み渡り、面倒さを乗り越えて次のひとつへと私を突き動かす。
次は塩のかかったひとつ。
魚介類の塩との相性は反則的だと、私は常々思っている。
濃厚な磯の香りを漂わせながら、塩を塗されて荒々しく煎られたこの小さな貝もそうだ。
高級料理などでは断じてない。それでいながら、舌の上を満たすこの美味さは何事なのだ。
これが世界有数の料理でない事が信じられない。
僅か数秒でありながら、私の味蕾と脳はそのような至福に彩られた。

貝をこじ開ける作業に飽きれば、小皿に取り分けたカレーを匙で掬って舐める。
冷めた事で、ほどよく香辛料の馴染んだ家庭的なカレーだ。
中にはカレーにはあまり見られない具材もあるが、特別に味の邪魔をしているわけでもない。
これを供に酒を呑み続けるのはつらいが、一品料理としてならけして悪くない。
風味付けにセロリなぞへかけて喰らうのも、また一興だ。
そうこうして時間を潰している間に、キッチンの方からいい匂いが漂ってくる。
イカの炙られる、香ばしいあれだ。
多少腹ごしらえをしているとはいえ、再度私の腹が鳴り始めた。



やがて、待ち焦がれたものが大皿に乗ってやってくる。場に歓喜の叫びが湧いた。
湯気の立つそれを小皿に移し、早速一口喰らう。
美味い。期待にしっかりと応える、新鮮なゲソの香ばしさ。
私は思わず頬を緩めた。
ゲソの細切りにはモヤシが合わされ、そのモヤシに巻きつくような葉は、高菜だろうか。そしてそれらを、唐辛子がピシリと引き締めている。
庶民的な具材ばかりながら、風味は充分だ。この飾らない味わいが、また淡白なビールとよく合う。
夢中で食べるうちにあっという間に皿は空になり、そこにはダシの色をしたスープが残った。
皿を傾けてそれを啜れば、塩コショウの香りが私の鼻腔を通り抜けた。
一拍遅れてダシの風味が口に広がる。
なるほど、イカのエキスが染み出したダシそのものも良い。

私は二皿目のゲソ炒めを上機嫌につまみながら、場の男たちとビールを酌み交わす。
泡を壊さないようにだけ注意し、次々にコップへ注いで。
ゲソ炒めに飽きれば、冷えてやや固くなったまろやかなカレーを喰らう。
それにも飽きればシジミの中身を穿り返し、そのうちやがてゲソ炒めが恋しくなる。
至福の時間だ。
私は異国情緒のある海の幸を堪能しながら、ただただ幸せに酔っていった。

週明けにはまた多忙な日々が待っているだろう。
だが今だけは、急ぐ事はない。


                             終
続きを読む

酔いのシメ

※メシ喰うだけ 第3弾


洋酒は苦手だ。
上手く言い表せないが、洋酒を飲んでいると大蛇に頭を締め付けられているように感じる。
『呑む』のではなく『呑まれる』感覚。
俺の得意客にはウイスキーやブランデーを嗜む人間が多く、その付き合いとなれば俺も洋酒を呷らざるを得ない。
とはいえ、俺も1人の酒呑みだ。
嫌な思いをした酒の席の後は、心地良い酔いで取り返したいと思う。
そんな時、俺が頼るのは一件の居酒屋だ。

「ミッちゃん、ミッちゃんよう……」
俺は千鳥足で店先へと辿り着き、救いを求めるように引き戸を開けた。
昭和の時代から引きずって来たような狭い居酒屋。
客の姿はなく、それもそのはず、今は夜中の3時。本来なら店の営業時間はとうに終わっている。
表にも準備中の札が出てはいるが、それは一般の客に向けた話だ。
「………………」
カウンターの向こうに立つ女は、俺の方に視線すら寄越さない。
良い女は良い女だ。
ひと昔前のスケバンを思わせるようなキツい目つき、色白な肌、小ぶりな鼻と唇に、咥え煙草。
愛想など欠片もないその横顔は、しかし何人の男の心を奪うだろう。
ただ、だからとて俺がその美貌を目当てに通っているかといえば、どうにも違う。
この『ママ』美智子は、七年前に事故で死んだ幼馴染の嫁……それ以上のものじゃない。

俺がカウンター席に着くと、美智子はコップに酒を注ぎ、硬い音を立てて俺の前に置いた。
ちびりとそれを飲る。
地酒ながらこれという癖もない、他所に住んでいればわざわざ呑みに来る事はないだろう味だ。
けれどだからこそ、どんな料理にも邪魔にならない。難しい考えを抜きにして愉しめる。
いわば白米のようなものだ。
俺がコップの酒を呷る前で、美智子は焼き網に向き直って何かを炙り始める。
普通の客に出したメシの余りを簡単に処理した、いわば『賄い』だ。

網からの煙と、煙草の煙が調理場に交じり合う。
物憂げに手元を見つめる瞳、だらしなく斜め下に咥えた煙草。
無造作にゴムで結わえた髪と、紫のジャージとの間に覗くうなじ。
酔いのせいか、それら全てが妙に色めいて見える。
じっさい美智子は、未だにハタチの頃のそれと大差のないボディラインを保っている。
欲情に足る対象である事は、客観的にも明白だ。

店に立ち寄った客から聞いた、彼女をイメージする。
客の前で煙草は吸わず、髪をきちりと結い、着物を着ている。笑みを見せる事もあるという。
そのような不可思議な姿を、俺は見たことはない。
彼女の素しか、俺は見ることはない。



簡素なつまみが供される。
半端に割れたような形の陶器に、あぶり焼きの筍が乗っているもの。
横には蕗味噌が添えられており、これが筍とあわさって中々にいい肴になる。
いかにも“渋いです”という匂いが食欲をそそった。
まずは箸の先で弄くるようにしながら、それらの苦味を味わっていく。
美智子はカウンターの向こうで頬杖をつき、煙草を咥えたままでテレビを眺めていた。
時おり煙草の灰を落としながら欠伸をする。
俺はしばし、黙って時を過ごした。暗黙の了解とでも言うのか。

「……ミッちゃん、よう」
十分余りをかけて一品目を粗方喰い、皿の溝に入り込んだ蕗味噌を箸で穿り返しながら、ようやくに俺は口を開く。
そこから始まるのは愚痴だ。
他愛もない世間話を交えながらの愚痴。
美智子はたまに「へぇ」や「そうかい」といった応えを寄越しながらも、基本的には聞き流している。
稀にスケバンさながらの眼光でジロリとこちらを見やる事もある。
普通の男なら気圧されて黙るだろう。
しかし、美智子が鋭い瞳を寄越すのは、相手にある程度の関心を抱いている証拠だ。
逆にその瞳をペルシア猫のように若干開き、一見興味深そうにした時が関心の切れ目。
美智子に熱を上げる男どもの九分九厘が、この辺りの機微を履き違えている。

美智子は折に触れてコップに酒を注ぎながら、逐次肴を拵えては供してくれた。
煮魚の残りを焼き直したもの。
照り焼きのような魚の身に、煮凝りが添えられているのが嬉しいところだ。
焼きによってパリッと張りを持った皮に、ややパサつきながらも旨み・汁気共に十分な身、濃縮された味の煮凝り。
酒が進んで、進んで、仕方がない。やはり『魚』こそは『肴』の最たるものだと実感させられる。

次の、蓮根と牛蒡を煮付けたものも美味だった。
作ってから時間を置いて冷えた分だけ、ぎゅうと味が染みこんでいる。
根菜特有の“噛みしめに応える歯ごたえ”と同時に、酔っていても解るダシの風味が滲み出てくる快感は並ではない。
シャクシャクと噛みながら、同時に口の中でその砕いた野菜を啜る。しばし言葉を封印する。
旨い。

次には、ここで淡白な冷奴が供された。
青葱とおろし生姜だけを乗せたものに、醤油を注いでおもむろに箸で割る。口へ運ぶ。
いっさいの誤魔化しがない清涼な風味だ。どこをとっても清清しいほどに、和。
あまりの心地よさに、いつも酒を二の次にして掻きこんでしまう。中毒性があるが、二丁はいらない。

さらに酢ダコ、鴨肉の切れ端などが続き、いよいよ俺の酔いも深くなってきた。
もはや呂律も回らず、自分が何を語っているのかも解らない。
ふわふわと波間を漂うようで心地良い。そして供される料理も、酔いが深まるほどに美味く感じるものが多い。
この辺りの美智子の采配は、さすがと言うほかはなかった。



そしてついに、シメの一品が現れた。
豊かな磯の香りを鼻腔に満たす……幻のメニュー、魚介ラーメン。
毎度ながらこれがたまらない。
おそらく素面の状態で喰っても、さほど感動などないだろう。
しかしアルコールが入って味覚の麻痺した状態でなら、その評価は一変する。
スープはあっさり目で重くはない。酒で膨れた腹にも抵抗なく受け入れられ、妙に美味い。
アゴやホタテ、シジミ、アサリ、ハマグリなどから十分な時間をかけて取られたダシが絶妙だ。
さらに美味いだけでなく、それらに含まれる成分によって、二日酔いが劇的に抑えられるという利点もある。
最後のこれを喰う事によって、俺の呑みは幸せに終わると言って良い。

俺はラーメンをぺろりと平らげ、万札をカウンターに置いて席を立った。
「多いよ、また細かくなってから払いな」
美智子は一旦はそう言ってつき返そうとするが、俺が譲らない。
時間外の迷惑料と、良い酒の席を得られた感謝の気持ちだ。
美智子は数度の悶着の後、諦めたように万札を引き取った。

「…………お疲れ。」

店を出る最後の瞬間、後ろから掛けられた一言で、俺はすべてから救われた気分になる。
一言返した口の中を、苦味と渋み、そしてそれを包みこむ豊かな甘みが巡り、俺に夢見心地を味わわせた。



                             終
続きを読む

人情定食

※ エロ無し注意


ぶらりと駅前を歩く。
時間はちょうど昼飯時、目に付くどこの定食屋も、すでに人でごった返していた。
人の波を避けるようにして裏通りへ。
腹の減りを自覚しながら辺りを窺っていると、ふと一軒の飯屋が目に止まった。

それなりに高いビルの合間に隠れるように存在する、二階建ての小さな店。
黒ずんだ木造りの戸がひどく時代を感じさせる。
表には粗末な看板があり、紙に手書きでメニューが記されていた。

焼き魚定食、スタミナ定食、チキンライス 各880円

日替わりのような洒落たものもない、無骨なメニュー。
880円という値段設定も、ランチが平均500、600円台で食えるこの界隈では特に安くもない。
しかし、俺はそれが妙に気に入った。
店をちらと覗くと、中は異様なほどに空いている。客は一人しかいないようだ。
あれだけどこかしこも人に溢れている中で、この寂れ様。相当に不味いのか。
俺はどこか怖いもの見たさに似た感情と共に、店の戸を開ける。

戸を潜るとさらに狭苦しく感じられた。
入り口へ迫ってくるようなカウンター、粗末な木机。
壁のポスターには、わざとらしいほど青い海をバックに、よく日焼けしたセパレート水着の女が横たわっている。
東京オリンピックの時代に舞い戻ったか、そう錯覚するほどの昭和臭さだ。
「ぃらっせい、ゥンターどぞォー!」
微妙に聞き取りづらい声で、店主らしき男がカウンター席を勧めてくる。
まるでその筋の人間と思えるようないかつい男だ。

「……スタミナ」
俺は真っ直ぐにその男を見上げながら注文を出す。
するとその男は、にいと頬の肉を歪ませた。意外なまでに人懐こい笑顔。
「スタミナー、ありゃあーッす!!!」
威勢のいい掛け声と共に、やや若い男がカウンターから小走りに出てくる。
男はやはり気分いい笑顔で水をこちらの前に置いた。
大きなグラスだ。
明らかに『お冷や』目的のものではない。酒を入れるための、手を広げて握るような気前いい大きさ。
俺はこれに並々と注がれた水を見て、この店に対する評価が変わっていくのを感じていた。

よく注意を向ければ、カウンター前のガラスケースには、鮮度の良さそうな肉のぶつ切りが無造作に飾られていた。
あえて客の目に晒せるほど、肉の質に自信があるのだろう。
さらに厨房では、やはり体格の良い男が、コンロに叩きつけるが如くに騒々しく中華鍋を振るっている。
浅い俺の人生経験に照らし合わせれば、ああしてやかましく鍋を振るうラーメン屋の焼き飯は美味い。
ならば俄然、これから出される料理にも期待が募ろうというものだった。



スポーツ新聞の一面を読み終えた頃、料理が運ばれてくる。
水を運んできた時と同じ男は、新聞を畳む俺に配慮するかのように注意深く皿を置いていく。

「ご飯はお替り自由ですから。」

逞しい顔に白い歯を覗かせて笑う姿は、随分と好ましい。
彼に一礼をくれて料理に視線を落とす。
瞬間に鼻を支配する胡椒の薫り。食欲をそそる油に混じり、それは空き腹を著しく刺激する。
『スタミナ定食』メイン料理の見た目は野菜炒めだ。
山盛りのキャベツ・もやし・人参のざく切りから、細切れのロースが顔を覗かせていた。

涎が溢れそうになる。
その涎を押し戻すような気負いをもって、まずロース一切れを摘み上げて口へ放り込む。
良い。
ロースという言葉から期待する通りの、ザクリと確かな歯ごたえ、肉汁の旨味、そして絶妙な胡椒の利き具合。
たまらず箸で掴めるだけ白米を掴んで口へ放り込む。
これだけ旨味の濃厚なものを、コメと味わわずして何とする。そう本能が命じたからだ。

ふっくらと炊かれたコメの甘みと、肉汁のまた趣の違う甘みが口の中で溶け合う。
噛みしめると、それがさらに糖の甘さと肉の香ばしさにはっきりと分たれ、舌の頂きに至福をもたらしてくる。
呑み込むか、否、味わう。呑み込むか、否、まだ味わう。……もはや粥状だ、口内に留めてはおけない。
その葛藤をもって、ようやく味わいつくした一口目が喉を通り過ぎる。
何と美味い肉だ。
俺はしみじみそう感じたが、その感慨にも碌に浸れぬまま、箸はもう二口目を求めている。

次は野菜だ。
キャベツでその他を包み込むようにし、塊を口へ放り込む。
シャキッと音もしそうな歯応え。野菜独特の瑞々しい甘さ、ほのかな青臭さ、そしてやはり胡椒が美味い。
先の肉ほどの量ではないが、やはり米を掬って口へと放り込んでしまう。
俺が野菜炒めを喰らうとき、野菜部分でもコメに手をつけるのはこれが初めてのことだった。
いつもなら、野菜の部分はイヤイヤながらに単独で平らげ、肉の部分をコメの楽しみにするところ。
それが今回は、野菜を食している時でさえ、自然にコメを添えてしまっている。

肉、野菜と来て次はまた肉へ。肉汁を堪能しつつ、大掴みのコメを同じく口へと放り込む。
初めに見たときには野菜に埋もれて肉が少なく思えたものだが、掘り返してみると肉の量も半端ではない。
そしてこの二度目の肉を口に運んだとき、俺はある事実に気がつきつつあった。
山のように盛られた白飯。
普通の定食ならその椀一杯で十分な量だが、このペースで米を食っている今日に限っては、
その量ですらまるで足りないのではないか……と。
それは疑惑というより確信に近い。
事実、そこからさらに取り憑かれるように肉・野菜を口に運び続けた末、あっという間に茶碗が空になってしまう。

『お替り自由ですから。』

若い男の発した言葉が、救いのように脳裏に甦る。


替わりの米を待つ間は、一転して地獄のように感じられた。
胡椒の利いた肉や野菜をついつい摘みたくなるが、やはり本当に美味いものはコメと共に喰らいたい。
ここで僅かでもその至福を削るような真似は慎むべきだ。
俺はそう自分を諭し、代わりに定食のその他、味噌汁と小鉢に箸を伸ばした。

まず味噌汁を啜る。
あれだけフワリと白米を炊き、本格的な炒め物を作るのだ。味噌汁もさぞや美味かろう。
その憶測は、意外にも破られた。まるで美味くない、まるでインスタントだ。
次に小鉢。シイタケと切干大根の煮付け、これも……美味くない。安い惣菜のように無駄に甘たるい。
やや肩透かしな副菜を処理する気分で平らげる。

その過程で、俺はまたある確信を得ていた。ここは、『特化させている』のだ。
この副菜や味噌汁は、あくまで定食としての体を保つための添え物。
本来そこにも注がれるべき力を、この店ではあえてコメと主菜に注ぎ込んでいるに違いない。
実際にその2つだけは、他の店では滅多に出会えない目の覚めるような美味さなのだから。
そうなればいよいよ、その主役の再登場が待ち遠しくなり始めた。

焦れる気持ちで、店の端に置かれた空茶碗へと視線を投げる。
よく見ればこれも中々洒落た器だ。まるで茶会に用いられる椀のように思える。
黒に近い濃紺の下地へ、指で白波の渦を塗りつけたような、何とも趣深い文様。
なるほど、この器に盛られればコメも美味く感じるものだ。

さらにメインの乗った皿へと視線を移す、いや、移してしまう。
刻一刻と冷めていく料理が惜しい。早くがっつきたい。
そのような事を考えながら眺めていると、ふと皿の淵に何かがこびり付いていることに気がついた。
赤い、唐辛子を思わせる薬味……。
何ということだ!このような薬味が添えてある事に、今の今まで気がつかなかったとは。
しかし、まだ次がある。次こそはこの薬味を使い、また違った楽しみが出来るではないか、
なんと素晴らしい。

そのような事を考えていると、ついに替わりの白米が運ばれてくる。
店主は米を盛った茶碗を、カウンター越しでなく、わざわざ横から回ってきて俺の前へと置く。
その細やかな気遣いには、思わず感嘆せざるを得なかった。
見た目はいかついが心優しい。俺は思わず口元を緩ませながら、いよいよ箸を動かし始める。


肉を口へ放り込む。続いて今度は、赤い薬味を追って含み、さらに白米。
期待通りに美味い。最初に比べれば冷めてはいるが、美味さになお陰りはない。
コチュジャンを思わせる辛味は、香ばしい肉と白米の甘みの調和に刺激を加えた。
先ほどまでのじわりとした甘みがキリリと引き締まり、唾液の分泌を促進させる。
ほんの僅かに感じていた油っぽさも完全に払拭され、純粋な旨味群だけが口内へ拡がり続ける。
野菜に添えてもそれは同じ。青臭さを消し、サラダの如き清清しさを口に残していく。
無論この唐辛子由来の辛さは、コメとの相性も悪いわけがない。

こうなるともはや止まらなかった。
肉、野菜、肉、野菜、肉と次々に口に放り込み、再び盛られたコメを何の心配もなく大口で掻きこんでいける。
正直二杯目も大盛りというのは多いようにも感じたが、こうして喰っているとまるで問題なく完食できそうに思う。
事実、そこから考える事も億劫になって無心に食べ続けるうち、二杯目の白米も空となった。

肉はまだある、三杯目にいけそうな気もある。
しかしあえて俺はそれを避けた。
満腹だからではない。『あまりにもこの料理が美味すぎるから』だ。
本当に美味いものは、満腹まで食べてはならない。もう少し、やや物足りない所で止めてこそ記憶に残せる。
俺はそれを強く意識し、コメの誘惑に耐えながら、皿に少量残った肉を平らげた。
最後の一片を掬う時、皿に残った胡椒風味の汁もできるだけ絡めるようにして口に運ぶ。
締めに相応しい、胡椒と肉汁の味の濃厚に乗った最後の一口。
俺はそれをよくよく噛みしめ、噛みしめ、汁を絞り出すように味わいつくして嚥下した。
溜め息が出る。
とうとう至福の刻が終わったのだ。
氷がひしめき合うグラスの水を飲みながら、俺は静かに現実世界へと舞い戻った。

「880円です」
その声に、俺は千円札を出す。あれを食べて、なお120円が戻ってくるのが信じられない。
「ぁいどぉー、またよろしくぅー!!」
店主と若い男が声を揃え、人懐こい笑顔を見せた。
額に汗して鍋を振るっていた料理人もまた、帰りかける俺に笑みを見せる。
強面な見た目ばかりながら、なんと心優しい人間達なのか。
そのような人情溢れる人間であればこそ、あれほどに美味いものが作れるのだ。
あれはただのスタミナ定食ではない、『人情定食』とでも言っていい。
俺はそう感じながら、軋みを上げる木の戸を開ける。

外の空気を吸った瞬間、腹の張る感覚が襲った。
やはり流石に喰いすぎたか。これはまた今晩から、減塩低脂肪を意識した食事だな。
そう考えはするが、しかしあれだけ美味いものを喰った以上は後悔もない。
また来よう。
俺はそう心の中で呟きながら、再び路地をぶらつき始めた。



                          終
続きを読む
アクセスカウンター

    ありがたいコメント
    さくさく検索
    月別アーカイブ
    メッセージ

    名前
    メール
    本文
    プロフィール

    kunsecat

    • ライブドアブログ