大樹のほとり

自作小説を掲載しているブログです。

キャットファイト

The Edge 外伝  安息の場所

※ 本編終了後、しばらく経った後のお話です。

1.

中華風の趣を湛えた部屋で、一人の女が黒鍼を磨いている。
美しい女だ。
くっきりとした切れ長の瞳に、左右に垂らした三つ編み、艶やかな肌。
その瑞々しい魅力は、普通に見ればせいぜい20代に差し掛かろうかといったところだ。
彼女が実はとうに30を越えると言って、信じられるものだろうか。
そこには奇跡の業と言ってもいい、薬事・美容の粋が見て取れた。
「……!」
彼女、香蘭(シャンラン)は、ふいに油断のない視線を後方へ投げる。
身体の線に隠すように鍼を持ち、窺った先にいたのは、こちらも目の覚めるような美女だ。
香蘭の冷徹な瞳が解りやすいほどの動揺を示した。

「今日は面会の予定などなかった筈だが……何用だ」
香蘭が背後の女性に向けて問う。
女性は形のいい唇を吊り上げ、一流の女優さながらに品よく笑った。
「あら。でもあの子達は、あっさり通してくれたわよ」
女性が示す先では、頭にシニヨンを作った中華娘達がはにかんでいる。
たまらず香蘭の口元も綻んだ。
「全く、困ったものだ」
言葉とは裏腹にまるで迷惑がっていない香蘭は、静かに立ち上がって女性に近づく。
「……久しいな、悠里」
香蘭は、旧知の友の姿を改めて視界に収めた。

キリリと整った眉。
猫のように好奇心に満ち、かつ相手の顔が映りこむほどに虹彩の輝く瞳。
光の加減によっては見えなくなるほどすっきりと通った鼻筋。
ルージュいらずのふっくらと艶やかな唇に、日本人離れした洗練されすぎている輪郭。

無駄な肉のない魅惑的な首筋に鎖骨が続き、胸の膨らみが南国の果実を思わせる。
腰は思い切ったほどに細く絞られ、尻からのボリュームをいよいよ艶かしく目に焼き付けさせる。
そしてその起伏も鮮やかなボディラインを締めくくるのは、思わず何度も視線を下ろしてしまう脚線美だ。
並大抵のレースクイーンなら恥じて足元を隠すほどのその脚は小気味いいほどに長く、
どのようなポーズを取っても絵になるだけの非凡さがあった。

体中から『新鮮』と『自信』のイメージを振りまくような彼女が長い黒髪を揺らして歩けば、
その姿はまさに不可侵の女王と呼ぶに相応しい。

香蘭は、久々のその魅力にごくりと喉を鳴らしてしまっていた。
一目見ただけで視界に映る日常が薄皮を剥いだように色鮮やかになる美女が、
自分に向けて気心の知れた笑みを向けているという至福。
「久しぶりね、香蘭」
『至福』の元凶は、思わずつられて笑うような艶やかな微笑を浮かべた。



「……なんだこれは、体中が古いゴムのように凝り固まっているぞ。
 ストレッチを怠ったのか、悠里」

体調把握のために悠里の身体へ触れた香蘭が、驚きの声を上げる。
肘の内側を押し込み、首元を揉み解してみると、ゴリゴリと音のしそうな反応が返ってきていた。
悠里が桜色の唇を尖らせる。

「仕方ないじゃない。先週までいた北欧じゃあ、それは大変な目に遭ってたのよ。
 着いてすぐ女の子と知り合って、その子を狙う密売組織からろくに寝る間もなく逃げ回って。
 おまけにいつの間にか、裏で名の通った暗殺者とかいうのにまで付け狙われてて。
 十年分の不幸がいっぺんに降りかかってきたみたいだったわ」

こめかみを押さえて呻く姿を見る限り、相当に参ったらしい。

「……なるほど、やはりか。こちらにも噂話というレベルでの情報は回ってきていたぞ。
 貴様、『叫喚の音叉』ビルギット・ヒリンズとやり合っていたな?」
「へぇ、さすがに詳しいわね」
「さすがと言うべきはこちらだ。あの『叫喚の音叉』が数週間にも渡って殺害依頼を受けないなど、
 “こちら側”でも噂の種だったものだぞ。
 だがその間、遂行中の依頼を達成できずにいたとすれば得心も行く」
「裏社会のウワサの種、ねぇ……確かにあれはとんでもなかったわ。
 手足を吹き飛ばされそうになった事は何度もあったし、おまけにもうしつこいったら。
 ホラー映画の中に入り込んだのかと思ったぐらいよ」

そうした穏やかでない会話が進む間にも、香蘭の手は悠里の身体を把握していく。

「ふむ……ここまで凝り固まっているとなれば、鍼よりもマッサージだな。
 先に施術部屋へ行っていろ、悠里。私も追って向かう」
「マ、マッサージ……?あんまり痛くしないでね」
何か思うところがあるのか、少し気後れした表情を見せる悠里。
しかし香蘭は厳しい顔だ。
「そこまでガタが来ていては、痛む程にしなければ効かん。とっとと行け!」
「うう……し、しょうがない……か……。」
香蘭に追い立てられ、中華娘に腕を引かれて先導されながら、悠里は観念したように首を垂れた。



2.

カーテンで外と仕切られた施術室には香が焚かれていた。
炬燵の中を思わせるオレンジの照明や、床に広げられた柔らかな毛布もまた、心を穏やかにする効果がある。
悠里はその中で中華娘達に促され、着ていた服を脱ぎ捨てた。
途端にわぁ、と起きる感嘆の声。
水を弾くようにつややかな桜色の肌は、同性の、悠里より遥かに年下の少女の目をも釘付けにする。

「枕に顎を乗せて、うつ伏せになれ」
香蘭が命じると、悠里は言葉通り裸のままうつ伏せになり、枕と顎の間に重ねた掌を挟みこんだ。
すらりとした身体が横たわっているさまは中々の絶景だ。
肩甲骨の隆起、S字を描く背筋のライン、豊かに盛り上がった尻肉。
思わず抱きつきたい気分を見る者に湧き起こさせる。

香蘭は開かせた悠里の脚の間に、陶器で出来た深めの器を置いた。
そしてそこからオイルを掬い取る。
「さて、いくぞ」
掌を擦り合わせてオイルを馴染ませ、いよいよ香蘭のマッサージは始まった。

「……ぎゃあっ、あ゛う!い、いた、いぃ……!!!」
悠里が枕の上で歯を喰いしばる。その目はつらそうに閉じられている。
「酷いものだな。体中がガタガタだぞ」
香蘭は呆れたように告げ、両の親指で悠里の土踏まず周辺を何度も押し込んでいく。
その度に悠里の身体が跳ね、細い悲鳴が上がるのだった。
「あ、あう、あうう!!きゃうぅっっ!!!」
オイルによってテカリを帯びていく足裏と、悠里の甲高い悲鳴。
それは妙に艶かしく見えた。

足裏を散々に刺激したのち、香蘭の手は踵を越えて悠里の脹脛へと至る。
伸びやかな脚がオイルのテカリに塗れ始めた。
「よく凝っているな、『カーペントレス(木こり娘)』に酷使された脚は」
香蘭の手が脹脛を揉み潰す。枕に沈んだ悠里の口から、く、く、と押さえ切れない悲鳴が漏れる。
さらに指先が膝裏、そして内腿へと這い上がると、悠里は堪らずに身を捩った。
「い、嫌っ!!」
「暴れるな、それだけ効いているという事だ」
香蘭は叱りながら、悠里の尻肉へと手をかける。
そのまま餅をこねるように力強く揉み込めば、悠里の腰が妖しくうごめいた。
「はあ、ぁんっ……」
桃色の息を吐くような様子で声が漏れる。
「気持ちよさそうだな、悠里」
「……お、お尻揉まれると……やっぱり凄いわね。恥骨にまでジンと響いてくる……」
ただ快感に酔いしれる悠里。
それを見やりながら、香蘭は次の治療に向かった。
悠里の腿の裏側を膝で押し込み、刺激しながら、その背中へ肘をつける。

ぐりり、と背骨の側部に肘が入り込むと、悠里の目が見開かれた。
「かっ、……あぐっ……!!」
枕を掴む腕が細かに痙攣するのを横目に見つつ、香蘭は背中の肘を移動させる。
筋肉へと筋をつけるかのように、脇腹へと。
「ァぐぅうううあ゛っ!!!」
「ふ、凄い声が出るな悠里?お前とリングで戦った娘達にも教えてやりたい所だ。
 元女王・悠里は、こうして組み敷いて背中を肘で抉れば、あられもない声を出すぞ、とな」
香蘭に茶化され、悠里は目の端に涙を浮かべながら後ろを見上げる。

「はっ……はあっ……し、試合でなら、とっくに返してるわ、こんな体勢……」
「ほう、それは大したものだ。では今やって見せてくれ」
香蘭は笑い、悠里の右手首を掴んで後ろへ引いた。
その状態で腕の付け根を押し込めば、悠里の肩からはバキバキと骨の折れるような音がする。
「あ゛ッぐあぁああああぁぁぁああッ!!!!!」
悠里はその整った横顔を枕に押し付け、眉間に皺を寄せて叫ぶ。
その姿はまるで、組み敷かれたまま関節技を掛けられているかのようだ。
上体は深く毛布に押し付けられており、潰れたような乳房が実に艶かしい。

「その激痛は、そのままお前の肩関節の凝りだ。我が身が可愛ければ耐え忍ぶがいい」
香蘭はそう言いながら、さらに手首を引きつつ付け根を押し込む。
ゴリ、ゴリと骨の動く音がし、悠里は唇を噛んでそれに耐えた。
数度の刺激の後、ようやく手首を離された悠里の右腕は力なく毛布に沈む。
「はっ、はぁ、はぁ……」
「ふん、ようやく解放されたとでも言いたげな顔だな。だがもう片方もいくぞ」
香蘭は嗜虐的な笑みで告げ、悠里の左手の手首を取る。
「あがあっ!!」
左右対称の同じ治療が課せられた。
「右腕より、こちらの方が酷使されているようだな」
ゴギゴギと凄まじい音を響かせる左腕に、香蘭が呟く。
悠里はされるがままに腕を引かれながら、その白い乳房を身体の横から零していた。
中華娘達がそれに気づいて頬を赤らめる。



背面へのマッサージが一通り終わったあと、次に悠里は仰向けにさせられた。
重圧から解放された零れんばかりの乳房が、悠里の胸板の上で柔らかに揺れる。
形が溶けたように崩れないあたり、驚異的な張りといえた。
目を引くのは乳房ばかりではない。
背中側も肩甲骨やS字を描く背筋のラインが実に眩かった悠里だが、
前身となればいよいよ理性を試されるほどの悩ましい形をしている。

「いや、そんなに……見ないでよ」
身体を凝視してくる香蘭に、悠里は手で胸を覆い隠した。
自分の身体に絶対の自信を持つ悠里は平素、裸体を晒すことを恥とは思わない。
しかし官能の炎が芽生え始めた時だけは別だ。
逆をいえば、悠里が肌を隠す時は、少なからず『感じ始めている』……ともいえる。
香蘭はそれを汲み取りながら、悠里の身体に指を這わせた。

首元から、乳房の間を抜けて肋骨へ、そして薄っすらと6つに割れた腹筋へ。
さらに下って安産を約束する見事な腰つきへ流れ、閉じた股下に逆三角の隙間ができる締まった太腿へと至る。
「はっ……いひ、うぅふっ……!!」
皮膚の敏感な悠里は、その動きだけで細かに身を捩らせた。
香蘭はそれに笑みを浮かべつつ、手を悠里の下腹へと添える。

腰骨の両端に掌底を宛がい、ぐいと押すと、悠里の太腿が跳ね上がった。
「ふ、痛むらしいな」
「ん……っ!!!」
香蘭が訊ねるが、悠里は下唇を内へ巻き込んだまま、視線を横に逸らして耐えていた。
うつ伏せの時と違って香蘭と向かい合う格好のため、乱れる所を見せまいとしているのだろう。
含み笑いの後、香蘭は刺激を続ける。
腹筋中央の縦線を指先で揉み込み、また掌の底で腹部を平らにならす様に磨り潰す。

この治療に至って、いよいよ香蘭は他の患者と悠里との違いを顕著に感じていた。
腹筋の硬さがまるで違う。
普段なら餅をこねるように内へ内へと沈み込ませるマッサージをする所だが、悠里に対してはそうはいかない。
見た目はやや筋肉質といった程度だが、その腹筋は巨木の幹、あるいはゴムタイヤのような硬さと弾力を兼ね備えている。
おそらくは一般人がバットで殴りつけても、数発であれば問題なく吸収してしまうだろう。
事実、香蘭が渾身の力と体重を込めて圧し掛かってみても、スプリングのようにあっけなく弾かれてしまうのだった。

並みの施術者であれば、その力んだ腹筋の前にマッサージは至難だ。
しかし香蘭は、両の掌を腹部の上で重ね合わせ、勢いよく悠里の腹部へ沈み込ませる。
「う゛ぉううえっ!?」
途端に悠里が目を剥き、呼吸の苦しげな呻きを漏らした。
その腹部は香蘭の掌を飲み込むように深く沈みこんでいる。
「私を相手に腹筋を固めても無駄なことは、よく知っているだろう?」
香蘭の切れ長の目がほくそ笑んだ。
悠里は苦しげに息を吐きながら、少しずつ腹部の力を抜き始める。

浮き上がった腹筋と細く締まった腰つきの上で、香蘭の白い手が踊りまわる。
腰を掴み、腹筋を押し潰し、アバラの部分をなぞって。
「……ン、はっ……は、ぁ……はあ、あッ……う、はあっ…………!!」
悠里は出産を思わせるような吐息を吐きながら、少しずつ、少しずつ、その顔に官能の色を浮かべていく。
香蘭が悠里の脚を平泳ぎをするように開かせ、足の付け根を刺激し始めた時、その頬はいよいよ赤く染まり始めた。



オレンジの灯りに照らされた悠里の内腿を、香蘭の白い手が揉み解す。
その過程で、香蘭はちらりと局部の下へ視線を落とした。
「悠里、どうした事だこれは。尻の穴がヒクヒクと物欲しそうに蠢いているぞ。
 指でも捻じ込んで欲しいのか?」

かつて古武道の門下生らの手によって開発された経緯のある悠里の尻穴は、普段からぴちりと閉じてはいない。
綿棒数本をそのまま飲み込める程度には開いているものだが、今はそれが更なる開閉を繰り返している。
「ちょ、ちょっと、お尻なんて見ないで!!」
悠里は狼狽した声を上げる。
彼女は元女王らしくプライドが高く、また処女でこそないものの、未だに性への耐性が低い娘だ。
耳まで赤らめながら脚を閉じようとするのを、香蘭が笑って封じる。
「はは、悪かった、許せ。だが少々心地よくなってきたのは事実だろう?そのように解しているからな」
香蘭はそう言いながら、三度悠里に姿勢を変えさせる。

今度は悠里に胡坐を掻くように座らせる格好だ。
背後から香蘭の細い身体が覆い被さり、悠里に前屈みを強要した。
「うい、ぃっ……!!」
腰がパキパキと鳴るのを感じながら、しかし悠里の背筋にじんわりと快感が生じる。
さらに香蘭が、悠里を抱え起こしながら背後に身体を反らせると、その快感ははっきりと背筋を走り抜ける物に変わった。
「ああ……!!」
初めて悠里の唇から、完全な心地よさからの声が上がる。
香蘭はそれを聴きながら、おもむろに悠里の乳房を鷲掴みにした。
「きゃっ!?」
「身体の凝りも相当に解れて、いい気分になってきた頃のはずだ。仕上げをしてやろう」
香蘭は悠里にそう囁きかけながら、張りのある乳房を揉みしだく。
「うわ……!!」
施術を見守っていた中華娘の何人かが手で顔を覆い、しかし指の間から官能の瞬間を目撃する。

「あ……んあ、あふぅ、うっ…………」
悠里は背後から香蘭に胸を揉まれながら、心地よさに身を委ねているようだった。
房事に慣れた手つきが純粋に心地よいのもあり、また相手が心を許す友人という事も大きいだろう。
桜色の形のいい唇から漏れる息遣いは、次第に熱を帯び、熱く吐き出され、
ついには唇の端から銀色の線さえ零すようになっていく。

「随分と心地良さそうだな、悠里。それほどに良いのか?」
確かめるように香蘭が問うと、悠里はやわらかく目を閉じたまま頷いた。
香蘭の顔が嬉しげに綻ぶ。
「ふ、そうか。 ……お前の細い身体を抱いたのは、これで何度目になるか。
 身体を癒すためと言っては、こうして身体を蕩けさせ、私の愛撫で最も感じるように刻み込んだ。
 お前は私で、私はお前のひとつだ。
 心ではあの茜という小娘への想いに敵わんだろうが、お前の身体は私のものだ、悠里」
香蘭は悠里の身体を抱きしめながら告げる。
悠里の眉が困ったように垂れた。

「……そ、そんなこと……。わ、私は、茜も大好き、でも香蘭の事も大好きなのよ。
 あ、あっ……ど、どっちも、どっちのことも大好きじゃ、いけないの……?」
悠里は潤んだ瞳で香蘭を振り返る。
その顔はいつもより幼く見え、しかしいつになく女らしく、堪らず抱きしめたくなってしまう。
そんな風だから、他の人間に渡したくないのだ。
香蘭は胸の内でそう叫びながら、悠里の脚の間へと手を滑り込ませる。
「ん!!」
悠里の目が閉じられ、柔らかな内腿が震えた。



「随分と気持ちよさそうに濡れているな。いつ頃から感じていたんだ?」
悠里の淡いをくじりながら、香蘭が問う。
悠里は目を細めて答えた。
「うつ伏せで、太腿の裏を触られたあたり、かな……。お尻を揉まれるのも凄かったし。
 お腹をしつこく潰されるのも……何だか、じゅんと来てたのかも」
その答えをしっかりと聞きながら、香蘭は桜色の秘裂の奥をかき回し続ける。
かすかに水音がしはじめた。
その頃になってふと、香蘭の顔に怪訝さが浮かぶ。

「悠里。先ほど胸を触っていた時から気にはなっていたが……最近、相当男と交わったな。
 初めに聞いた苦労話では省略されていたようだが、貴様、複数人に犯されたのではないか?」

その洞察に、悠里の肩が跳ねる。
さらに追求するがごとく、香蘭がその肩を掴む。
すると悠里は、しばし視線を泳がせた後、観念したように頷いた。

「……さすが、誤魔化せないわね。その通りよ。
 ビルギットに追い詰められて、最後の最後、もう逃げようもないから真夜中の埠頭で戦ったの。
 相手は依頼を受けるたびに殺す人数を増やして遊ぶような狂人だし、出来ればやりたくなかったんだけどね。
 何とか倒せはしたけど、私の方だってもう限界で、そのまま海の方へ倒れこんで。
 死にたくなかったからもがいて、何とか岸まで泳ぎ着いたら……運がないわよね、そこって密売組織の本拠地前だったのよ。
 もう失神寸前だった私は奴らに捕まって、それからずっと、ずっと、玩具にされてた。
 途中まで協力して捜査してた地元警察が乗り込んで来なかったら……今頃は、中東でセックスドールにされてた頃かしら」

屈辱に肩を震わせ、絞り出すように告げる悠里。
彼女は以前にも、古武術の道場に捕らえられて辱めを受けた経験がある。
それに似た事がまたとは、何とも不憫な星の下に生まれたものだ。

香蘭は震える悠里を、背後から抱きしめた。そしてその肩を、背を、髪を撫でつける。
「…………辛かったな」
そう囁いた後、先程よりも優しさを込めて悠里の中をくじり回した。
「ん、んん!……ぁはっ……ッあ……」
悠里の口から心地良さそうな声が漏れる。
香蘭の指が襞を撫でるように踊ると、やがてその顔が天を向き、秘部からは透明な飛沫が上がった。
潮吹き、と呼ばれるものだ。

「……お前達、すまんが外してくれ。ここからは、2人だけでしたい」
香蘭が中華娘達に告げた。
中華娘達は、悠里の姿がもう見られなくなる事を惜しみながらも、言われるままにカーテンの外へ出ていく。
それを見届け、香蘭は悠里を押し倒した。



口づけの音が響く。
焚かれた香の薫りに包まれながら、香蘭は悠里に覆い被さる。
慈しむように、愛するように、癒すように。
白く細い指で、悠里の敏感な部分を刺激していく。

それがよほど気持ち良いのだろうか。
悠里は仰向けに身体を投げ出したまま、長い黒髪を毛布の上に広げ、恍惚の表情を浮かべていた。
は、はぁっ……と唇から小さな息遣いが盛れてもいる。
広げられたその内腿には、何度も飛沫を迸らせていると思しき無数の水滴が貼り付き、
脚の震えとともに雫となって流れ落ちてゆく。

ぬちり、と音が立ち、淡いの中で香蘭の指が曲がった。
そのまま臍側へと擦りつけるように指の腹を宛がい、優しく押し込む。
「ひぁ、あ……ま、またイくっ…………!!」
悠里の涼やかな顔が歪められ、後頭部を毛布に擦り付けながら天を仰いだ。
爪の綺麗な足指の先がきゅ、と内へ曲げられた直後、膣内が一分の隙もないほどに香蘭の指を締め付ける。
それに負けじと香蘭が指先で円を描けば、その締め付けがふっと緩み、やがて快感の涙を流すような潮を噴き始める。
「あ、でてる……でちゃ、ってる…………」
悠里はうわ言のように呟いた。
その様は普段の女王然とした姿には程遠いが、香蘭に慈しまれながら抱かれる今は、ひどく自然なものに思える。

香蘭はその悠里の脚を大きく広げさせ、自らも下に穿いていたものを脱ぎ捨てて重なり合う。
すべらかな太腿と、柔な恥じらいの部分が触れ合うように。
「ぁ……」
悠里が声を上げた。香蘭が腰を動かして秘部を擦り合わせると、その声も立て続けに発せられる。
「フッ、フゥッ…………どうだ、感じているか悠里」
自ら動くせいで息を早めながら、香蘭が悠里に問うた。
湿り気を帯びた繁みが擦れ合うたび、興奮で小粒に立ち上がった陰核が刺激される。
柔らかな腿の感触も、包み込むように相手の脚に絡み合う。
「……ええ。気持ちいいわ、香蘭」
悠里は蕩けたような視線で香蘭を見上げた。香蘭の口元が優しく微笑む。

香蘭はそこで銀色の糸を引かせながら腰を離し、部屋の隅にある箱から道具を取り出す。
男根を模した双頭の張り型。
普段あまり使われるものではない。女と女の交わりは、舌と指、そして秘部の触れ合いだけで充分と思うからだ。
しかし今日は、あえてその男への憧れを身に纏う。
悠里を満たすために。しっかりと奥の深くまで愛を伝えるために。

「いくぞ、悠里。」
張り型にオイルを塗りこめながら、香蘭が悠里に覆い被さった。
悠里は少し恥ずかしげに膝を閉じたが、香蘭がその膝へ手を置くと、少しずつ股座を露わにしていく。
桜色をした秘部に、張り型が沈み込んだ。
「うんんっ……!!」
悠里の声がする。
つらそうでもあり、しかし待ち侘びたものが来たという悦びのようでもある、不思議なものだった。
香蘭は悠里の肌に手を置きながら、ゆっくりと、丹念に、その身体の奥を愛していく。
慈しむように。悠里が今までに受けた傷を、ひとつ残らず癒すかのように。
じゅく、じゅくっと結合部から音がする。
充分に愛液で満たされたという証拠の、心地の良さそうな音が。
「香蘭……香蘭っ!!!」
悠里は叫びながら、覆い被さる香蘭の首元に手を回し、その腰へも伸びやかな脚を回す。
ふぅと甘い匂いが香蘭の鼻腔を突いた。
香蘭は膝に力を入れ、いよいよ注意深く悠里の膣の敏感な部分を愛しながら、その綺麗な黒髪を掻き揚げた。
濡れた目線が合う。

「…………おかえり、小悠」
今さらながらに、精一杯の愛情の笑みを浮かべながら、香蘭が囁く。
悠里もそれに笑みを返した。
「…………ただいま、香蘭」
そう息も触れ合うような近さで微笑みあい、やがて本当に口づけを交わしあう。

日々様々な苦難に見舞われる女闘者の、束の間の情愛。
それはいつまでも、いつまでも、暖かに続いていた……。



                              END

The edge ep.11-5

1.

リングの二箇所が轟音と共に踏み抜かれた。
僅か50kgほどの女性が立てたとは思えない音。
その音を後ろへ置き去りにし、2つの影がぶつかり合う。
すでに双方が満身創痍。
顔は血に塗れ、手足は朱紫に染まり、骨も随所が砕けている。
受けに回っては勝ちはない、ゆえに攻めるしかなかった。
ペース配分も、息を吸う事さえも度外視し、残った力の全てを叩き込むだけだ。

「はぁあああッッ!!!!」
悠里が振りかぶっての右拳を叩きつける。
「せぇアああッッ!!!!」
茜も腋を締めた緩みのない突きを放つ。
巻き藁突きで岩をも砕くほどに鍛えられた2つの拳。
それは吸い込まれるようにリング中央でぶつかり合った。
ゴギン、と鈍い音が響く。
しかし女達の顔に変わりはない。
腕を引きながら、喜怒哀楽の入り混じった表情で攻勢を繰り広げる。

「ふっ!ッシ、シイィッ!!」
茜は悠里の懐へ潜り込み、小回りの利く身体を利用して猛烈な連打を仕掛けた。
突き蹴りを上下に打ち分けつつ、顎をかち上げてさらに連打。
肋骨を損傷した腹を、だ。
「ぐあ゛っ……!!!」
負けず嫌いな悠里も、これには顔を顰めざるを得ない。
ドンッ! ドンッ!!
悠里の腹を茜の拳が抉る。小柄な身に似合わず、一発一発が大砲のようだ。
悠里の樹の幹を思わせる腹筋も、その突きをまともに喰らっては堪らない。
じりじりと悠里の身体が後退してゆく。
「……う゛、んごおお゛っっ!!!」
ついに悠里が目を見開き、頬を膨らませた。
観衆の誰もが嘔吐を予期する。
しかし……王者の意地か。悠里は無理矢理にそれを飲み下した。
そして退がり続けてきた足を踏みしめ、やおら茜の道着の襟を掴む。
反撃。
「……らぁあああああッッッ!!!」
悠里は茜の襟を掴んだまま猛然と駆けた。
押し込まれた分を巻き返すように茜を引き摺り、その勢いのまま単純な腕力でもってコーナーポストに叩きつける。
「はぐっ!?」
茜が呻き、コーナーは轟音と共に大きく揺れた。

その力任せな荒業は、もはや格闘ではない。まるで路上の喧嘩殺法だ。
モデル然とした悠里には本来似つかわしくないはずだが、しかし、そこには妙な魅力があった。
「……すごい……すごいよおねーさん!!プロレスでも星になれるよ!!」
莉緒がはしゃぐ。
観客も皆がその豪快な技に目を奪われた。

『お、王者、茜選手を豪快に叩きつけたぁ!!なんと乱雑で、しかしなんと爽快な事か!!
 私達は、今改めて教えられたようです。
 悠里に似合わぬ物などない!およそ戦いである限り、あの女帝は何をやっても似合うと!!』

実況が叫ぶ中で、悠里はコーナーに磔となった茜へ追撃の後ろ蹴りを放つ。
「っ!」
しかし茜は身を捩ってそれを避けた。
コーナーが先ほど以上の轟音で軋み、ロープを震わせる。
一方の茜は、回避と同時に責めに回っていた。
コーナーにめり込む悠里の脚とロープを足がかりに跳び上がり、コーナーポストを蹴っての三角蹴り。
「ぐうっ!」
それは悠里の側頭部に叩き込まれ、彼女を大きくぐらつかせた。
おおおおおっ、という観客の驚きがアリーナを包む。

茜は自分でも驚いていた。あり得ないような動きをしている。
いつか悠里と香蘭との闘いで見た動きを。
自分には絶対に出来ないと思っていた事が、この大舞台で出来ている。
すべては悠里を目指して日々鍛錬を積んだから。
そして今悠里と戦い、自分の限界を超えつつあるからだ。

もっと、もっと知ってみたい。自分の行き着ける先を。



茜はよろめく悠里に再度のラッシュを仕掛ける。
顔面と腹を叩いて上を意識させ、その長い脚を向けてローキックを放つ。
悠里ほどではないにしろ、空手で鍛え鍛えた下段蹴りだ。効かせる自信がある。
しかし、そのローキックは空を切った。
読みか、それとも勘か。悠里は下段を避けるように身体を円転させていた。
そして同時に、茜へ蹴りを放ってもいる。
胴廻し回転蹴り。
そのアクロバティックな技を、悠里はこの段にきて何の躊躇いもなく放つ。
しかし、それが避けられない。
「…………ッ!!!」
声にならない悲鳴と共に、リングに三度轟音が響き渡る。

肩を押さえて蹲る茜と、尻餅をついて頭を押さえる悠里。
しかし2人は休息を選ばなかった。
体力が尽き果てる前に、何としてもここで決める……とばかりに手を休めない。
「茜ええぇッ!!!!」
「悠里いぃッ!!」
互いの名を叫び、服の襟を引っ掴み、膝立ちになっての殴り合い。
それはまさしく女の戦いだ。
アリーナで最高の実力を有する女2人の“女闘”。

「はぁああああっ!!」
悠里の拳が茜の柔らかな頬を抉る。
「せィあああああッ!!!」
茜の拳が悠里の整った顔立ちを歪ませる。
殴って、殴り返し、殴って殴り返し。
バチン、バチンッと肉の弾ける音が響き渡る。
膝立ちから徐々に身を起こしながら、2人の拳の応酬は延々と続く。
汗と血飛沫が舞い、整った美貌が損なわれてゆく。
その中で、しかし観衆達は瞬きをしない。
ただ、ただ圧倒されていた。

「……あいつら……」

一人から、ぽつりと言葉が漏れる。

「…あいつら、なんて……楽しそうなんだ…………!」

茜と悠里。
2人の女神は、殴りあいながら笑っていた。
全力で殴りあう顔がたまたま笑みに見えるのかもしれない。
しかし見る者の瞳には、2人が心の底から歓喜しているように映っていた。


『……“命短し、恋せよ乙女”。古くから伝わるその名言の下で、私達は育ってきました。
 しかし今ここに、新たな真理を見出す事が出来そうです。
 女の闘い。これはもはや、単なるイロモノなどでは断じてない!!
 誰よりも美しく、誰よりも強く、そして誰よりも気高く!
 乙女は今こそ、その刃を研いで闘うべきなのです……この麗しき女神達のように!
 ああ、願わくばこの美しい戦いを、いつまででも見ていたいっ!!!!!!』


実況の言葉に、歓声が沸きあがった。
男からも、そして女からもまた。
ヴェラ、青葉、アルマ、莉緒、早紀、沙里奈、麻耶……リングの2人に関わってきた女達も、それぞれの思惑を胸に頷く。

全ての観衆の叫びに乗り、新たな時代の風が吹きつけていた。




2.

 ( …………ありがとう ございます………… )

茜は掌底を悠里の右頬に叩き込みながら思う。
会心の一打。にもかかわらず、悠里を止めきれない。
掌を押し戻すようにして艶やかな黒髪が迫る。
美しく鍛えられた腹筋が捩れ、パンと張った腿が強張り、そして伸びやかな膝下が飛んで来る。
震え上がるような衝撃と共に、茜はリングの端にまで吹き飛ばされた。

 ( ありがとうございます……先輩。こんな私に、本気になってくれて。
 本当のあなたを、カーペントレスの力を見せてくれて。私は、……幸せです )

茜は立ち上がり、一度よろけながら悠里に向けて旋風脚を繰り出した。
それは悠里の身体を一瞬ぐらつかせたが、倒すには至らない。
悠里の力任せの振りほどきで距離を空けられ、逆に左右の連打を浴びせられる。

『左右左右、左イィーーーッ!!!!ここへきて王者、ボクサーの如き猛ラッシュ!!!!!』

実況の声が遠くで聴こえた。
ロープに詰まったまま、痛烈な突きの雨を顔面に受け、茜の意識は泥に沈む。
これがカーペントレス。
これが化け物と形容される王者。
熱に浮くような意識の中、茜は改めてそれを認識する。
パワーもスピードも豪快さも、何もかもが超一流。
同じ人間とは思えない。雷や竜巻といった天災だと思った方が気が楽だ。
何も世界最強でなければならない理由もない。
この異常な人間一人を避け、生き延びて、他で勝ちを稼ぐべきではないか。
普通の格闘家ならばそう思えただろう。それが茜でなければ。

 ( 私の……命を捧げてもいい。あなたほどの人にとっては、
   ほんのちっぽけな物だろうけど。
   私の武…………歩んできた…道を、どうか…見て……ください  )

すでに視界は暗黒に閉ざされている。平衡感覚も失われている。
その状態で、茜は悠里に向かって飛び掛かった。
死を賭した人間の為せる業か。
それは力強い踏み込みで、それは淀みのない溜めで、それは神速の膝蹴りだった。

「…………!!!」

茜の覚悟を、悠里は本能で感じ取ったのだろう。
油断なく構え、そして一切の情け容赦を捨てて茜を迎え撃つ。
膝蹴りを胸への前蹴りで封じ込め、足を引き、逆の左足でのミドルキック。
茜の体がくの字に曲がる。
その状態で、さらに右フック。返す動きで左上段蹴り。右下段、中段、上段蹴り。
茜の身体を蹴り付ける反動と腰の切りで、目にも止まらぬ円状の連打を叩き込む。
一撃で脚の骨を砕くような蹴りをダースで浴びせる。
死。
場の誰もがその言葉を脳裏に思い浮かべた。
悠里は全てを賭した茜を完膚なきまでに叩き潰すつもりなのだ。
それが『カーペントレス(木こり娘)』が挑戦者に送る、最大級の賛辞なのだから。


 茜。
 ……茜。
 …………茜!!!!


悠里は心中で叫びながら、愛する後輩に全力の蹴りを浴びせ続ける。
戦う前から解っていた事だ。
人を壊すために研ぎ澄まし、磨き上げた肉体を持つ2人は、日本刀と戦斧のようなもの。
そのぶつかる先にあるのは、“斬る”か、“斬られる”かだ。
茜と斬り合うのは本当に楽しかった。
その時間が永遠に続いてほしい。そう切に願いさえした。
しかしそれももう終わる。この、一撃で。

悠里は蹴りの雨を止めた。

『  ・・・・・・・・・・・・っ !!!!!!!  』

最期の瞬間を悟り、実況も観客も、誰もが声を抑えて凝視する。

悠里は脚を揃えて踏みしめた。数多の敵の骨と戦意を断ち切ってきた、戦斧。
必殺のローキックだ。

「これで…………終わりよッッ!!!!!」

最後の一撃をまさに放とうとしたまさにその瞬間、ぞくり、と悠里に悪寒が走る。
茜の、とうに意識が飛んでいるはずの瞳が活きていた。
湖の底を思わせるように静かで、荘厳な瞳。
その瞳で悠里を捉えたまま、茜は突きの動作に入っていた。
腰を落とし、脚を踏みしめ、小指から折り曲げるように固く拳を握り。
彼女が何千……いや何万と繰り返して来たであろう、基礎の基礎、正拳突き。

その動きを察しながらも、すでに蹴りの動作に入りつつあった悠里は止まらない。
止まる気もなかった。
茜の拳と、悠里の蹴り。それら自らの最も信頼する技こそ、決まり手とするに相応しい。
茜と悠里、2人の腰がうねり、迷いのない攻撃が繰り出された。

ドンッ!

リングの上で音が交錯する。
悠里も、茜も、拳足を交えた格好のまま動かない。





「…………が、はあっ…………!!!!!」





やがて、息を吐き出す音がした。
悠里だ。
彼女は茜の脛からその強靭な脚を離し、ゆっくりと後ろ向けに倒れる。
リングに重々しい音が響く。
その腹部には、拳の形に抉られた跡があった。

『………………倒…………した………………!?』

実況が恐る恐るといった風で声を上げる。その直後。

「……ぐほっ、ごぼおッ……!!!!」
悠里は数度噎せ帰り、そして血を噴き上げた。
血にまみれる中、その美しく強靭な身体は痙攣し、それ以上の行動を起こせない。

『…………た、倒したあぁッ!!!
 こ、今度こそ、本当にあのカーペントレスが…………倒れましたっ!!!!!
 皆さん、ご覧下さい!!今この瞬間が、歴史的一瞬!!!!
 あのカーペントレスに一対一で勝った、正真正銘、
 最強王者の  誕生ですッッ!!!!!』

実況も、観客も、声を震わせる。
死闘決着。
カーペントレスを制したのは、空手の最も基本である突きだった。
ただし、練磨に練磨を重ねた正拳突き。
それは研ぎ澄ました刀のように悠里の腹筋を刺し貫き、臓腑を抉り抜いた。
直線を行く突きと、孤を描く蹴り。
そのほんの僅かな差で茜の突きが先手を取り、悠里の蹴りの威力を失わせる。
最後に茜の足を叩いたそれは、“神の斧”が見る影もない軽い一撃だ。

それが茜の勝利を、悠里の敗北を、何よりも雄弁に物語っていた。




「………………せん…………ぱい…………?」

茜は倒れた悠里を見下ろしながら、目が醒めたかのように驚きを表す。
無想の一撃だったのだろう。
そして事態を把握した瞬間、彼女は悠里に駆け寄った。
悠里を抱え起こし、気道を確保する。
「せ、先輩!!大丈夫ですか、先輩っ!!?」
悠里はげほげほと血を吐きながら、茜を見上げた。

「…………ふふっ、あの時とは立場が逆ね」

悠里のその言葉に、茜は一瞬訝しげな顔をし、そして思い出す。
初めてリングで戦った、あの日。
あの時は、ボロボロになった茜を悠里が介抱したのだった。
それを今は、自分が出来ているのだ。
「……っ」
悠里を抱いたまま、茜の拳が思わずガッツポーズを作りかけた。
しかし腕の中の悠里に気付き、それを止める。
悠里が笑った。

「バカね、素直に誇りなさい。…………この私を倒したのよ?」

悠里にそう言われ、茜はふいに顔を顰めた。
不満を表す顔ではない。それは今にも、泣き出しそうな顔。
涙を見られるのを嫌がってか、茜は俯いた。
そして悠里の身体を降ろし、くるりと後ろを向いて肩を震わせる。
その震えは、少しずつ、少しずつ大きくなり、やがて明らかな嗚咽に達した。



「………………ゃ、……ぃやったあああああああああああぁぁぁっっ!!!!!!!!」



茜の叫びが、アリーナに木霊する。
今まで抑えつけて来た全てを解放するような、朗らかな勝どきの声。

拍手が起こった。
茜と、敗者である悠里さえも心から労い、称える万雷の拍手。

「よくやったぞー、茜ーーーっ!!!」
「悠里も、凄かったぞーーー!俺はこれからも、お前のファンだからなーーーー!!!!」
「すげぇ戦いだったぞ、お前らーーー!!!!」

叫びが飛び交う。叫ばずにはおれないという風に、観衆が総立ちになって賞賛を送る。

立って光を浴びる茜を見上げながら、悠里は腹を撫で下ろした。
至高の突きだった。
痛みや重みよりも、胸がすかっとような気持ちが大きい、不思議な一撃。
輝かんばかりの刀身で刺し貫かれたようだ。

おそらくそれは、茜のひたむきな修練の賜物だろう。
迷わずに、ただ純粋な強さだけを求めて走り続けているゆえに放てるもの。
自分にそれが放てるか、と考え、悠里は一人首を振った。
今の自分では無理だ。
今よりもっと戦いを楽しみ、視野を拡げていかなければならない。
女王でなくなったこれからも、自分には限りない未来があるはずだ。

悠里は口の端に笑みを浮かべ、次期女王への歓声に沸くリングを後にする。
その後姿は、敗者とはとても思えぬほどに、誇らしげなものだった。




3.




「ふっ…」
小さく息を吐くと、女は開脚したまま腰を落とす。
長い両脚は抵抗なく真一文字に伸びきる。
合間にひとつの音すら立たない。驚くほどしなやかな筋肉。
幼少時から鍛え、股割りに慣れなければ出来ない動きを顔色ひとつ変えずにこなす。
「はっ!」
気合一閃、伸び上がるように脚を揃えて立つと、体勢を整える事もなくバク宙に繋ぐ。
1度、2度、3度身体を円転させ、片手首を支えに静止する。

その動きに、影から見守る男は息を呑んだ。
それはいつか見た、先代女王の動きと瓜二つであったから。

「……どうしました?私にご用でしたら、遠慮なくどうぞ」

女は床に座し、男のいる方に声を掛ける。
細身ながらに無駄なく鍛えられた身体、何事にも動じることのない瞳。
悠里とは系統が違うが、彼女もまた、王の風格を纏っている。

「……失礼しました。そろそろ、試合の準備を始めて頂けますか」
男はひどく懐かしい想いを抱きながら、次代の女王に声をかける。
「解りました。すぐに準備します」
女は静かに答え、正座から立ち上がった。
そして継接ぎだらけのサンドバックに正対し、構えを取る。

ドッ、ドンッ!!

幾重にも補強されたサンドバッグに重音が響きだす。


女の名は神崎 茜。
アリーナの王者として、数多の強豪を倒し続けている裏格闘技界の女王だ。
彼女はある人物を待っている。
かつてこのアリーナで無敗を誇り、『カーペントレス(木こり娘)』の名で親しまれた王者を。

欧州で裏の大会に出ていた、
北の雪国で知るものぞ知る暗殺者に命を狙われていた、
彼女についてのそうした噂話は山のようにある。
そんな中、茜はいつか来る日のために、想い出のアリーナを護り続けていた。


アリーナの名は 『 The edge 』。
女達が己の刃をもって、最強を目指す場所。




様々な思いを胸に、彼女達の物語は続いてゆく……。





                       ~ THE END ~
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The edge ep.11-4

1.

静まり返った会場の中、息を呑む音だけが聞こえてくる。
あれだけ茜へ向けて降り注がれていた歓声が、悠里のただ一発の蹴りで掻き消えた。
「……これが力だよ、キャシー」
大柄なアメリカ女が、膝に乗せた娘の髪を撫でながら呟いた。
娘の方はリングでの壮絶な戦いに、言葉さえ失くしている。

圧倒的な力、というものを最も身に染みて感じているのは、他ならぬ茜だろう。
どれほど追い込んでも、それを一撃でチャラにしてしまうような破壊力。
理不尽極まりないが、今さらそれを言っても仕方ない。
茜はそれを充分に知った上で、悠里に並ぶことを望んだのだから。

茜は震える脚を叱咤しながら、少しずつ身を起こす。
熱湯のように熱い汗が、首筋から、胸元から、背筋から、体中を流れ落ちてゆく。
ぜっ、ぜっと息も随分と荒い。
焼けるような照明の下、真っ白な世界の向こうで悠里がコーナーに寄り掛かっている。
いつかと同じように。
しかし今度は、唇の端から血を流し、鼻からもやはり血を流し、確実に痛手を負っている。
やったのは茜自身だ。
充足感が茜の心に満ち始めた。あの悠里相手にここまでやれたのだから、と甘える気持ちだ。
だが、茜はそれを一蹴した。
それは逃げだ。脚の痛みに怖気づき、続行を怖がっているに過ぎない。

左足を踏みしめ、右足をその後方に添える。尋常でない痛みがふくらはぎに巡る。
思わず叫び出しそうな痛みだ。
だが悠里がコーナーを出るのを見たとき、茜は知らぬうちに両脚を踏みしめていた。
痛みは勿論ある。だがそれ以上に、「戦いたい」という気持ちが溢れた。
青葉より、アルマより、その他悠里と戦った誰よりも耐え抜き、このリングで初めて悠里に勝るのだ。
その夢が燃えていた。



悠里はコーナーに寄り掛かりながら、倒れた茜を見下ろす。
視界が二重三重にブレている。
パウンドを受け、後頭部を何度も打ちつけたのがまずかったのだろう。
グラウンドでの攻防で腹筋を酷使し、アバラの痛みもさらに増している。
折れた一本に隣接する骨までがヒビ割れだしたかのようだ。
鼻に血が詰まっているせいで呼吸もままならない。
その相乗効果で吐き気まで襲ってくる。
それら全てが、あの弱弱しかった茜からもたらされたダメージなのだ。

茜も強くなったものだ、と悠里は思う。
元より加減するつもりなどありはしないが、これはいよいよ気合を込めて迎え撃たねばなるまい。
悠里はそう覚悟を改め、ゆっくりとコーナーを後にする。
茜を相手に遠慮なく全力を出せるのが、彼女はひどく嬉しかった。
かつてサンドバックを蹴破ったあの日も、本当は茜と全力でやり合いたかったのだ。



客席から、おおっ、と感嘆の声が漏れた。
これまで半身の姿勢を基本としていた茜が、悠里に対して正対する構えを取ったからだ。
騎馬立ちでどっしりと腰を落ち着け、上下に反転したような手刀で正中線を隠す。
岩のような安定感を感じさせる厳かな佇まい。
格闘に疎い者でさえも、その有無を言わせぬ迫力には溜息をついた。

悠里も表情を強張らせる。
茜の静かな瞳から発せられる闘気が脳髄を焦がす。
一般に格闘家が放つ殺気とはまるで違う。それより遥かに純粋で、神々しい氣だ。
『武』というものを、この茜はよく身につけている。

面白い!

悠里はその“静”の茜に対し、“動”を以って対抗する。
きしっ、きしっ、とリングを軋ませて跳ね、身体の脇へ垂らした腕を握って、開いてを繰り返す。
通常、格闘において縦の体重移動はご法度だ。
地に足が着いていない状態では踏ん張りが利かず、容易に体勢を崩されてしまう。
しかし今の悠里を見て、隙があると考える人間はほぼいないだろう。
それほどの凄みがある。
効率であったり理屈であったり、そういったものを考察するのが馬鹿らしく思えてしまうほど、
その躍動的なスタイルは悠里によく似合っていた。

キュッ、という音を立てて、悠里の足裏がマットを蹴る。
そして見守る人間が一度瞬きを終えた時には、もう茜の目前に迫っていた。
驚愕が場を席巻する。
有り得ない速さ。まるで肉食動物が獲物を狙う初速だ。
その速さのまま、悠里は茜に飛び込んだ。
凄まじい速度の追い突き。だが茜は同じく放った突きで衝撃の方向を逸らす。
「はっ!」
弾かれた悠里は、そのまま殴り抜けるように茜の後ろに回り、振り返る勢いで裏拳を叩き込んだ。
茜は素早く向き直り、裏拳をスナップを利かせた鶴頭受けで弾き飛ばす。
悠里の腋が大きく開く。
茜がそこに掌底を叩き込むのと、悠里が死角からの膝を放ったのは同時だった。
打撃がぶつかり合う。
茜は掌底を出す右腕に左手を添え、かろうじて勢いを受け流しながらも後方に弾け飛ぶ。

岩のような安定感を持つ茜を、それでも力押しで弾き飛ばす悠里の強さ。
その人間離れした猛撃を、しかし上手く受け流し、いなす茜の技量。
どちらも尋常ではない。

『……な、何という動きでしょう、竜巻のように襲い掛かる正規王者、それを捌く暫定王者!
 まるで早回しにした曲芸を見ているようです。
 最高に噛み合った2人、互いが互いを刺激し合い、止め処なくギアを上げ続けている!!』

実況のコメントは場の驚きを代弁するものだった。
疾風怒濤の攻防に、黒山の観衆たちは瞬きも出来ずに目を凝らす。



「ゆ、悠里ってやっぱすげぇわ……!俺なら一生鍛えても、あんな動きできそうもねぇ」
「ああ。けど、それについてってる茜も相当だよな。地味だ、ってんで注目してなかったけどよ」
場の賞賛の声は二分されている。
その片方を浴びながら、しかし茜は、身を切り裂かれるような感覚の中にいた。

痛めた右足から、踏み堪えるたびに気の狂いそうな痛みが迸る。
腕もそうだ。スピードとパワーを研ぎ澄ました悠里の打撃は、上手く受けてもダメージが蓄積する。
そして決定的な差がスタミナだ。
悠里は攻撃の手を緩めない。
鼻が血で詰まり、呼吸を遮られている筈なのに、茜と同じく動き続けているのに、まるで動きに淀みがない。
無尽蔵の体力。そんな絶望的な言葉が茜の脳裏をよぎる。

 (これが……先輩の、本当の強さ……すぐに倒された前の時は、覗けもしなかった領域……!!)

マラソンで離される時のように、圧倒的な実力差を思い知る。
その差が百倍にも千倍にも感じられ、惨めな気持ちが心にぶら下がる。
手が、足が重い。肺が息苦しさに軋む。
インターバルが、休憩が欲しい。
水を飲みたい。
そのような感情のピースを脳内に弾けさせながら、茜は必死に暴虐の斧を凌ぎ続けた。
だが、少しずつ、少しずつその牙城を崩されていく。

試合開始から31分46秒。

ついに捌きがぶち破られ、悠里のミドルキックが茜の腹筋に叩き込まれた。
「うごがぇお゛ッッ!!!!?」
茜は唾を吐き散らし、後ろ向けに倒れこむ。そして妙な咳き込みを繰り返した。
「グっ、…げぶ……う、うう゛んっ!……んォ゛ぼッ!!」
口をすぐに押さえるが、もう一度噎せた際に胃液が指の間から垂れ落ちる。
と、目の前に影が映った。
踵落としだ。
それは転がるようにして何とかかわすが、中腰の姿勢になった所で追撃のアッパーに捕まる。
さらに腹を抉られた。
「んんごおぁあ゛あ゛お!!!!!」
茜ももう堪らない。防御を完全に解き、夢中で腹を抱える。
血がリングに滴った。
皮膚が切れた、などというものではない。臓腑を損傷したゆえの深刻な吐血だ。

揺れる視界の中、駄目押しのフックが頬に叩き込まれる。
ごぎん、と音を立てる頬の骨。
茜はそのまま、投げ捨てられるように頭からマットに倒れ込んだ。


『く、崩れ落ちた!?茜選手、ついに!王者の連打に捕まってしまったッ!!』

会場にどよめきが起こった。
2つに割れていた歓声が、一度凍りつき、氷解の後に一つの方へ集束する。
「つ、強ええぇ……!やっぱ、やっぱ悠里が一番とんでもねぇよ!!!!」
「あぁ、ああ!茜も血ィ吐くまでよくやったけどよ!!」
悠里賛美の一色。
悠里のカリスマじみた強さは、何百人という人間の意見を無理矢理に自らの側へ引き摺り込んだのだ。
そのカリスマが倒れた茜の上で拳を突き上げると、会場が沸き上がる。
「おおおおおお、悠里ぃいいいい!!!!!」
「こっち向いてくれ、女王!!!!」
悠里の名を喉の奥から叫ぶ声。女王の肢体を眺める潤んだような視線。
それは洗脳とすら言って良いものだった。

だがその中で、茜の手がピクリと動く。リングを掴むように。
「…………ッ!」
それを真っ先に瞳で捉えたのは、ある意味で当然というべきなのか、悠里だった。



2.


悠里! 悠里! 悠里!

アリーナの天井がその歓声で埋め尽くされている。
当然だ、と茜は思った。
悠里は花形に相応しい。美しく、品があり、豪快でワクワクするような戦いを繰り広げる。
茜の価値観をがらりと変えたのも、他ならぬ悠里の戦いだ。
その悠里が人気を博す事に疑問はない。
自分など所詮、その華を引き立てる為の雑草に過ぎないのかもしれない。
それでも茜は身を起こす。燻る煙のように頼りない様で。

「お、おい、やめろ茜!お前もうマジやべえって!!!」
「病院行けよ、血ィ吐いてんだぞ!?」
悠里への声援の中、茜へ声が投げかけられる。
もっともだ。
勝ちの目が薄い事ぐらい、茜が一番身に染みて解っている。
疲労で視界はもうドロドロだ。
腕にも脚にも痺れが走り、口からは吐瀉物と血の入り混じった泡を吐き溢している。
エネルギーさえ、天日に干された雑巾のように枯れ果ててつつあった。

だが、まだ動ける。

「うううぅ……うあああぁぁぁああああ゛あ゛あ゛!!!!!!!」
俯いた茜の口から叫びが上がった。
自らを鼓舞する為であろうそれは、場に響く悠里へのコールを途絶えさせる。
うつ伏せから、正座に。正座から、片膝を立て。片膝から、直立へ。
悠里はそれを威風堂々と待ち受ける。

茜が構えた瞬間、悠里はこれで終わりだとばかりに豪快な後ろ回し蹴りを浴びせた。
腰を切って戦斧を叩きつけるような蹴り。
茜は、それを避け……なかった。それどころか、腕を十字に固めて暴風圏に飛び込む。
蹴りはその小さな肩に炸裂した。
「ん゛!」
茜の顔が歪み、痩身は大きく右に揺らぐ。
だがその足先は攻撃に向かっていた。
蹴りで身体が一転する勢いを利用し、逆に里の首筋へ左足を叩き込んだのだ。
「く、うッ!?」
悠里は素早く腕を割り込ませたが、己の蹴りの威力を流用したカウンターを殺しきれない。
「ぎいっ!!」
今度は悠里の身体が大きく傾ぐ番だった。

『カ……カウンター!』

実況席から驚きの声が上がる。しかし、まだ終わりではなかった。
茜は左の蹴りを引きつけ、伸び上がりながらさらに逆の脚を振り上げる。
悠里のローキックで破壊された右足を、だ。
茜はあえてその痛みの中心を叩き込む。
痛みという現実を以って、立ちはだかる幻想の壁を打ち破るかのように。
「破アァぁああ゛ッッ!!!!」
茜は歯を食いしばって膝を持ち上げ、膝下を引きつけ、そして、力の限り打ち込んだ。

音が響く。
研ぎ澄ました刀で空を一閃したような、淀みのない風切り音。

右足は、悠里のこめかみを蹴り抜いていた。
相手の強烈な蹴りを利用して左の蹴りを叩き込み、それすらをさらに利用しての右ハイキック。
折れた右足での根性の一閃。
「あ゛……!!!」
悠里の身体が大きくよろめく。
だが倒れない。目元を押さえたまま、歯を食いしばって直立を保っている。
何というしぶとさだ。会場が息を呑んだ。
しかし茜だけは静止しない。
まるであらかじめそれが解っていたかのように、歯を食い縛りながら脚を踏みしめ、身体の前に腕で円を描く。
「……シッ!!!」
鋭い息が吐かれ、悠里の身体にとどめの追撃が放たれた。

ドッ、ドドン。

臍、水月、喉。人体の急所が並ぶ正中線を、目にも止まらぬ三槍の突きが貫く。
「……か、ふゅ……っ!」
急所を抉られ喉を潰された悠里は、とうとうその強靭な脚を折って横ざまに倒れこんだ。
リングが揺れる。
その中で茜も膝を突く。瞳からボロボロと痛みの涙を零して。
情けない姿だが、その涙を笑う者はいない。
右足の負傷を抱えながら、ただ根性だけで悠里を倒しきった茜。
倒れたまま動かない悠里。

「…………か、勝った……のか……!?」
「ウソ……だろ。…………ゆ、悠里が……?」
急転した死合模様に、ただ驚愕だけが波紋となって広がった。





涙で霞む視界に、白いライトが万華鏡のようにちらつく。観客のざわめきが聴こえる。
意識の遥か上方で。
ダウンしたのか……悠里はそう理解した。
茜の静を、動をもって叩き潰そうとした結果がこれだ。
押しの力には自信があった。ピンチは幾度も訪れたが、その度に力でねじ伏せてきた。
それがさらに押し切られるというのか。練磨に練磨を重ねた、茜の技に。
口惜しい。
だが、悠里は納得もする。
もしも自分を打ち倒すものがあるとすれば、それは純粋な努力の結晶だ。
茜のようなひたむきな武こそが、超常のものを倒すに相応しい。
悠里は心のどこかで常にそう思っていた。

あるいは、茜を初めて見た時に抱いた衝撃は、いつの日か自分を倒してくれる事を期待してのものであったのかもしれない。
白人少女を殺めて以来、長らく悠里の中に棲み続けてきた化け物、『カーペントレス』を。
……ならば今度ぐらい、あの可愛い後輩に甘えてみよう。木こり娘の全てをもって。

悠里が立ち上がる。
油断なく身構えた茜は、その敬愛する女性の目を見て息を呑んだ。
静かな瞳。
いつものギラついた眼ではもはやない。
獣が獲物を仕留める際に見せる、吸い込まれるほどに静かな瞳だ。

「ユーリ……とうとう、最後にするんだね?」
大柄な女ボクサーが表情を強張らせる。
「カーペン…トレス……!!」
令嬢然とした柔道家が顔を顰める。
「ついに、クライマックスですわ」
褐色肌のタイ女が笑う。
「…………!」
可憐なプロレスラーが、珍しく真顔になって身を乗り出す。



無数の視線が見守るリングで、茜は微かに身を震わせていた。
悠里への恐怖心が“消えた”のだ。
その事が逆に、最大の恐怖となって茜を襲う。
恐怖心があればこそ、相手の行動で起こる最悪の結果が思い浮かんだ。
その勘を元に行動を選べた。
だがそんな恐怖心さえ感じられなくなるほどに、今の悠里のプレッシャーは凄まじい。
ある意味、茜の最大の強みだったものが殺された形だ。

もはや頭は役に立たない。
茜はこの強大な女王を、今度こそ純粋にその拳足のみでもって迎え撃たねばならない。
それに震えが止まらなかった。
鍛え抜いてきたはずの己の身体が、幼子のように頼りなく思える。

その茜に悠里がゆっくりと歩み寄った。
硬直する茜へ、拳が突き出される。腕一つぶん離れた場所に。
「え……?」
茜は当惑する。
攻撃ではない。これは……手を合わせろと、そう言っているのだ。
茜は悠里の顔を仰いだ。
無機質にも思える瞳が茜を見据えている。
しかし、その奥にいるのはやはり悠里だ。悠里は悠里のまま、最後の戦いを挑んできたのだ。
その腰には黒い帯が結ばれている。
長らく茜の修練を見守り、その努力の汗を吸ってきた黒帯が。


 ( ……そうか…… この人、私なんだ )


茜は気がついた。
悠里は茜にとっての強さの象徴。
憧れ、目指しながらも、超える事など出来ないと心のどこかで諦めていたものだ。
その弱い自分を乗り越える。
それこそが、茜が武道を始めた本当のきっかけではなかったか。

そう思い至った時、茜の震えは止まっていた。
観衆のざわめきさえ聴こえなくなる。
もはや何を案ずる事もない。ただ、全てをぶつけるだけだ。


茜と悠里、そして見守る観衆の誰もが理解していた。
この全てを捧げたぶつかり合い、それで2人の戦いは終わりを告げると……。

The edge ep.11-3

1.

肋骨が折れた。それを悠里ははっきりと認識しただろう。
肘という小さな部位で狙い打たれたため、折れたのは恐らく中ほどの1本のみ。
しかし、それでも充分に痛むはずだ。
悠里のステップを刻む速さが緩まった。
その場に留まったまま、細かに重心を入れ替えるのに終始しはじめる。

「おいおい、姐さん足が止まっちまったぞ!?あの肘打ちがンなに効いたのかよ?」
金メッシュの少女・早紀が指を噛んだ。
彼女は茜の友人でもあり、悠里を敬愛してもいる。ゆえにその心情は複雑だろう。
その早紀の後方から、また別の声がした。
「効いてるから止まったんじゃないよ」
早紀が振り向くと、いかにも生意気そうな制服姿の少女が目に映る。
かつて悠里と戦ったその柔道家・青葉は、どこか忌々しげに悠里を観察していた。
確かにリングへ目を向ければ、茜は責めあぐねている。
悠里の足が鈍り、明らかな攻め時と見えるのにだ。

『これはどうした事でしょう。リング中央、両者睨み合いの膠着状態に陥りました!』
実況が煽る。
観客からも攻めろ攻めろ、というコールが起きる。
しかし、茜は悠里よりはやや大きな動きでステップを刻みながら、慎重に観察を続けていた。
悠里は確かに止まっている。
だがそのプレッシャーは、前に突き進んでくるのと同等以上の物だった。

悠里はカウンターを狙っているのだ。
常に前へ前へで蹂躙する彼女には珍しい事ではあるものの、極めて危険な状態。
弱ったと判断して不用意に突っ込めば、致命的な反撃を食らう。
ロー、ミドル、ハイ。どのキックを喰らっても致命打になりうる。
キックだけではない。パンチも決して侮れない。
かつては空手で全国を制した女なのだ。
その突きの練度は、空手道に邁進してきた茜でさえ寒気を覚えるレベルにある。

動きを止めた悠里は、無数の砲門をこちらに向ける要塞に等しい。
攻め時、などというのは、しょせん安穏としたリング外の考えでしかない。
ここは策に乗らず、同じく待ちで粘るのが賢い戦法だろう。
しかし、それでもあえて茜は攻撃に移る。
『来い』と悠里が言っているのだ。
ならばそれに応えねばならない。茜もまた、退く事を知らない空手家なのだから。



茜が前重心に溜めたのを見て、悠里は目を細める。
茜は前に溜めた反動で後ろ足を蹴りだし、拳を最短距離で弾き出す。
飛び込むようなジャブ、いや刻み突きだ。
常人ではとても反応しきれない速度だが、悠里はそれに前蹴りを合わせる。
「あ゛っ!!」
茜が噎せ込んで後退した時には、すでに悠里は二撃目の廻し蹴りを放っていた。
スパァンッ、という音がリングから遠く離れた場所にまで届く。
『す、すごい音だ!!何という強烈な廻し蹴りでしょう!!!』
音を聞き、実況が興奮気味に叫ぶ。

廻し蹴りは茜の内腿に入っていた。
茜は堪えようとたたらを踏むが、その場で錐揉みするように倒れこんでしまう。
「ん、、うううう゛……ッ!!!!!」
茜は歯を喰いしばって悲鳴を抑えた。
蹴られた左脚が痙攣を始めている。道着を捲れば、内腿は真っ赤に腫れあがっているだろう。
蹴りの一発が交通事故のような衝撃。
これが悠里、これがカーペントレス(木こり娘)の蹴りだ。

しかし、その蹴りを放った悠里もまた、脇腹を抑えて崩れ落ちた。
廻し蹴りには二通りの蹴り方がある。腹筋を使って蹴る方法と、背筋を使って蹴る方法だ。
腹筋を使えばスタミナを消耗するが、その分威力が増す。
悠里は常に腹筋を使って蹴りを放っていた。
蹴りの威力が絶大である分、腹筋に与える負荷も大きい。
肋骨を損傷した状態では、立っているのが困難になるのも当然だ。
「はぁ、はぁあっ……!」
悠里はこめかみから汗を流し、片膝を立てて苦悶する。
桜色の唇が開いて喘ぐ姿に、客席前列から喉の鳴る音がした。

『速攻を仕掛けた方、それを切って落とした方、双方が蹲って動けないッ!
 立つ者の居ない様が、この試合の壮絶さを物語っております!』

実況の声が木霊する。
その中で、悠里と茜はゆっくりと身を起こし始めていた。
見守る観衆は驚愕しながらも理解している。
どちらもここで力尽きるほどヤワではない。
これはまだ、序章に過ぎないのだ……と。



2.

悠里と茜、立ち上がった2人は飛び掛かるように走り出した。
地を滑るようなその動きの前に、リングは余りに小さすぎ、観衆のほとんどはその動きを見切れなかったことだろう。
打ち倒す、その意思がそうさせたのか、2人は互いの制空圏をあっさりと踏み破る。
肩をぶつけるような至近距離での撃ち合いだ。

先に届いたのは悠里のショートアッパー。
風を切るそれを茜は薄紙一枚ほどの間近でかわし、ぐんと腰を切って鉤突きを放つ。
悠里はそれをアッパーを戻す勢いで打ち落とし、茜の額に自らの前頭を打ちつける。
ゴグッ、と鈍い音が響いた。
頭突き。大抵の格闘技において禁止されるその危険な技も、“何でもあり”のこの場所では有用な攻撃として認められる。
ただし今放たれた頭突きは、単に威力を求めただけのものではないようだ。
額をギリギリと擦り合わせたまま、悠里と茜が視線を交わす。
睨み合う、とは違う。
かといって見つめ合うといった生易しいものでもない。
互いを愛するがゆえ、大切に思うがゆえに総力を上げて勝ちをもぎ取る。
そう瞳で宣言しているかのようだった。

額が汗を散らせて離され、再び至近での打ち合いが始まる。
目にも止まらぬ手技の応酬、それに伴って摺り足の分だけ僅かに距離が開いていく。
そして、悠里は伝家の宝刀を抜いた。
ローキック。基本中の基本でありながら、他のそれとは一線を画す必殺の蹴り。
だが茜は悠里の内腿を蹴り上げ、それを出始めで食い止める。
多大な運動量が殺された事を物語るように、2人の体がガグンと揺れた。

茜は悠里の内腿を蹴り上げたまま、さらにその脚を振り上げる。
脚を絡めるようにされ、悠里も片足を振り上げて大股を開く格好となる。
茜は一本足で悠里の身体を押し始めた。
テイクダウンを狙っているのだ。
だが悠里の足腰の強さ、バランス感覚の高さは尋常ではない。
押されながらも片足で跳ねながら堪え続ける。
本来なら、そのまま耐え切って逆に相手を投げ捨てる事が出来ただろう。
肋骨の損傷という弱点さえ無ければ。
「く、は……ッ!!」
堪えるうちに腹筋が悲鳴を上げ続け、ついに悠里は息を吐き出した。
脱力した悠里を茜が押し倒す。

マットが揺れ、ついに悠里が下になる形でテイクダウンを取られた。
会場に歓声が沸き起こる。
悠里は驚きに目を見開いたが、すぐに脚で茜の腰を挟み込んでクローズドガードの形を取る。
マウントだけは阻止した形だ。
しかしながら、寝技の使えない悠里にとって、グラウンドで下になる状況は圧倒的な不利だ。

『ご、ご覧下さい!あの王者が押し倒され、上に覆い被さられています。
 これはツラい!空手で鍛え上げた挑戦者の拳、パウンドの嵐が降り注ぐのか!?』

その実況が終わりかけた刹那、茜は悠里の顔へ向けて容赦のない正拳を振り下ろす。
悠里はそれを打ち払うが、その顔には微かな焦りが見て取れた。



茜が一撃パウンドを打つと、それだけで煩いほどの歓声が沸き起こった。
悠里を倒しうるかもしれない、という期待が高まっているのだ。
悠里がグラウンドで下になり、パウンドを受けるという状況が滅多にない事も理由の一つだろう。

悠里は徹底してグラウンドを避ける。
持ち前の目の良さでタックルは完璧に切り、腰が強い上にバランス感覚も卓越しているため、組まれても引き込まれてもまず倒されない。
逆に、倒そうとする相手の隙を狙って膝蹴りやハイキックで仕留めるのが必勝パターンの一つですらある。
生粋のストライカーである悠里が総合のリングで絶対王者たりえるのは、スタンドにしか付き合わないゆえだ。
ゆえに悠里はパウンドを受けた経験が少ない。
逆に茜には、泥仕合の末にパウンドを仕掛けた経験は山のようにあった。
上から殴る技術には長けている。

茜は悠里の両足に腰を挟まれながら、覆い被さるように悠里を見下ろす。
悠里は気の強い瞳で茜を睨み上げていた。
年上であり、高校での上級生であり、実力も数段上。
そう思っていたにも拘らず、攻防を支配される状況にあるのは耐え難い屈辱だろう。
だが全てはアクシデントではなく、正統な殴り合いの末でのことだ。
ゆえに悠里は、割れるような歓声に包まれながら、惨めな現状を受け入れる他なかった。

茜はテンプルへのフックと顔面への正拳突きを中心に、巧みにパンチを打ち分ける。
悠里はそれを片手で打ち払いながら、果敢にも茜へアッパーを放った。
しかし下から威力のある攻撃など出来るはずもなく、茜に首を反らせてかわされた挙句、痛烈なカウンターを貰ってしまう。
ズドンッとマットが揺らし、茜の突きがまともに悠里の顔面を打ちぬく。
「んがァっ……!!!!」
悠里の瞳孔が開き、容の良い鼻から血が噴きだした。
歓声が沸き起こる。
茜は心中つらいのだろう、その歓声に眉を顰めながらも、ここを決め時とばかりにさらに左右の連打を打ち込んでゆく。
悠里は腕で顔を覆う形でそれを防ぐ。するとその右の手首を、茜の左手が鷲掴みにした。
悠里がぎょっとした表情になる。

「……ごめんなさい先輩。私、勝ちに行きます」
左手を軋むほどに握りしめながら、茜はさらに悠里の顔に鉄槌を打ち下ろしはじめた。
それは鈍い音を発しながら、先ほどより遥かに高い命中率で悠里の顔に叩き込まれてゆく。
ある程度強固なガードができる両手に比べ、腕一本でのガードは極めて難しい。
適当にでも打ち下ろせば、少なからぬ数が通ってしまう程に。
しかも悠里の空いている手は、利き手ではない左手だ。
茜自身は利き手で存分に殴り続けられる一方、悠里は左手だけでそれを防がなければならない。
いくら悠里の目が良いとはいえ、それは到底無理な話だった。



ゴツッ、ゴツッという音を響かせ、無慈悲なパウンドは繰り返された。
瞬く間に悠里の鼻は潰れ、美しい顔が鮮血に染まる。
以前は悠里の頬に薄い切り傷をつけるのが精一杯だった茜が、今回は血みどろに変えている。
諸行無常、という言葉が想起される場面だ。
まともな試合ならばとうにTKOが宣告されているところだが、ここにレフェリーは存在しない。
どちらかが気を失うか、赦しを乞うか、あるいは死ぬまで終わらない世界だ。

その中で、悠里は血みどろになりながら、しかし強かに抗っていた。
左手は茜の振り下ろす拳を弾きながら、顎を強固に護っている。
顎を打ち抜かれて失神すれば、その時点で負けが成立するからだ。
また顔にパンチを受ける際にも、隙あらば額に喰らって相手の拳を粉砕しようと目論見る。
おかげで茜は、絶対優勢な体勢でいながらも、慎重な責めを余儀なくさせられていた。

ただ、そうはいっても差は出てくる。
殴られ続け、何度も後頭部をリングに打ち付ける中で、悠里は目に見えて動きを鈍らせていった。
左手が力なく宙を彷徨い、茜の肩に回される。
今にも決着がつきそうだ。
しかし、茜がトドメを刺すべく拳を振り上げた瞬間、静かなる獅子は突如動いた。
目を見開き、目にも止まらぬ速さで茜の後頭部を打ち据えたのだ。
「がっ!!?」
茜の身体がぐらりと揺らぐ。
ラビットパンチ。後頭部を打つ、こちらもスポーツ格闘技において固く禁じられる技。
背後という意識の向かない所からの打撃ゆえに、その威力は絶大だ。

茜が身体を泳がせた瞬間、悠里はその下半身の力でもって茜の痩身を跳ね除ける。
そしてロープを掴んで立ち上がると、返礼だとばかりに茜の脚を蹴り付けた。
身体を目にも止まらぬ速さで回転させ、体重に遠心力を掛け合わせて放つ必殺のローキック。
それは起き上がろうと踏ん張る茜の足に直撃する。

「ふっ……!?……う、うっぎゃいああああああ゛あ゛ッッッ!!!!」

叫びが上がった。
その甲高い叫びは、ある意味で観衆の誰もが覚悟していたもの。
悠里に足をへし折られた数多の女性が、リング上で発してきたものだ。
それはまさに斧で切断されるがごとく。
「くっ!……くぅ、あああ……ぁぁああ゛っっ……ッぁ゛……!!!!!」
茜は蹴られた右脚に振り回される形でリングを転がり、膝を抱えながら嗚咽した。
辛い辛い修練に耐え忍ぶ空手家を無条件に泣かせるほど、その痛みは凄絶なのだ。
歓声に沸いた客席がしんと静まり返る。

“カーペントレス(木こり娘)”。

畏怖を込めてつけられたその2つ名を、場の皆が再び思い起こした事だろう。

血飛沫に彩られたリングの端、悠里はコーナーに寄りかかった。
パウンドで殴り続けられたダメージか、さすがに追撃に行く事はできないらしい。
だが茜も足を押さえたまま動けない。
両者共倒れという光景は二度目だが、しかし先刻とは違う。
悠里の顔は血にまみれ、そして今、茜の右脚は見事に粉砕されたに違いない。
五分と五分。
互いに欠陥を増やしながら、しかし戦いのステージはまた一つ上に昇る。
両者の瞳はまだ、燦爛と輝いたままなのだから。

The edge ep.11-2

1.

悠里は半身のまま腕を自然に垂らしていた。
リラックスしているように見えるが、放たれる重圧は並ではない。
獅子と向かい合っているようだ。
射程範囲に入った瞬間、首がもぎ取られそうな緊迫感がある。
ああこの感覚だ、と茜は懐かしく思った。
しかし昔を懐かしむだけでは、同じように惨敗を喫するだけだ。

茜は半月立ちの構えから膝を柔らかく使い、素早くステップインして距離を詰める。
そして鋭い蹴り足と共に突きを放った。
初手から相手を倒しに行く突きだ。
一打目は軽くかわされるが、茜は動きを止めない。
左、右、左。一打ごとに震脚でリングを踏み鳴らしながら悠里を追い、その顔面へ向けて突きを放つ。
『こ、これは速い!流石は全国レベルの空手家、突きが視認出来ません!!』
実況が叫びを上げた。客席からも驚きの声がする。
突きを放っている事は動きで判るが、引きが早すぎてどう突いているのかが解らない。そういった状況だろう。

しかし悠里はそれを全て見切っている。
ヘッドスリップで突きをかわしながら、キュ、キュッと軽快な足捌きで後退してゆく。
だがある時、ざすっと音がしてその身体はロープに詰まった。
悠里の身体がトップロープに大きくめり込む。
「今だっ、いけぇ茜!!」
客席から声が上がった。
しかし茜は、妙な危機感を覚えて身体を引く。
その直後、コンマ数秒前まで茜の鼻があった場所を悠里の膝が刺し貫いた。
跳び膝蹴り。
悠里は誤ってロープに詰まったのではない。
ロープを故意にしならせ、弾かれる勢いで膝を放ったのだ。
もしも茜の判断が瞬きの間ほど遅れていたら、顔面に膝を叩き込まれて昏倒していただろう。

茜はその事実にぞっとしながらも、息を乱さぬままに悠里との距離を計り直す。
落ち着いていた。
攻撃こそまだ当てていないが、終始ペースを握られていた前回とは違う。
あの敗戦以来、悠里の動きを何千回と脳内でリピートしてきた。
突きを回避する時の動き、ステップの刻み方のリズム、それらを解る限りで記憶した。
だから多少は冷静にやり合える。

とはいえ、悠里は奔放な戦い方をする格闘家だ。
状況に合わせ、相手に合わせ、様々な立ち技格闘技から抽出した技法と、驚異的な身体能力をフルに使って対処する。
ゆえに最も対策が立てづらく、絶対に勝てるなどとは誰にも言えないであろう王者だ。
茜はその高く分厚い壁を越えようとしている。
勝算などない。いつにも増して“必死”に足掻くしかない。
もとより自分にはそれしかないのだ。
茜は膝を曲げ、拳を握って悠里を睨みつけた。


「あの方、今の膝蹴りをよく避けられましたね……」
試合を観戦する紗江が驚きの声を上げた。
それほどに悠里の跳び膝蹴りは素早かったのだ。
さらに、茜が突きを放った打ち終わりを狙う形でもある。
自分に置き換えて考えれば、まず直撃を喰らっただろう、と紗江は思った。

「勘が良いのだろう。加えて、殴られている最中でも相手から目を離さないほどの度胸がある。
 私の変幻自在な形意拳も、ことごとく打ち落としおったからな」
香蘭が言うと、楓が面白そうに目を開く。
「へぇ……龍が暴れて噛み付いてくるような、あの攻撃を凌いだん?
 小さい見た目に反して、中々やるやないの」
楓の言葉に香蘭が頷いた。
すると、今度は莉緒が口を開く。
「……でも、不利には変わんないよ。蹴りが得意なおねーさんにリーチでも負けてると、
 近づくだけで大変だもん」
かつて悠里と打ち合った莉緒の言葉には、説得力があった。

そもそも、悠里のローキックは一発で相手の脚をへし折るほどの威力がある。
直立する人間は下段の攻撃に反応しづらい。
特にモーションが小さく、標的との距離も近いローキックは、
世界最高レベルの人間であっても喰らって当然で試合を進める。
そのローキックが必殺の威力を誇るのだから、何とも反則的な話だ。

だが悠里を下すには、その理不尽を乗り越えて優位を築かなければならない。
茜が選んだのはそういう道だ。



2.

「はっ!せいッ!はあァッ!!」
膝蹴りで距離が空いた後、今度は悠里が仕掛けていた。
すらりと長い脚を使って茜を責め立てる。
横蹴りで腹を狙い、それが防がれると素早く引いて逆の足を高く振り上げる。
上段蹴りだ。
「…………っ!」
茜は腕で顔面を覆いつつ、悠里の膝を見上げた。
自分の肩の辺りで畳まれた膝上が、弾かれるように勢いよく襲ってくる。
ドフッ、と鈍い音が響き、茜のガードは容易く弾き飛ばされた。
肩の外れそうな衝撃だ。
「あ゛う!!」
腕を投げ出す形でよろめく茜に、さらに悠里が迫る。
茜は咄嗟に腕を戻して胸を覆った。
そこへ悠里の前蹴りが襲う。
「お゛ごぁはっ……!!!」
茜は目を見開きながら吹き飛ばされた。
背中からマットに叩きつけられ、跳ねるように横転する。

『……恐ろしい蹴りの威力、茜選手の防御がまるでその意味を為さない!!』
実況が驚きの声を上げた。

「ごほっ、コほっ……!!」
片肘をついて咳き込む茜は、前方から襲い来る悠里に気付いて横に転がる。
そのすぐ横で悠里の踏み付けがリングを揺らした。
見上げる茜と見下ろす悠里、一瞬その視線が交わる。
悠里は獣のような目をしていた。格闘家の眼だ。
彼女も茜の事を憎からず思っている筈だが、リングに上がった以上容赦はしない。
 ――どうしたの、やり返してみせなさい。
ギラつく瞳はそう言っているように見えた。
「…………ッ!!!!」
ぎり、と茜はリングに爪を立てる。
不甲斐ない。相手にとっても、自分にとっても。


茜は腹這いの姿勢から腕立てをするように上体を起こし、そこからバク宙の要領で立ち上がった。
おおっ、と客席から感嘆の声が上がる。
「ふっ!!」
悠里だけは瞳を変えないまま、茜に向かって走りこむ。
茜は小さく息を吸ってそれを迎えた。
ばちんっと肉同士がぶつかる音と共に、2つの膝蹴りが交錯する。
結果、体格と筋力に勝る悠里が押し勝ち、茜は身体一つ分吹き飛ばされた。

跳ね飛ばされ姿勢の安定しない茜に、さらに悠里が仕掛ける。
テンプル狙いの右フック。しかしそれは茜のダッキングで風を切った。
フックの打ち終わり、がら空きの悠里の脇腹。
それを見た瞬間、茜の脳裏に電流のような閃きが走った。
打倒悠里の為に研ぎ澄ましてきた“槍”。
打ち込んだ肘を、掌底でさらに打ち込むあの殺し技をここに叩き込めば、
あの悠里をぐらつかせる事が出来るのではないか。

  …… ここだ 。

茜の脳が狙いを定める。そして意志の力で、無理矢理に攻撃姿勢を作り上げた。
「ううう……ぁああああ!」
身を沈めた状態から起き上がる力を利用し、足腰のバネを存分に活かして、
フックの死角となる悠里の脇腹へ肘打ちを叩き込む。
ドン、という手ごたえ。
「がはっ……!!?」
悠里の目が見開かれる。茜の肘は、間違いなくその脇腹に突き刺さっているのだ。
まだだ。
茜はその千載一遇の機を逃さない。
右の肘打ちを叩き込んだまま、その腰の切りを利用し、左の掌底を釘と化した右腕に叩き込む。
べぎん、と音がし、肘がさらに奥へめり込んだ。
悠里のアバラが折れたのだ。

「ふぐ……っ!?……う、あ゛、ぁぁぁああ゛あ゛!!!!!!」
悠里は身体をくの字に折って倒れ込み、腹を押さえて悶絶する。
会場が静まり返った。状況を把握しきれていないのだろう。
しかし数秒の後、大歓声が沸き起こる。


『た、倒れたーー!!あの絶対女王が、小さな空手家の隙を突いた連撃に悶絶!!
 苦しげな表情からして、肋骨を損傷したのでしょうか!?
 これは解らない。早くも大番狂わせの匂いがして参りました!!!』

実況が驚きの声を上げる。
興奮に満ちた歓声がアリーナを包む。
その中で、香蘭が頷いた。
「……見事な判断だ。あれを脇腹に叩き込まれては、さしもの悠里でも堪らんだろう」
胸元の傷を撫でてそう呟く。
事情が解っているのは彼女ぐらいのもので、悠里の壮絶なダウンに、
紗江も莉緒も、楓でさえも目を疑っていた。
「ホンマにやるわ、あの娘……」
楓が茜に向け、感嘆の溜息を漏らす。

沸き起こる歓声を聞きながら、茜は高揚の中にいた。
自分が悠里をダウンさせた。それが俄かには信じられない。
ただ肘の痛みだけが、それが現実なのだと知らしめる。

「ぐふっ、う、うあ……っぐ……!!!」
悠里はなおも脇腹を押さえて悶絶している。
眉根を寄せ、桜色の唇から涎を吐いて。
それを見て、ちくり、と茜の胸に痛みが走った。
大好きな相手を、自分の手で傷つけている。それを目的として殴り合っている。
何なんだろう、この状況は。
今さらながらに茜は思った。悠里の苦しむ顔は、あまり心地よいものではなかった。

「せんぱ…………」

茜が傍に寄った時、悠里は彼女を睨み上げる。
「何をしてるの?」
悠里はロープを支えに立ち上がりながら言った。
「せっかく、この私がダウンしてるのよ……。攻め続ければ、勝てたかもしれないのに」
「そ、それは……」
茜が瞳を惑わせると、悠里はふっと目元を和らげる。

「…………つらいものでしょう、好きな相手を叩きのめすのは」

その言葉に、茜は悠里を見つめた。
こちらの心情を見透かしたような発言だ。
何故だろう。
そう考えた時、前回の戦いが脳裏に甦る。
あの時悠里は、容赦なく茜を攻め立てていた。
茜はその猛攻に防戦一方で、しかし喰らい付きたい一心で血みどろになっていた筈だ。
それを悠里は殴り続けた。
あの時の悠里は、まさに今の自分と同じ気持ちでいたのだ。

「今回のでおあいこよ?身体の痛みも、心の痛みも、ね」
悠里は笑い、息を整えながら茜と距離を取る。
茜は、心がふっと軽くなるのを感じていた。

仕切り直し。
悠里がアバラを痛めた分、今は茜の優勢だ。
しかし、そんなものはさしたるハンデにならない。
相手はあの『カーペントレス(木こり娘)』だ。
気を抜けば蹴りの一発でこちらの骨を持っていかれるか、或いは意識を刈り取られる。
茜の頬に汗が流れた。
強烈な一撃を浴びた事で、いよいよ悠里の気迫が増している。
垂れる髪は獅子の尾のようだ。
いよいよ悠里にも容赦がなくなるであろうここから、一時も気を緩めてはいけない。

「押忍ッッ!!!」
茜は気合を入れ直し、悠里に向けて構えを取った。
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