大樹のほとり

自作小説を掲載しているブログです。

その他

禁忌のステーキソース・パスタ

※久々の飯を食うだけ小説です。


「……とにかくね、すっごい変なの、あのレストラン!」
その締めの言葉を聞いて、やっと俺は、優貴のジェスチャーが『すっごい変』を表していたことに気付く。よさこい踊りでもなければ、俺を呪っていたわけでもないらしい。

優貴が熱く語るレストランの名前は、『A Rank × B Rank』。一流の料理と二流以下の料理を掛け合わせ、フランクな満足感を与えるとかいう、よくわからないコンセプトの店だ。
メニューは日替わりの一品のみ、価格帯もまちまち。先週オープニングセールに乗じて優貴が行った時には、『フカヒレと金華ハムをあしらったラーメン』が出てきたそうだ。正直ゲテモノにしか思えないが、優貴的には相当イケたらしい。つまりは高級食材を使ったB級グルメか、嫌いじゃない。
でも。いざ店の前に行き、『本日の予算 4,000円』の看板を見た時には、少し腰が引けた。美味いという確証もない店に、そうそう使える額じゃない。後ろから猛烈な勢いで押してくる彼女がいなければ、数秒で踵を返していたところだ。

恐る恐る足を踏み入れたレストランは、案外ちゃんとしていた。シャンデリアが照らす空間に、真っ白なクロスの掛けられたテーブルが並び、畳んだナプキンなんかも置かれている。壁には絵画も掛かっていて、俺のような庶民の目には充分高級レストランに映る。
「ふわぁ、今日はこういうのなんだ……」
優貴の呟きからすると、前に来たときはまた雰囲気が違うらしい。
先客はすでに何組かいて、格好はフォーマルからカジュアルまで色々。少し失礼かもしれないが、まさに一流から二流まで、という雰囲気だ。
「お客様。こちらへどうぞ」
入口近くで突っ立っていると、中央あたりの席を案内された。白いテーブルクロスに置かれた銀のカトラリーは1セットのみ。これが3セットも4セットもあるとそれだけで混乱してしまうから、ありがたい。

「食前酒にシェリーとキールをお選びいただけますが、どちらになさいますか」
渋い声でそう尋ねられるが、そもそもどっちも知らない。
「キールで!」
悩む俺とは対照的に、正面の優貴がキッパリと答えた。これは意外だ。子供っぽい見た目のくせに、案外酒を知って……
「で、キールってなに!?」
ウェイターが踵を返した直後、優貴が俺に囁きかける。まあ、解ってはいた。解ってはいたが、なぜ知らない酒を自信満々に頼むんだ。さすがは大学のサークル仲間から、『愛嬌だけで世を渡る女』と呼ばれるだけはある。もっとも、その愛嬌にほだされて付き合い、挙句こんな所にまで駆り出されている俺が偉そうに言えたことでもないが。

キールとは、ショートドリンクに分類されるカクテルの一種で 、白ワインに少量のカシスのリキュールを加えたものを言う。らしい。もちろん出展はウィキペディアだ。
そうと判った上で運ばれてきたグラスの中身を飲んでみれば、確かにカシスらしい味がする。白ワインの爽やかな酸味も相まって、胃が開いていく感じがする。なるほど、これが食前酒か。そう感心しつつグラスの中身を空けたころ、早くもメインディッシュが運ばれてくる。
メインは肉。それも、肉の中の肉、ステーキだ。
肉汁が弾ける音のする鉄板に、ブ厚い肉の塊が乗っている。400g以上は軽くあるだろう。さすがの優貴も、そのステーキの皿を前にしては言葉がない。そのぐらいの熱気と、存在感と、期待感の塊なんだ。
皿から立ち上る湯気を吸い込んでいるだけで、身体がとろけてしまいそうになる。原因は直感でわかった。バターだ。ステーキにはたっぷりのソースが掛かっているんだが、そのソースが肉汁を絡めたたっぷりの焦がしバターで作られてるんだ。そこへ仄かに混じる香りは、ガーリックとタイムか。逆に言えば、その2つの独特の香りすら背景になってしまうぐらい、バターの香りが圧倒的なんだ。
「よ、涎でちゃうね、これ……」
ようやくという感じで優貴が口を開く。下品な、とはいえない。こればっかりはしょうがない。
香りに散々あてられながら、肉を見つめる。肉汁がプチプチと音を立てる表面にはしっかりと焼き色がついていた。でもその一方で、横にはまだ赤みが差している。ブ厚い肉なのに、見た目だけでとてつもなくやわらかいのが理解できてしまう。
誘われるようにカトラリーの1セットを手に取り、フォークで肉を固定しつつナイフを滑らせる。すると、あっさりと肉が“裂けた”。想像していたよりもさらにやわらかい。ただ手前に引くだけで、驚くほどなめらかな断面ができる。
断面は、見事なレアだった。ごく表面だけが黒く、中に行くほど淡いピンクになっていく。そしてそのピンクの隙間隙間に、これでもかというほど肉汁が光っているんだ。
もう、理性も何もない。今切り取ったばかりの肉の端を、口の中へ放り込む。噛みしめる……までもなく、歯で軽く挟んだ時点で肉汁があふれ出し、敏感になっている舌を覆い尽くす。ジューシーな牛の野生味が、ダイレクトに心臓まで届いてくる。このパンチの強さは豚や鶏には真似できない。
そしてそれに浸る間もなく、舌がバターの旨味を感じ取る。『まろやか』という言葉を思わず使ってしまいそうなぐらい、有無をいわせずとろかしてくる味。優しいのにしつこくて、反則的なまでに人を骨抜きにする風味。ただ舌に乗せているだけでこれなのに、噛んでしまえばもう幸せな地獄だ。ますます存在感を増していく肉汁のパンチと、バターの風味、ガーリックの憎いまでの香ばしさがない交ぜになり、立て続けに舌と脳を刺激してくる。刺激が強いのに、噛む速さが勝手にどんどん増してしまう。
 スジをほとんど感じない肉が口の中でどろどろに解けた頃、ようやく飲み込むことを許される。喉を心地良い塊が滑り落ちていけば、後は口の空洞に旨味が漂うばかり。後味がいい、なんてものじゃない。中毒だ。俺はその至福に酔いながら、壁に目をやった。席まで移動する間に確認していたんだ。『本日の予算 4,000円』……入口と同じその文言が、壁のボードにも描かれているのを。
4,000円。店に入る前とは逆の意味で信じられない。このステーキは、そんなものじゃない。店が店なら、1万、いや2万円取られたって文句が言えないレベルだ。
俺はそこまで考えてから、またナイフを滑らせる。最高の肉だけに、最高の食べ時を逃すのが惜しい。そういう小市民的な考えで。
二口目でも、三口目でも、俺の舌と脳はパンチを喰らい、とろかされてしまう。肉自体も凄まじく美味い。でも何といっても、ソースが反則的だ。ミシュランで星いくつを取るレストランの、秘伝のソース――そういう触れ込みでもなければ逆に不自然に思えるぐらい、悪魔的な旨さを秘めている。おまけにこのソース、相性がいいのは肉に対してだけじゃない。付けあわせで盛られたマッシュポテトにも、オリーブオイルで素揚げしているらしいブロッコリーやニンジンにも、恐ろしいほどマッチする。

気付けば俺は、最初圧倒された400gあまりの肉をあっという間に平らげていた。安い肉なら300gでも飽きが来るのに、負担らしい負担を感じる瞬間は一度もなかった。本当に、いつの間にか最後の一切れを食ってしまっていた。そしてそれは俺だけじゃなく、向かいの優貴も同じくだ。
「あれ、もうなくなっちゃったぁ……」
その言葉は、まるで俺の脳から漏れたかのようだった。
肉のなくなった皿には、俺を悩殺したあのソースだけが残っている。俺は、それがあまりにももったいなかった。もしここで他人の目がなかったら、まず間違いなく皿を持ち上げて舐め取っているだろう。
そもそもよく考えれば、なんでステーキなのにパンがないんだ。それさえあれば、このソースへたっぷりと浸し、絡ませて堪能できるのに。俺がそう思った、まさにその時だ。
「美味しくお召し上がりになったようですね」
さっき肉を運んできたウェイターが、俺達の横で足を止めた。手にはドーム型の蓋が被せられた皿が乗っている。心なしか、さっきより砕けた雰囲気だ。
「お腹の具合はどうですか。まだ……いけそうですか?」
なんだろう。こっちの『何か』を察しているような、誘っているような口ぶりだ。俺と優貴は、その誘いにまんまと乗って頷く。すると、ウェイターが笑みを浮かべた。
「かしこまりました」
そう言ってウェイターは、ドーム型の蓋を開ける。
中から現れたのは、もうもうと湯気の立つパスタ。
「失礼します」
ウェイターは蓋をテーブルの端に置くと、トングを取り出し、パスタを俺と優貴の皿へと取り分けていく。ステーキのソースが、たっぷりと残った皿にだ。
「では……当店自慢のソースを、心ゆくまでご堪能ください!」
そう言ってウェイターは、白い歯を見せて笑った。最初は高級レストランのウェイターとして違和感がなかったのに、今では悪巧みを打ち明ける兄貴に思える。
ほどよく盛られたパスタの1本を、下品と知りつつ摘み上げる。そして食べてみれば……ほとんど味はしない。うっすらと塩味がついてはいるが、いたって普通。安い弁当のスペースを埋める目的で敷き詰められている、あの素パスタとほぼ同じだ。
なるほど、これがBランク。さっきのこれでもかというほど上等なAランクの余韻を、これで汚せというわけか。高級に慣れた人間の中には、馬鹿にしているのかと怒る人間もいるだろう。最後はこれでは格調も何もない。
でも、下賎な身……それこそ人の目がなければ皿を舐めとろうと考える人間にとっては、まさしく禁忌の誘惑。
「たまんないね……これ…………!!」
優貴が堪え切れないという風に笑う。それはたぶん、俺も同じ。

そして、俺達は史上の残飯を食い漁った。極上の肉汁と、香ばしいガーリック、そして脳をとろかすバター……それらを安っぽいパスタに存分に絡め、思うさま啜る。
つくづく合理的だった。それ自体に味のないパスタだけに、ソースの味が最大限楽しめる。喉の通りのいいパスタだけに、ステーキを食った後でもツルツルいける。ほんの少し物足りなかった腹具合もきっちりと満たされ、何より極上のソースを最後の一滴まで余さず消費できる。本物の高級店なら、こんな真似は許されないだろう。どれほど上質なソースを作っても、ステーキを食い終わった時点で皿は下げられ、ソースは捨てられてしまう。これはまるで、そんなソースと、それを作った職人の無念を晴らす一品に思えた。
「たまんねぇな、これ……」
心も腹もすっかり満たされた頃、俺はフォークを置きながら、思わずそう呟いていた。正面の優貴と、遠くから見守っているウェイターに、心地いい笑みを向けられながら。



                                (終わり)

村の親友

※リハビリを兼ねて久々の更新。
 ネットで見かけた怖い話を元にしたフィクションです。よってホラー注意。
 元ネタは『一つの村が消えた話をする』でググると出ますが、あくまでも閲覧は自己責任でお願いします。



俺は子供の頃、相当な田舎で暮らしていた。
若い人間は皆が皆村を離れていってしまうから、村の人間の大半は中年か年寄りばかり。
子供はたった3人……俺と、柚衣と、浩太だけだ。
柚衣は神主の娘で、小さい頃からいわゆる巫女として育てられていた。
まさに利口さの塊という感じの子で、頭も良ければ行儀も良く、おまけに可愛い。
当時の俺は都会の女子の容姿なんて全く知らなかったけど、それでも柚衣の可愛さは片田舎では珍しいレベルだと漠然と感じていた。
今になって思い返しても、この認識は全く間違っていないと思う。
もう一人の幼馴染である浩太は、柚衣の真逆で豪快だった。
ガタイが良くていつも大声で笑う、ひどく頼りがいのある奴だ。
小さい頃、俺に襲い掛かってきた子イノシシ相手に取っ組み合いをし、追い払ってくれた事は今でも忘れない。
俺はいつもこの2人と一緒に勉強をしたり、川遊びをしたりして過ごしていた。

ここまでなら、山あいの田舎ではごくありふれた話だと思う。
ただ、うちの村には昔から、少し変わった祭があった。
祭は『慈心祭』と呼ばれ、毎年村全体の規模で行われる。
文字通りに読めば心を慈しむ祭、となるけど、この場合の心というのは“腹”を指すらしい。
数百年昔、この村ではひどい飢饉があったらしく、それに伴って悲劇が続発した。
それを弔い、二度と災いが起こらないように祈願するのが祭の目的らしい。
そして、この祭には二つの「禁」がある。
一つ。
慈心祭の前日である八月十四日は、神主の一族を除き、村の奥にある「深穢ヶ池」には近づいてはならない。
二つ。
慈心祭当日の八月十五日は、村人はけして村の外に出てはならず、また外の人間を村に招き入れてはならない。

俺自身、小さい頃に親から教え込まれ、この禁は絶対に破ってはならないと言われてきた。
禁の中に出てきた深穢ヶ池というのは、村に古くから伝わる池で、祭の元となった飢饉の際に悲劇の中心となった場所らしい。
柚衣の一族が代々神主として管理してきた場所こそ、この深穢ヶ池と、その周りに鬱蒼と茂る森だ。
要するに、池とその周辺はこの村の中で最も特別な場所といえる。

俺がこれから話すのは、俺達が十五歳、中学三年だった夏の話。



慈心祭も近くなってくると、村全体が独特な空気に覆われる。
親戚が集まって、酒を呑みながら延々と何か深刻な話をしているような、ああいう空気だ。
その疎外感に加え、学校が休みという開放感、そして柚衣が巫女の修業であまり遊べなくなるもどかしさ、
そういうものが合わさって、俺達は毎年調子を狂わされる。
だからこの時期は決まって、普段はしないような遊びをしたものだった。
普段は行かないような山道の探検、真夜中の肝試し。そういうスリルのある遊びを。
十五の夏、浩太がした提案も、おそらくはその延長線上だったんだろう。

「俺さ、一度やってみたい事あんだけど。聞いてくれるか?」
浩太にしては珍しく潜めた声に、俺と柚衣は一瞬顔を見合わせた。
不審、とは違う。むしろどっちかといえば期待が大きい。
こういう切り出し方をする時の浩太の話は、決まって面白いから。
当然、俺も柚衣も、「いいよ」と言葉を揃えた。
「いいか、これ誰にも言うなよ。
 ……あのよ、八月十四日の夜にさ、深穢ヶ池の裏の森に3人で行ってみねぇか」
その提案に、一瞬柚衣の表情が強張った。
柚衣は神主一族の娘だ。当然、俺以上に口酸っぱく祭の禁を言い聞かせられてきたことだろう。
「それって、でも、禁を破る事になるよ」
やや神妙な面持ちで柚衣が言う。
「そうだ。それに、そもそも無理じゃないか? 祭の前日って、森の辺りを柚衣ん家の人が見回ってるし」
俺も柚衣に続いた。
でも、そのぐらいの反論は浩太も承知だったんだろう。
「ま、当然そうなるよな。でもよ、無理って訳じゃねぇんだ。
 ゆうべ、森を覆ってる金網の一部に、こっそり穴を開けといたからよ。
 ちょうど大人の見回りの死角になるとこだから、明かりさえ点けなきゃバレっこねぇ。
 それにさ。俺、どうしても気になる噂聞いちまったんだ」
浩太は目を開かせながらそう言うと、逸る気持ちを抑えるように唾を飲み込んだ。
ここからは、そんな浩太が上ずった声で語った内容だ。

金網を越えて森を進み、池に向かう獣道からやや外れた場所に、ある祠があるらしい。
その祠は誰も起源を知らないほど古くからあり、その祠の中にある石に触れると、
「見える」ようになるという。

「そんな話、お父さんからもお母さんからも、聞いた事ない」
浩太が語り終えた後、柚衣は小さくそう呟いた。
不満か、戸惑いか。俺は柚衣の表情から、そう心境を読んだ。
でも正解は、そのどちらでもない。
「…………けど、本当だったら気になるかも」
柚衣は、僅かな好奇心を瞳に映しながら顔を上げる。
その瞳で、柚衣も俺と同じ気持ちだったんだと理解できた。
俺自身、浩太の話に興味がある。
村の仕来りを軽んじる気はないけど、やるなと言われればしたくなるのが子供だ。
産まれてから十数年、つつがなく祭が終わってきた事で、『所詮は迷信。何も起こるわけがない』と高を括る気持ちもあっただろう。
それにさっきの話によれば、池に向かう道を途中で逸れるはず。つまり、池に近づきすぎるわけじゃない。
「確かに気になるな。じゃあちょっと怖いけど、行ってみるか?」
「おお、やっぱそうなるよな! な!!」
俺が賛同すると、浩太は目を輝かせて俺の肩を掴んだ。
「んー……でも、なぁ…………」
流石に柚衣はその後また渋りはじめたものの、数十分の問答の末、最後には行くことを決める。
俺と浩太が結託して盛り上がった末に柚衣が引き摺られるのはいつものことだし、
そもそも一度でも興味を覗かせた以上、結局は行くことになったと思う。

つまり、この運命はどうやっても変わらなかったんだ。
浩太がどこからか祠の話を耳にし、俺達に打ち明けた時点で。



祭が近づくにつれ、村には徐々に人の姿が増え始めた。村から離れていた人達が帰ってきたんだ。
とはいえ、元から村にいた人数と合わせても百は超えない。
つまりはこれが、今のこの村の総人口なんだろう。
若い労働力も得て、慈心祭の準備は着々と進んでいく。
神社の参道から森へと通じる道が掃き清められ、いくつもの注連縄が運ばれ、露店の枠組みができ。
そういう光景を目にすると、ああ今年も祭の季節が来たんだなと実感する。
俺達は祭の準備を手伝いながら、さりげなく計画に支障がないかのチェックをした。
森周辺の見回りは往年通りか。金網の穴は塞がれていないか、などだ。

祭もいよいよ目前に迫ったある日、村の全員が神社に集められた。
慈心祭についての説明だ。
大半はもう聞き飽きた内容だったものの、最後に重要な知らせがあった。
神主の娘――つまり柚衣が、今年の厄払いの神楽を舞うという。
確かにこの村の巫女は代々15歳で一人前とされ、初めての舞を披露する。
今年は巫女としての修業がやけに長かったけど、こういう訳だったんだ。
「よっ、楽しみにしてるぜ!」
「あの小ちゃかった柚衣ちゃんもすっかり大人っぽくなって、こりゃいい舞が見れそうだ!!」
村の大人達はもう満面の笑みで、柚衣に向けて拍手喝采を送る。
勿論神主さんもホクホク顔だ。
「…………っ!!」
俺の傍で話を聞いていた柚衣は、顔を真っ赤にして照れていた。
正直、物凄く可愛かった。

そして迎えた八月十四日、祭の前日。
俺と浩太は昼前から柚衣の屋敷に上がっていた。
柚衣が一足先に、祭で披露する神楽を見てほしいというからだ。
代々の巫女が着けていた簪や衣装を纏い、扇や榊を手に舞う柚衣は、綺麗だった。
幼馴染をまじまじと見る機会なんて滅多にないけど、改めて見れば、柚衣は結構スタイルがいい。
舞の動きの中で不意に見える鎖骨や、袴から覗く足首、脛。
そういう部位が、思春期の心をくすぐった。
「ね、どうだった? 変じゃなかった!?」
やや息を切らせながらそう聞かれた時、俺は正直ドキッとした。
今の今まで見惚れていた美少女が、鼻に息のかかるほどの近くまで顔を寄せてきてるんだから。
「や、最高だったよ」
「ああ。フツーに感動した」
俺と浩太は笑顔で拍手した。多分どっちの言葉にも嘘はない。
そして、鼓動が早まっているのも一緒だ。同じ男だからこそ、横にいてもそれが感じ取れた。
ちなみにこの日、俺と浩太は良くない事をした。
柚衣が巫女衣装から着替えるといって奥の間に引っ込んだ後、ほんの少し開いた襖の間から、その着替えを覗き見たんだ。
普段だったらまず覗かない。散々見慣れた幼馴染の着替えなんて。
それでもこの時こういう行動に出たのは、2人共が柚衣を女の子として意識していた証拠だろう。
柚衣の指が手際よく帯を解き、赤い袴を脱ぎ捨てる。
するとショーツが丸見えになった。
上部分にレース、正面にピンクのリボンがついた可愛いショーツ。
普段穿きの物とは全然違う。多分、ハレの日用の特別品だ。
いつの間にかそんな大人びたショーツを買うようになった幼馴染を前に、俺と浩太は生唾を飲み込んだ。
意外に大きく思えたその音で覗きがバレるかと思って、俺達は顔を見合わせ、抜き足差し足その場を後にする。
2人揃って、らしくないにやけ顔を浮かべたまま。

そして、夜。
夕飯の後、俺は親に「浩太の家に忘れ物を取りにいく」と言って家を出た。
別に珍しい話じゃない。田舎の幼馴染ともなれば、お互いの家は第二の自宅みたいなものだ。
今でこそ頻度は低くなったけど、柚衣の布団の上で夜中まで遊び、そのまま3人雑魚寝、なんて事もよくやった。
そんなだから浩太の家に行くことに、親が一々反応することはない。
どうせ次の日はお祭りなんだから、そのまま泊まることがあっても不審がられはしない。
これは浩太にしても同じことだ。
唯一の問題は次の日に大役が待っている柚衣だけど、こっちはこっちで心配いらない。
何しろ柚衣は、俺達の中で一番頭がいいんだ。
悪戯を大人に見つかった時、柚衣の機転で不問になった事は一度や二度じゃない。
そんな彼女だから、何か理由をつけて数時間家を空ける事ぐらい簡単だろう。
事実、集合場所に行くと、まず柚衣が待っていて、すぐに浩太も合流した。
夏だから当たり前だけど、2人とも軽装だ。
特に柚衣の、水玉キャミソールにハーフパンツという姿は、女性として意識した後だとやけに露出が多く見える。
今まで嫌というほど見てきた生足が眩しい。
「さ、揃ったし行こっか!」
柚衣が小声で、でも興奮を抑えきれない感じで言った。
最初は流されるまま渋々ついてくるのに、いざ決行となれば一番張り切るのは相変わらずだ。
この性格を、何度『ダメ男に引っ掛かる典型』とからかったことか。
「ああ。ライト点けられんねぇから、くれぐれも足元気ィつけろよ」
浩太もいつも通りのリーダーシップを発揮し、先陣を切って歩き出す。
小さい頃から変わらない、いつも通りの3人だ。

当然、金網に辿り着くまでの道は、何人もの大人が巡回していた。
でも事前のシミュレーションは万全だし、普段から隠れる遊びをよくする事も功を奏して、難なく金網まで辿り着く。
苦戦したのは唯一、金網をくぐる時だ。急ごうとするあまり、服の背中が鉄線に引っ掛かってしまう。
それでも何とか3人とも穴を抜け、森に入った。
「まずはこのまま、獣道に出るまで真っ直ぐ行くぞ」
先頭の浩太が懐中電灯を点けながら言う。
俺は明かりを点ける事に一瞬不安を感じたものの、深い森だ、外に光が漏れることもないだろう。

どこかで山犬が遠吠えし、周囲の小枝が小動物に踏まれて音を立てる。
その上、足元には蛇や虫。
いかに山育ちとはいえ、夜の山中は愉快とは言い難かった。
特に柚衣は、森に入って間もない頃からずっと俺の袖を掴んでいる。そういう所はやっぱり女の子だ。
ほとんど密着しているから、シャンプーの匂いが直に香って、変に胸がざわついたりもする。
しかし、それにしても長い。軽く30分は歩き続けているはずだ。
いくら深い森とはいえ、30分歩いて獣道にすら出ないなんて不自然すぎる。
「なあ、まだ道に出ないのか? 方向間違えてるんじゃないか?」
俺は先頭の浩太に訊ねた。
浩太はやや息を切らしながら振り返る。
「や、方角は合ってる筈なんだ。ちゃんと方位磁針で見てっからさ」
「でも、流石に長すぎるだろ」
「だよね。けど、今から変に帰ろうとしても余計迷うだけだよ。
 どこかの道に出るまで、このまま歩いてみるしかないんじゃない?」
3人で話し合い、結局はもう少し歩いてみようという事になった。
それから、数分後。
ある時、急に茂みが薄くなり、そこを抜けるとあっけなく獣道に出る。
「出たっ!」
「おー。なんだ、後ちょっとだったんだ!」
「よかったぁ!!」
救いを得たというような浩太の声に続き、俺と柚衣も歓声を上げる。
いわばようやくスタートラインに立ったようなものなのに、この時は茂みから抜けた事が嬉しくて仕方なかった。

獣道にさえ辿り着けば、後は池に向かう道を途中で曲がるだけ。
俺達はそう気分を軽くして歩を進めた。ただ、ここでようやく致命的な事が発覚する。
なんと俺達の誰一人として、深穢ヶ池の正確な位置を知らなかったんだ。
「なぁ、柚衣。池ってどっちだ?」
「えっ……。浩ちゃん、道知らないの?」
浩太に道を訊かれた柚衣が、逆に浩太に尋ね返した。
「お、おお。てっきり柚衣が知ってると思ってよ。だってホラ、ここらってお前ん家の管轄だし……」
「そりゃ管理はしてるけど、あくまで外から見守るのがうちの仕事で、池まで行くわけじゃないもん。
 お父さんなら、行った事あるかもしれないけど…………」
そう。おかしなことに、3人の誰もが池の場所を知らなかった。
禁を恐れずという感じで冒険してる俺達だけど、きっと心のどこかで、池の存在をタブー視する部分があったんだ。
だから入念な確認をしなかった。そう納得するしかない。
今思えば、こんな重要な事を前もって確認していない時点で、すでに何かがおかしかったんだろうけど。

進むべき方向も解らず、ただ道なりに獣道を進むうち、俺達はある事に気がついた。
「なぁ、何か静かすぎねぇか?」
「確かに」
さっきまで煩いほど繰り返されていた遠吠えや獣の声が、全くしなくなっている。
そして、俺の斜め後ろを歩く柚衣にも元気がない。
「どうした、柚衣。疲れたか?」
俺が訊ねると、柚衣は小さく首を振った。
「…………なんか、寒い」
なるほど、確かに夏とはいえ夜の山は冷える。キャミソール姿の柚衣は寒いだろう。
俺はそう思って、着ているシャツをたくし上げようとした。するとその腕を、柚衣の手が掴む。
「いい、違うの。肌寒いんじゃなくて、もっと別の……心に直接来るような寒気なの」
青ざめた表情でそう語る柚衣の顔を、俺も、浩太も、しばし黙って見つめた。
確かに、嫌な感じはさっきからしている。
言葉にこそ出さなかったものの、獣の声が聞こえなくなったのも、生き物の存在しない世界に迷い込んだようだと思っていた。
そこへ来ての、柚衣のこの言葉。
巫女として育てられただけに、俺より霊感が強いのかもしれない。この一帯には、何かあるのかもしれない。
「あ、でも、大丈夫。歩けるから。ここで止まっててもしょうがないし、行ける所まで行こ?」
固まる俺達に配慮したのか、柚衣はぎこちなく口元を吊り上げて言う。
ここ一番のウソが上手い柚衣なのに、この時の無理は見え見えだった。
でも今は、その無理に甘えるしかない。
「悪ィ」
前を向き直しながら、浩太が呟いた。
こんなに肩を落とす浩太を見るのも初めてだ。いつだって自信満々で、大人に説教されている時でさえ真正面に胸を張る悪童ぶりなのに。
「行こう。こうやって地に足つけて登ってけば、そのうち絶対見慣れた所に出るって!」
俺は自分に言い聞かせるように叫ぶ。
いくら不気味な空間だろうと、靴で踏む土の感触は間違いなく現実なんだ。
その現実が続いた先には、見慣れた村の地面があるはずなんだ。
俺のその思いが励みになったかは解らないけど、ほんの少し2人の雰囲気が柔らかくなる。
「……ははっ、そりゃそうだ。所詮はクソ狭い日本の山ン中なんだもんな!」
「そうそう。案外もう、麓の方まで来てるかも!」
「あはは、なんか変なの。去年やった肝試しより、今年のがよっぽど肝試しっぽいよ」
「へー。去年のって、漏らしたアレよりか?」
「だから、漏らしてないし! あれ、上から水が垂れてきただけなんだってば!」
恐怖を紛らわせるために絶えず喋りながら、俺達はさらに歩き続けた。

そして、数分後。
「ん?」
先頭を歩く浩太が、何かに気付いたような声を上げた。
「どうした?」
俺が訊くと、浩太は前を指差した。
「何か小屋あるぞ。ちっとあそこで休んでかねぇか?」
浩太が指す方を見ると、確かに草木に覆われた小屋らしきものが見える。
不思議とその時は、そこに小屋がある事に違和感を覚えなかった。
「そだな。柚衣も疲れてそうだし、ちょっと休もう」
俺が言うと、浩太は小屋へ近づいて扉に手を掛けた。
鍵は掛かっていないらしく、扉は耳障りな軋みを上げながら開いていく。
まず浩太が中に入り、俺と柚衣もそれに続いた。この間、柚衣はなぜか一言も発さなかった。

小屋は薄暗いものの、朽ちた壁から漏れる月明かりでかろうじて中が見渡せる。
中は荒れ果てていた。床板は所々抜け、ボロボロの籠や包丁なんかが散乱していて、何より匂いがひどい。
粘土を顔に押し付けられたような、粘りのある異臭。長いこと嗅いでいるとえづきそうだ。
「んだこれ、キノコでも生えてんのか? くっせぇな……」
浩太は俺と同じ感想を漏らしながら、入口近くを物色していた。
俺もそれに倣って、小屋の中を見て回ることにする。
中は外観以上に広く、ちょっとした田舎の一軒家ぐらいはあるように思えた。
物が散乱する土間付近から角を曲がると、異臭がより強くなる。
俺は妙にその異臭が気になり、突き当たりの扉に手をかけた。
すると、背筋に嫌な感じが走る。一瞬体が強張るものの、好奇心に負けて扉を開いてしまう。
中は汲み取り式の便所だった。思った通り、異臭の発生源もここらしい。
正直俺は、なんだ、と思った。異臭も元が解れば興味も沸かない。
そして俺が便所から出ようとした、その瞬間。

「アア……アアア…………ァアァァ゛ア゛」

異様な声が背後から聞こえた。
まるで首を絞められた人間が、今際の声を絞り出しているような声。
それを耳にした瞬間、俺は声の主がこの世のものではない事を直感で理解した。
足が竦んで動かない。かといって、振り返るなんてとても出来ない。
何かの気配がすぐ後ろに迫っているのが解る。もうダメだ、と俺は観念しかけた。
「おい、何やってんだ!?」
浩太の声が響き渡ったのはその時だ。
その声が鼓膜を震わせたと同時に、後ろの声も消えた。
俺は走り寄ってきた浩太に腕を引かれ、便所から引きずり出される。
同時に浩太は足で思い切り扉を閉めた。
「おい、大丈夫か? 何なんだよお前ら2人して。
 お前は便所で漏らしながら突っ立ってっし、柚衣も何か変だしよぉ!!」
浩太のその言葉で、俺は自分が失禁している事に気がついた。
俺は今見たことを浩太に話す。浩太は訝しそうな顔をしつつも、とりあえずここ出た方が良さそうだな、と呟いた。
小屋を出ようと入口近くまで戻るものの、柚衣の姿が見当たらない。
「あれ、柚衣は?」
「ん? そこに……って、あれ、居ねえ」
浩太が入り口近くの茣蓙を見て眉を顰めた瞬間、少し離れた場所で床の軋む音がした。
さっきの便所側とはまた別の方向だ。
「あいつ、具合悪そうなくせに何フラフラしてんだ?」
浩太が様子を見に向かい、そのまま足を止める。
「何止まってるんだよ」
俺は浩太の横に並び、同じく立ち尽くした。
通路の先にあったのは、金属でできたボロボロの扉。
赤錆に覆われた扉の縁は、数十ものお札でびっちりと隙間なく閉じられている。
扉の両端には盛り塩がなされ、その塩は真っ黒に変色してもいた。
どう見てもやばい。
「…………まさか…………柚衣のやつ、この先に行ったのか?」
浩太が強張った声で言う。
動揺するのも解る。あの利口な柚衣が、軽々しくこんな場所に入るとは思えない。
でも、状況からいってそうとしか考えられないのも事実だ。
さっきの足音はこっちから聞こえた。
そしてその先にある扉は、ちょうど淵に沿ってお札が破れ、明らかに開けられた跡がある。
「やばい。やばいって。ここはやばい」
浩太は歯を打ち鳴らしながら、狂ったように呟き始めた。彼がここまで錯乱するのは初めてだ。
「落ち着け。たぶん柚衣はここにいるんだ、行くしかないだろ!!」
俺は浩太の肩を掴んで叫ぶ。
するとその叫びで正気を取り戻したのか、浩太は何度か強く瞬きした。
そして自分を鼓舞するように頬を叩き、力強く前へ踏み出す。
「っし、いくぞ!」
そう叫ぶと同時に、浩太は思い切り扉を蹴飛ばした。
反動でよろめき、尻餅をつく浩太。その横では扉が綺麗に開き、中が覗く。
果たして、そこに柚衣はいた。ただ、様子がおかしい。
じっとこっちを見つめたまま、両腕を真横に上げている。
「柚衣!!!」
咄嗟に駆け寄ろうとした瞬間、柚衣の背後から何か黒い影のようなものが現れた。
さっきの声の主だ。まず肌がそう理解する。
形は大人の男に近い。けれどもその赤く濁った眼は、絶対にまともな人間のそれじゃない。

「アアァア……アアア゛ア゛…………ァアアア゛ア゛………………」

首を絞められたような呻き上げながら、影はゆっくりとこっちに迫ってくる。
尻餅をついていた浩太が跳ねるように起き、走り出した。
「逃げろ!!」
「でも、ゆ、柚衣がまだいるんだぞ!!!」
浩太の叫びに、反射的に叫び返す。その瞬間、黒い影の一部が俺の頭を覆った。
「ぐぅいおおあぁぁおああっ!!!!」
俺はこのとき、自分が何と叫んだのか解らない。声になっていたのかも解らない。
ただ感じたのは、このままこの黒い影と接触しているとやばいという事。
ただの一瞬で、俺の顔からはあらゆるものが噴き出した。
汗、涙、鼻水、鼻血、そして異常なほどの涎。
それを知覚した瞬間、情けないことに、俺の身体は無意識に逃避行動に移っていた。
柚衣から離れる方向に走っていた。
これはもう理屈じゃない。死の危機に瀕しての反射だ。
浩太もそんな俺を見て、いよいよ血相を変えて逃げ始める。
「うわああああああっ!!!」
俺と浩太は入口の方へ逃げながら、落ちている物を手当たり次第に影に向かって投げつけた。
すのこに、茣蓙に、何かの破片、そして包丁。でも影はそれらをすり抜けながら近づいてくる。
俺と浩太は影に追い立てられるようにして、ドアを蹴り開けて外に出た。
そして、地面に足をつけた瞬間。

「きゃああああああぁぁっっ!!!」

金切り声のような柚衣の悲鳴が響き渡る。
「柚衣!?」
「くそっ、くそおおぉぉっ!!!」
悲鳴を聞いて小屋へ戻ろうとするものの、黒い何かは相変わらず迫ってきている。
結局俺達は、そのまま小屋に背を向けて逃げ出した。
獣道を半狂乱で駆け下って、何度も転んだ。どこをどう走ったのか、正直全く覚えていない。
その末にようやく見覚えのある破れた金網の所まで辿り着き、外の大人に助けを求めた。
巡回役の大人達は、俺達の状況からおおよそを察したらしく、すぐに俺達を神社の本殿へと運び込んだ。

本殿には俺と浩太の両親、そして柚衣の親族が集められ、異様な雰囲気だったのを覚えている。
「まずはお前達に憑いたものを祓う、つらかろうが覚悟しておけ!」
神主さん……つまり柚衣の親父さんがそう一喝し、俺と浩太に酒や酢を飲ませた。
次に身体中に塩をかけ、何度も背中を思い切り叩かれる。
正直、折檻されているのではと思えるほど辛かった。
穢れ祓いが一通り済むと、俺達は村の皆に睨まれながら、森で何をしていたのかを話した。
話が進むにつれ、俺や浩太の親、そして柚衣のお母さんの嗚咽が聞こえ始め、居たたまれなかった。
俺達がすべてを話し終えると、神主さんは深く息を吐く。
そしてしばらく押し黙った後、静かに口を開いた。
そこから神主さんに聞かされた話は、俄かには信じがたいようなものだった。

まず、俺達が辿り着いたあの小屋。あれは、村の古い伝承に出てくるような代物らしい。
噂自体は何代も前から語り伝えられていて、村の大人にも子供の頃にその小屋を探そうとした者はいた。
ただこの小屋、確かに実在はするものの、小屋自体から『招かれ』なければ辿り着けないんだそうだ。
逆に小屋に招かれたものは、他の目的があっても無意識に小屋に吸い寄せられてしまう。
俺達がどうやっても深穢ヶ池や祠に辿り着けなかったのはこのせいだ。
そして、あの小屋にいた影の正体。
あれは元を辿れば、百年以上前にこの村に住んでいた男らしい。
大飢饉が村を襲った時、村人が血眼になって作物を探す中で、そいつはどさくさに紛れて村の女をあの小屋に監禁した。
そしてそこで女を繰り返し強姦した挙句、奴隷のような状態にしたという。
やがて女が消耗して死ぬと、飢えていた男はその女を解体して食べた。
この時に人肉の美味さを知った男は、それからも次々と村の女を小屋に連れ込み、弄んだ挙句に貪り食ったそうだ。
こうして村には若い女がいなくなり、先の飢饉も合わさって、村の人口は減る一方になった。
でもある時、この男の凶行が攫われた女の許婚によって突き止められ、男は小屋の中で私刑の末に殺された。
両目を抉り出され、体中が黒く鬱血するまで殴打され、ついには縊り殺されたその男の末期は無惨なものだった。
そうして男が息絶えたのが、八月十四日の深夜から、八月十五日の明朝にかけてのことだそうだ。
男は間違いなく絶命したが、その怨念は更なる欲を満たすためか、現世への恨みからか、その後も悪霊として度々村に姿を表した。
そこで村人は、小屋の一室に封印を施し、小屋のある山一帯を神主の管轄とした。
そして特に因縁の深い八月十四日から十五日にかけては、鎮魂の祭を行いつつ、けして森に近づかないよう禁を定めた。
実のところ、深穢ヶ池は事件の被害者の骨を水葬にしただけの場所で、いわば小屋の存在を隠すためのブラフなのだという。

おおまかにはこんな所だ。ただ、細かい部分は覚えていない。
俺はこの話を聞いている最中、猛烈な気分の悪さに襲われて、そのまま気絶するように意識を失ったからだ。
後で聞いた話では、俺は四〇度近い高熱を三日三晩出し続け、生死の境を彷徨ったんだそうだ。
頭痛もひどく、その痛む場所は、ちょうどあの黒い影に触れられた場所だった。
このまま死ぬかもしれない、という恐怖は正直あった。でも同時に、柚衣の事が心配で堪らなかった。
柚衣はあの異臭立ち込める小屋の中、黒い影と今も一緒にいるんだろう。
ほんの一瞬触れただけで生死の境を彷徨わせるようなあれに囚われて、どうなってしまっているんだろう。
そう考えれば、いつまでも半死半生ではいられない。
正直、俺が4日目にはっきりと意識を取り戻したのは、その気持ちがあったからじゃないかと思う。

俺の意識が戻ると、神主さんが俺と浩太を呼びつけた。
本来、禁を破った俺と浩太の家族は村を追放される所だが、今回それは大目に見る。
その代わり、もう一度あの小屋に赴き、娘――柚衣を助け出して欲しい。
柚衣がまだ生きているという保証はどこにもないが、もし助けられるとすれば、小屋に呼ばれた俺達しかいない。
話の内容はこうだった。
正直、願ってもない話だ。俺達にとっても柚衣はかけがえのない幼馴染なんだから。
俺と浩太がやる意思を伝えると、神主さんは清めの塩を俺達に手渡した。
「もし柚衣の傍にあの黒い影が現れたなら、『ヤァタ』と真言を唱えるといい。一瞬怯ませる効果はあるだろう」
神主さんの言葉に、俺達は強く返事をした。
山の入口まで連れ添われ、そこからは俺と浩太だけで獣道へ向かう。
この時、俺の母親が堰を切ったように泣き出した。このまま村を追放でもいい、息子を危ない場所に行かせないでくれ、と。
村の大人からは詰りの言葉が飛んだけど、母親としては当然の感情なんだろう。
実際、生きて帰れる保障はないんだから。
でも、行かないわけにはいかなかった。俺達が行かない限り、柚衣が帰ってくる事はないんだから。

道のない道をしばらく行くと、獣道に辿り着く。
そして更に歩き続けると、やがて動物の声が全くしなくなる。あの時と同じように。
「…………やっぱ、お前とじゃないとダメなんだな」
獣の声が止んだ瞬間、それまで押し黙って前を歩いていた浩太が呟いた。
「どういう事だ?」
「俺さ、いっぺん山入ったんだ、お前がまだ熱出して寝込んでる時。
 今日と同じように、入口まで神主さんに付き添って貰ってさ。でも、そん時は小屋に行けなかった。
 普通に深穢ヶ池に着いちまったんだ。拍子抜けするくらい、すげぇ近かったよ」
そう言ってまた、浩太は押し黙る。
沈黙は重苦しい。けど、何と答えたらいいのか解らない。
「そろそろだな」
「ああ」
三日前の感覚を元に、俺達は獣道を抜けた。あの夜の小屋が姿を表す。
改めて見ると不気味だ。普通の感覚なら入ろうなんて思わない。
やっぱりあの夜は、この小屋に呼ばれてたんだろう。
「いいか、作戦決めとくぞ。入ったらまず、俺があのバケモンを引きつける。その間にお前は柚衣探せ。
 見つけたら、即抱えて逃げろ」
「なっ……!!」
俺は言葉を詰まらせた。これじゃ、あまりに浩太のリスクが大きすぎる。
そう反論すると、浩太はそれまで見せたことのないような荒々しい表情を作った。
「馬鹿、当たり前だろ。元々こんな馬鹿話持ちかけて、お前ら巻き込んだのは俺だろうが。
 村じゃ2人纏めて怒られたけどよ、どう考えても俺が一番悪ィだろ。
 だから、ヤバイ役は俺がやる。大体お前、あのバケモン相手にヤれんのか!?」
浩太にこう凄まれると、二の句が継げない。
覚悟が凄いんだ。何を言っても引かないという意思が、その目にはっきりと刻まれてる。
こういう時の浩太には、どんな交渉も効かない。俺は、それを誰よりよく知っている。
「……………………わかった」
俺は短く応えた。
「っし、行くぞ!!」
浩太は唸る様に言うと、荒々しく小屋の扉を蹴り開ける。
左右を睨みながら素早く中に入り込んだ浩太に続き、俺も小屋の中に足を踏み入れた。
小屋の中は俺達が抵抗した時のままで、何かの破片や包丁が壁際に散乱している。
あの黒い影の姿はない。
俺達は静かに進み、例の札の貼られた扉の前で止まった。
行くぞ、と浩太が顎で合図し、思いっきり扉を蹴り破る。
「柚衣!!」
俺達2人は同時に叫びながら、部屋に転がり込んだ。
部屋の中には…………柚衣がいた。
丸裸のまま、両手首を天井から吊るした縄で縛られ、足も同じく縄で床に固定されて。
「柚衣っ!!!」
俺はもう一度叫んだ。
「………………ん………………」
柚衣が薄く目を開く。生きている。
俺達はすぐに柚衣の駆け寄った。幼馴染の裸を直に見ていても、性的な気持ちは全く沸かない。
それよりも、ただ単純に、柚衣が生きていた事が嬉しかった。
俺は万が一のために用意したナイフをポケットから取り出し、柚衣の手首を縛る縄を切りに掛かる。
ただこの縄、汗を吸っているのか変に滑って切りにくい。かといって思いっきりナイフを引くと、柚衣の手首を傷つけかねない。
何度も姿勢を変えながら悪戦苦闘する。
両足のポジションを変えるたび、靴で変なものを踏んでしまって気色悪い。
滑りやすい透明な汁、ニチャニチャと靴底にくっつく液……。
多分、床が所々腐って湿っているせいだろう。
何とか手首の縄を切った所で、俺は一瞬ぎょっとした。
柚衣の手首周りが、ナイフで切り裂いてしまったかと思えるほど真っ赤になっていたからだ。
どんな縛られ方をすれば、これほどくっきりと縄の痕が残るんだ。

 ――女を奴隷のように弄び――

神主から聞かされた男の所業が頭を過ぎる。でも、いや、まさか。まさか。
柚衣はただ裸に剥かれて、縛られているだけじゃないか。こんなのはただの儀式なんだ。
そう考えながら、俺は柚衣の足首を縛る縄に取り掛かる。
今度は手首に比べれば大分やりやすい。それでもある程度時間が掛かりそうだ。
俺が必死に縄を切ろうとしていると、突然柚衣が足をばたつかせ始めた。
縄が食い込んだりして痛いのかと思ったけど、どうやらそうじゃない。
柚衣の目は、部屋の遠くの一点を凝視して怯えている。
「やめ、てっ…………はや…………にげ、て………………。
 …………あ、アイツが…………アイツが、くるっ………………!!!」
アイツ。その言葉が何を指すのかは明らかだった。
「貸せっ!!」
部屋を見張っていた浩太が叫び、俺からナイフを奪って素早く縄にこすり付ける。
力が強いせいか縄はあっけなく切れる。それと同時に、俺の頭上で“あの声”が響き始めた。
「アァ……アアア゛ア゛…………ァアア゛ア゛…………」
拷問の果てに縊り殺される人間の断末魔。見上げなくても解る、あの黒い影だ。
「ヤァタ!!」
浩太はすかさず神主さんに教わった真言を唱える。一瞬、俺の頭上で影が止まったようだ。
そう感じた瞬間、俺は柚衣の手を引いて部屋から駆け出した。
とにかく早く外へ。俺達が逃げ遂せないと、浩太だって逃げられない。
無我夢中で走り、小屋の扉を肩から当たって押し開ける。
背後では、浩太が真言を唱えながら清めの塩をばら撒いて応戦している。
ただ、それで影が怯む様子はもうない。
「あがあがうぅううああおおあっ!!!」
俺達が小屋からまろび出た直後、浩太の絶叫が響いた。俺があの黒い影に触られた時と同じような声だ。
振り返りたかったが、そんな事をしては意味がない。
俺は獣道をひた走った。途中、浩太も小屋の扉を開けて飛び出してきたのが解った。
浩太も俺を追うようにして獣道を下っている。ただし、あの黒い影も一緒に。
浩太は影に上半身を覆われながら、何かを叫び続けていた。
正直、何を叫んでいるのか解らない。人間の発する声ではないように思える。
そしてその声は、黒い影の発する奇声と一体となって、俺達のすぐ近くにまで迫ってきていた。
村まではあと少しのはずなのに。
「ヤァタ!!」
俺は無我夢中で真言を叫んだ。一度じゃなく、二度も、三度も。それでも影は止まらない。
そして、とうとう声が首筋にまで迫り、追いつかれると覚悟した時。
「ヤァタッ!!!」
驚くほどの大声で、柚衣が真言を叫んだ。その瞬間、黒い影が千切れるように浩太から離れ、地面に落ちる。
効いたのか。女性の、柚衣の唱える真言なら効くのか。
禍々しい気配は変わらないものの、黒い影の追い足は今、明らかに弱まっている。
「浩太っ!!」
俺は背後を振り返り、絶句した。
浩太は、数日前の俺とは比較にならないほどひどい有様になっていた。
顔中からあらゆる体液を噴出すのは勿論、その毒々しく赤らんだ目は、あの影にそっくりだ。
俺の一瞬の接触とは違い、何度も、何度もあの影を足止めしたせいか。
「だ、だい、じょうぶだ…………さきにいへ……い、そげ…………!!」
浩太は泥酔するような状態ながらも、俺の後を追って獣道を駆け下りてくる。
柚衣も繋いだ手の先で、脚の痛みに耐えながら必死についてきている。
そしてそのまま走り続け、俺達はついに、神主さん達の待つ森の入口に辿り着いた。



村へ帰った俺と柚衣、浩太は、神社の本殿へと通され、身の穢れを祓うための禊を受けさせられた。
受けた穢れの重さが違うため、当然禊も一人一人違う。
俺は今回ほとんど穢れを受けなかったため、背中にお札を貼られ、全身に塩を浴びせられる程度で済んだ。
ところが、これが柚衣となると訳が違う。
柚衣はまず神主の親族十数人が大声で真言を唱える中で、延々と体内を清められた。
全裸に白装束だけを着た状態で、清めの水や酒、酢を延々と飲まされる。
ある程度飲ませると、女の人が柚衣の喉の奥に指を突っ込んで、胃の中の物を完全に吐き戻させる。
これを延々と繰り返すんだ。
細い両腕をそれぞれ大人の男に抱えられ、身動きを封じられたまま喉奥を弄繰り回され、
聞くに堪えないようなえづき声を上げながら嘔吐する。
この繰り返しははっきり言って、傍目には拷問にしか映らなかった。
他にも滝行やら、男子禁制の社での儀式やら、色々とやらされていたようだ。
そして浩太に至っては、それよりもさらに高度な穢れ祓いが課せられるらしい。
しばらくは会う事さえ禁じられているから、実際どういう内容なのかはまったく解らない。
でも、なるべく苦しい方法でない事を祈るばかりだ。
俺達を庇った事が原因でさらに苦しむなんて、親友にしてほしくない。

清めが終わった後、俺は神主さんに呼ばれ、柚衣の事について教えてもらった。
薄々解っていた事だが、神主さんは人間の穢れた部分が目に見えて解るらしい。
その神主さんが禊の中で見た限り、柚衣の穢れは身体の至る所――つまりは、『あそこ』の中にさえ存在したという。
「恐らくあの子は、小屋に監禁されると同時に、強姦に近い行為を何度もさせられていたんだ」
神主さんは、怒りに手を震わせながらそう語った。
俺は、この一言に頭を殴られたような衝撃を受けた。
勿論、まったく考えなかったわけじゃない。柚衣が裸で縛られているのを見た時点で、“そういうこと”の可能性は脳裏にあった。
でも、まさかあの柚衣が。そう思って、頑なに認めずにいたんだ。
「…………何で、その話を俺に?」
しばらくの沈黙の後、俺はどうしても気になってそう訊ねた。
すると神主さんは、どこか遠くを見るような目をした後、その瞳を俺に下ろす。
「いずれ、君が柚衣を支えることになるからだ。
 その時は、どうか柚衣の身を第一に案じ、幸せにする決断をしてくれ。今度こそ、ね」
真っ直ぐ俺を見つめて発される神主さんの言葉は。
そこには、この人なら先の何かが見えているのかもしれない……そういう説得力があった。



結局、この年の慈心祭は俺達のせいで取りやめとなり、村の人から微妙に監視されながら日々を送った。
あまり外で遊ばない方が良さそうだったので、この間は3人でトランプなどをしているばかりだった。
禊が効いたのか、柚衣も浩太もいつも通りだ。特に浩太は心配だったけど、特に変なところはない。
俺は、いつも通りの日常が戻ってきた事が素直に嬉しかった。
ただ、何もかもが前の通り、ってわけじゃない。

 ――小屋に監禁されると同時に、強姦に近い行為を何度もさせられていたんだ

神主さんの言葉を思い出す。
目の前には、夏服から覗く柚衣の膝小僧が見える。
夏の日差しの下で毎日駆け回ってるのがウソみたいな白い膝。
白――白。
そうだ。あの時は夢中だったからほとんど意識してなかったけど、俺は小屋に突入した時、柚衣の裸を見てるんだ。
「!!」
俺はこの時、ヤバイ感覚を感じて座りなおした。
「どしたの?」
柚衣が澄んだ瞳で見てくる。何も知らないという風だ。
「いや、ち、ちょっとトイレ…………」
俺は半笑いになりつつ、なるべく柚衣達に正対しないように立ち上がって廊下へ出た。
部屋の明かりが漏れる廊下に出た瞬間、柚衣と浩太の笑い声が聴こえてくる。
どうやらバレなかったみたいだ。俺が、勃起していることは。
トイレに入ってパンツを下ろすと、たちまち硬くなった物が弾け出た。
痛いぐらいガチガチに勃起してる。
もしあのまま妄想を続けてたら、きっとパンツの盛り上がりで柚衣にも知られていただろう。
柚衣。
柚衣の、ハダカ。
縛られた柚衣を見つけた時の光景は、その時の嬉しさのせいか、はっきりと網膜に焼きついてしまっている。
柚衣の胸は結構あった。なんとか手の平に乗せて持ち上げられるくらいには。
これまで柚衣を女として見ることなんてなかったから、まずそれが衝撃的だった。
あそこの毛も薄くだけど生えていた。
俺自身も生えているから何も不思議ではないんだけど、女の子の毛は妙にいやらしくみえた。
そして、肌。
柚衣はボロ小屋に監禁されていただけあって、肩とか背中とか足とか、全身が薄汚れてたんだけど、
それでも元の肌が綺麗なのははっきりわかった。
正直、エロかった。ものすごく。
そんな柚衣が………………犯されたのか。
あの粘土みたいな異臭のする小屋で、赤い目のバケモノに。
そう思うと居たたまれない。でも同時に、俺は相も変わらず勃起していた。
俺は、改めて自分がクズだと思った。

あの時の事は覚えてない。柚衣は俺達にそう言った。
俺達がちょうど小屋を見つけた辺りから、助け出される前後までの記憶がすっかり抜け落ちていると。
それが本当なら、まだ救いがある。嫌な記憶なんてないに越したことはない。
でも本当かは解らない。だって柚衣は、ここ一番のウソが上手いから。
実は全部覚えていて、俺達や家族に変な気を使わせないようにと黙っているだけかもしれない。
いずれにせよ、当事者の柚衣が言わない限り、何が起こったかは永遠に闇の中だ。
その、はずだった。



夢を見ている。
なんとなく、最初からそれが解った。
あの事件から何日かは、疲れすぎてたせいか全く夢を見なかったから、本当に久しぶりだ。
そんな分析ができるほどの冷静ささえあった。
窓のない部屋の中なのか、辺りは暗い。それでも目を慣らすまでもなく、壁が木で出来ていることが見て取れる。
さすがは夢の中、都合がいいことだ。
そんな事を思いながら、さらに部屋の中を見回して、俺は凍りついた。

柚衣がいる。
水玉のキャミソールに、ハーフパンツ。あの事件があった日の格好のままだ。
「柚衣!!」
俺は声を出そうとしたが、上手くいかない。掠れた息が喉から出るだけだ。
柚衣は俺には全く気付かないのか、こっちに身体の横側を見せる形で立ち尽くしていた。
腕を横に上げたまま。
それに気付いた瞬間、俺の背筋をゾクッと冷たいものが走る。
その不自然なポーズには見覚えがあった。
いきなり姿を消した柚衣を、お札の部屋で見つけた時の格好だ。
「柚衣!柚衣!何してるんだよ、おいっ!!」
俺は堪らず叫ぶ。柚衣がその格好を取っているのはまずい。なぜかそう確信していた。
でも柚衣は気付かない。
そうこうしているうちに、俺の恐れていた事が起こり始める。

『アアァア……アアア゛ア゛…………ァアアア゛ア゛………………』

忘れられない。忘れられるわけがない。
あの首を絞められたような声が、部屋のどこかから聴こえてくる。
その声を耳にした瞬間、俺は完全に固まってしまった。
もう声も出ない。出したくない。これが夢だって事は解ってる。でも、夢の中だろうと怖いものは怖い。
しばらくあの奇声が続いた後、柚衣のすぐ横にあの黒い影が姿を表した。
薄暗い部屋の中でもはっきりと見える。
火事の時に充満する真っ黒い煙が、人型に留まっているような感じだ。
そして相変わらず、目に当たる部分だけは異様に赤く光っている。
改めて見ても寒気が止まらない。これが元人間なんてとても信じられない。
性質の悪い強姦魔の成れの果て。それが柚衣の傍にいる。
『逃げろ、柚衣!』
そう叫びたかったけど、やはり声は出なかった。
「………………」
影に真横まで近づかれても、柚衣は何も反応を示さない。
ただ虚ろな様子で、正面にある扉の方を見ているだけだ。
まるでマネキンのようなその顔は、黒い影とはまた種類の違う不気味さがあった。
黒い影は人型を保ったまま、腕らしき部分でその柚衣に触れる。
俺は思わず息を呑んだ。
影の一部が柚衣の胸の辺りを往復し、それにあわせてキャミソールに皺が寄る。
胸を揉んでるんだ。やっぱりあのバケモノには、女を強姦しまくっていた頃の記憶が残っているらしい。
そのうち、胸を揉む方とは逆の腕が、柚衣の下腹を通ってハーフパンツの中に入り込む。
ハーフパンツのボタンが凄い力が加わったように弾け飛び、膨らんだショーツが覗く。
上部分にレース、正面にピンクのリボンがついた可愛いショーツ。
見覚えがある。間違いなく、あの日柚衣が穿いていたものだ。そこにバケモノの手が入り込んでいる。
性的な知識がろくにない俺でも、柚衣のあそこに触っているんだとわかった。
そのまま、どのくらい経っただろう。ほんの数十秒ほどかもしれないし、もっとかもしれない。
「!!」
それまでされるがままだった柚衣が、ある瞬間に、いきなり目を見開いた。
そして自分に纏わりつく影を見て、顔を強張らせる。
俺が知る柚衣らしい反応だ。

「きゃああああああぁぁっっ!!!」

金切り声のような悲鳴。これには聞き覚えがある。俺達が小屋から逃げ出した時、後ろから聞こえてきた悲鳴だ。

俺はここで目を覚ました。薄い掛け布団を跳ね飛ばした身体には、ぐっしょりと汗を掻いていた。
悪い夢にもほどがある。
最後の悲鳴には確かに聞き覚えがあるけど、聞こえた状況が違う。
あれは俺達がいなくなった柚衣を見つけた後、黒い影に追われながら耳にしたものだ。
柚衣が黒い影に襲われる中で発したなら、状況が矛盾する。
でも単なる気のせいで片付けるには、あまりにもリアルだった。
あれは、本当に柚衣の声なんだろうか。俺はその日の昼に柚衣と遊んだ時も、延々とそれを考えていた。
なんか変だよ、と言われたけど、考えずにはいられない。
あの悲鳴と、柚衣の喋り声。やっぱり似ている気がする。何だかモヤモヤする。
今思えば、浩太も何か思うところがあったのか、この日はいつもより妙に口数が少なかった。

そして俺は、この日から毎晩、黒いバケモノと柚衣の夢を見るようになる。


薄暗い部屋。
そこにいる事がわかった時点で、俺はあの夢の続きなんだと直感的に理解した。
部屋の中央に柚衣とバケモノの姿がある。
柚衣は震えながら後ずさり、バケモノと距離を取ろうとしているらしかった。
でもすぐに壁にぶち当たる。
影は揺れるような動きで柚衣に迫り、輪郭の定まらない腕で掴み掛かる。
柚衣の着ていた水玉のキャミソールは、一瞬にして引き裂かれた。
信じられない力だ。改めて、バケモノがこの世のものでないことを認識させられる。
「ひ、ひぃっ…………」
柚衣は可愛そうなぐらい怯えきって、零れ出た胸を手で隠した。
でも影はその柚衣にさらに襲い掛かり、ハーフパンツさえ奪いに掛かる。
ボタンが弾け跳んでいるから、柚衣がいくら内股気味に抵抗しても、脱がされるのはあっという間だった。
「やめっ、やめてぇっっ!!」
その声が聞こえた時には、ショーツさえ膝下までずり下ろされてしまっている。
俺はもう居てもたってもいられず、後ろから影に飛びつこうとした。
でも金縛りというやつか、柚衣達とは逆側の壁際に座り込む状態のまま、指一本さえ動かせない。
その代わり意識だけはハッキリしていて、暗がりの中での視力も、衣擦れの音を聞く聴力も、普段以上に鋭い。
まるで、目の前の情報をムリヤリ脳へ伝えられてるみたいに。

「いやーっ、いやーーっっ!!」
柚衣は尻餅をついた状態で、必死に影に抵抗していた。
でも暴れているのは腰から上だけで、影の手に掴まれている足はピクリとも動かせていない。
影はそんな柚衣に大きく足を開かせ、腰を近づけていく。
俺は、ヤラれるんだ、と絶望的な気持ちでそれを見つめていた。
黒い影と柚衣の体が密着する。見た目には裸の柚衣が煙に包まれているみたいだ。
そして直後、いきなり柚衣の右脚が大きく跳ね上がった。
「痛い!!」
柚衣は叫びながら、両足の裏で床を蹴ったり、影の肩の辺りを引っ掻いたりしながら暴れ始める。
柚衣は処女だったんだ。だから破瓜の痛みで叫んだ。
でも当時の俺にそんな知識がなかったから、あそこが裂けたんじゃ、と思ってハラハラしていた。
影は腕で柚衣の膝下を押さえつけるようにしながら、さらに腰を打ちつけていく。
「いたい、いたいぃ…………!!」
柚衣は悲痛な声で泣いていた。その弱弱しい声には覚えがある。
小さい頃、山で追いかけっこをしていた時に、転んだ拍子で柚衣の足に木の枝が刺さってしまったことがある。
幸い傷は大したことなかったけど、その時の柚衣も血を流しながら、今とまったく同じ調子で泣いていた。
こんな悪夢を現実だとは思いたくない。
でもこの柚衣の反応は、本物の柚衣とあまりにも似すぎている。
いや、気のせいだ。そもそも夢っていうのは、現実に経験した事を形を変えて見るもの。
だからこれも、神主さんから聞いた『柚衣が暴行された』という話を、俺の脳が勝手に想像した結果に違いない。
俺は無理矢理にそう納得しようとする。
でも、しきれない。
柚衣の漏らす苦しそうな声。荒い息遣い。手足の指や筋肉の細かな動き。
それはただの夢にしては生々しすぎた。
おまけに夢にありがちな、気がついたら場面がまったく違っているという事もない。
ただ延々と、柚衣が犯される光景が続いた。

次の日に柚衣と顔を合わせるのは、前以上に気まずかった。
まともに柚衣と視線を合わせられない。
あれが夢か現実かはともかく、セックスしている所を見てしまったんだから。
「ねえ、大丈夫?」
そんな俺を、柚衣の顔が覗き込んだ。
少し首を傾ければ、そのままキスができそうな距離だ。
シャンプーの良い匂いが鼻腔一杯に広がる。
幼馴染だからこその距離感のなさに、今更ながらに困惑してしまう。
正直、たまらない。
いくら普通を装って柚衣と笑いあったって、どうせまた夜に眠ると、彼女が犯される夢を見てしまうんだから。



「あっ、あっ、ああっ…………」

暗闇の中、荒い息に混じって、生々しい喘ぎ声が聴こえてくる。
15年のつきあいで、柚衣のこんな声は聞いた事もない。
走った時に息が荒くなるのは何度となく聞いたけど、今目の前で吐かれている息は、そういう類の喘ぎとはまた違う。
もっと真剣というか、切羽詰っているというか、無関係の人間が踏み入れない感じの呼吸。
リアルだ。
多分現実世界の枕の匂いか何かだろうけど、独特の臭いまで嗅げてしまう。

柚衣は、もう痛いとは言わなくなっていた。
片脚を抱え上げられたまま、横倒しになる格好で犯されている。
薄い茂みの下に、黒い影のモノが出入りしているのが丸見えだった。肉のビラビラが捲り上がるのが何度も見えた。
抜き挿しのたびに、にっちゃ、にっちゃ、と粘ついた音が立つ。
そしてその音がする度に、目を閉じた柚衣が眉を顰める。
その頬は灰色に汚れていた。頬だけじゃなく、胸も脇腹も、床に触れた部分全部が煤けている。
せめて柚衣の全身が白いままなら、目の前の情景をウソだと切り捨てられるのに、刻一刻とリアルに薄汚れていく。
ここまで細部が再現され、理屈の通った夢は経験がない。きっとこれは夢じゃない。
俺はいい加減、その事実を心の中で認めはじめていた。
そうなると本当につらい。幼馴染が犯されているという『現実』を、金縛りに遭ったままで見続けないといけないんだから。

柚衣は犯されて苦しそうにはするものの、段々と抵抗をしなくなっていった。
唯一嫌そうな素振りを見せるのは、影の物を咥えさせられる時だ。
影は柚衣を犯した後、必ず不気味に直立し、柚衣にあそこを舐めさせようとする。
柚衣はそこで必ず黒髪を振って拒絶した。今の今まで自分の中に入っていた物なんて、口に入れたい筈がない。
でも結局は頭を掴まれ、強引に咥えさせられるんだ。
「ん、んんっ…………んむっ、ううっ……んっ…………」
鼻を抜けるような苦しそうな声がする。
その声と同調するように、膝立ちのままの柚衣の太腿が何度も強張り、背中に黒髪が揺れる。
正直それは、セックスとはまた違う刺激があった。

影はしばらく柚衣に自分の物をしゃぶらせると、また足を掴んで犯し始める。
その時の体位は様々だった。
正面から抱き合う格好、後ろから腰を打ちつける格好、互い違いに交わる格好、柚衣を自分の上に乗せて腰を振らせる格好。
アダルトビデオすら見た事のない当時の俺にとって、この光景は刺激的だ。
股間が熱く、ズボンを突き破りそうなほど勃起しているのが自覚できた。
翌朝、俺は自分が射精している事に気付いて、ひどい自己嫌悪に陥った事を覚えている。
柚衣と話していると変に緊張するようにもなってしまい、逆に浩太と話す時は気楽でいられた。
だから3人で遊んだ後も、浩太の家に上がり、2人で馬鹿話をする事が多かった。
そんなある日、ちょうど会話のネタも尽きて沈黙が下りた所で、浩太が急に声のトーンを変えて言ったんだ。
「なぁ。お前最近、変な夢見ないか?」
「な……何だよ、変な夢って」
「気のせいならいいんだけどよ。最近のお前見てっと、多分俺と同じ夢見てんじゃねぇかと思ってさ」
そこから浩太が語り始めたのは、驚くことに俺と見たものと全く同じ内容の夢だった。
こうなるとさすがに偶然とは思えない。
「やっぱあのバケモンが、あの小屋で起こってた事を俺達に見せてんのかな」
浩太の言葉に寒気が走る。
あのバケモノが俺達を恨んでしてる事だとすれば、夢が最後の場面までいった後、どうなるんだろう。
またあの影が現れて、取り殺されるんじゃないか。
そんな気がした。
でも、だからといって神社にお札などを貰いに行く気にはなれない。
もしそれをすれば、神主さんの一族から、どんな夢を見たのか全て話すよう言われるだろう。
それは嫌だったんだ。
柚衣の受けた凌辱を知っているのは、せめて俺達だけにしておきたかった。
それに、その夜の最後、別れる前に浩太が言ったんだ。
「大丈夫。俺らの前に、あのバケモノは来ねぇよ」
俺の目を見ながら、浩太ははっきりとそう言い切った。
根拠なんてある筈もないのに、不思議と俺は、その言葉を聞いて安心した。
不思議なぐらいあっさりと、大丈夫という親友の言葉を信じたんだ。

その夜も、その次の夜も、俺は柚衣が犯される夢を『見せられた』。
「あっ……ああっ……ああぁ、ああっ…………」
にちゃにちゃという音に混じって、柚衣の喘ぎが響く。
柚衣は体中を床の埃で薄汚れさせながら、完全にされるがままになっていた。
夢で犯されている時間は、多分もう十数時間にもなる。疲れ切っているんだろう、と俺は思った。
でもどうやら、それだけじゃないらしい。
最初に異変に気付いたのは、柚衣が両脚を掴み上げられ、閉じた脚の間へと挿入されている時だ。
「ああぁっ…………ふぅっあ、ああっあ、あっ………………!」
柚衣は相変わらず苦しそうな喘ぎを漏らしていた。
薄く開いた目は潤んでいて、泣いているように見える。でも一瞬、その目がひどく蕩けているように映ったんだ。
「!?」
俺は目を疑った。でも一度気付いてしまうと、柚衣が快感を得ているようにしか見えなくなる。
潤んだ目も、上気した頬も、閉じない唇も。
投げ出された手が時々内に握り込まれるのも、真上に上げた足がぴくぴくと痙攣しているのも。
全部、『気持ちいい』からじゃないのか。
その仄かな疑惑は、段々と確信へ変わっていく。

「はあっ…………ぁう、くっ……んぁあっ、はぁ…………っあっ…………!!」
柚衣はバケモノの上に跨って腰を振りつつ、歯を食いしばって何かに耐えていた。
「ふ……っぁ」
風邪を引いたようなその顔は、そのうち目の焦点を結ばない無表情に変わる。
その度に柚衣ははっとしたように頭を振り、何かを追い払う。
それでも刻一刻と無表情の時間が多くなっていき、ついには口の端から涎まで垂れ始めた。
村の皆から利発そうだと言われる普段の柚衣では、絶対に考えられないことだ。

疑惑が決定的になったのは、犯される体位が後背位に移ってからだった。
腰を高く掲げさせ、大股開きの両足をピンと伸ばさせたまま、背後から犯す。
影はこういう誰かに見せ付けるような体位をよく選んだ。
すらっとした脚の間から、床に肘をついた柚衣の上半身が覗くので、確かにひどく刺激的だ。
他のどんな体位より、15歳のまだ細い身体が犯されている、という事実が伝わってくる。
床に黒髪を広げたまま、叫ぶように口を開ける柚衣の表情まで見えて、心が痛む。
でも今は、それ以上に衝撃的な事がある。
黒い影が腰を打ちつけるたび、結合部から、ぽたっ、ぽたっ、と雫が垂れているんだ。
雫の源は、間違いなく柚衣のあそこだった。
時々粘膜を覗かせる割れ目がひくつくたび、両の内腿へ透明な筋が伝い落ち、同時に茂みからぽたぽたと垂れていく。
それが何を意味するのかは、流石の俺でも理解できた。
「………はーっ、はぁーっ……あっ、あっ………や、やめてっ、奥……もぉ、おくは…………んっ!
 …………がまん、できなっ………………お、おかしくなっちゃう………………っ!!!」
柚衣は薄く目を閉じ、たまらないという風に呟いている。
がくがくと痙攣するその細長い脚は、まだまだ俺達と同じく青さの残るものだ。
でもその間に隠された女の部分は、影によってすっかり成熟させられてしまったらしい。
その事実に俺は、金槌で頭を殴られたようなショックを受けた。
涙まで出た。
柚衣が、俺達の大切な幼馴染が、変えられてしまったんだ。あんな得体の知れないバケモノの手で。
それが悔しく、恐ろしく、そしてただただ悲しい。

金縛りのまま泣く俺を嘲笑うように、影はその後も柚衣と交わり続けた。
この辺りから柚衣の反応も、いよいよ余裕のないものになっていく。
「っああーーっ!! ああぁあぁっああああーーーーっ!!」
大股開きのまま正常位で犯されながら、何度も天井を仰ぎ、裏返った声で叫ぶ事もある。
そしてそういう反応を見せた後は、決まって潮を噴いた。
「んんーーーーーっ…………!!」
影が物を抜いた瞬間、唇を結んでたまらなそうな声を出しながら、小便のようなものを撒き散らすんだ。
量はごく僅かに飛沫くだけの時もあれば、太い放物線を描くときもある。
当時の俺はそれを“お漏らし”だと思ったけど、どっちにしろ異常なことには変わりない。
その異常は、それからも延々と続いた。
「いやぁ、いや……いや………………いやぁぁああっ………………!!」
柚衣は薄汚れた腕で目を覆いながら、ひたすらそう繰り返すようになった。
犯されて感じる事が嫌でたまらないのに、どうしようもないんだろう。
影はそんな柚衣に対して容赦しない。
それどころか、縄で柚衣の手足を縛り、不自然な格好で楽しむ事までしはじめた。
柚衣はその不自然な格好でのセックスで、さらに余裕をなくしていく。

俺が熱を出して寝込み、ようやく回復して柚衣を助けに行くまでに3日以上。
それと同じだけ、柚衣は俺の夢の中で犯され続けたんだ。
改めて、自分の不甲斐なさに腹が立つ。
あそこで倒れたりせず、這ってでも救出に向かっていれば、柚衣の苦しみも少なくて済んだのに。
全部の夢を見終わった後、俺は浩太にそう胸の内を語った。
すると浩太は首を振る。
「いや。お前が元気になってからでなきゃ、そもそも柚衣をあの小屋から助け出せてねぇよ。
 這うようなザマで行ってたら、お前まであのバケモノにやられてたって」
親友のその言葉に、俺は少し救われた気がした。
何でだろう。確かに浩太の言葉は昔から頼もしかったけど、今はそれとはまた違う迫力を感じる。

「――――俺よぉ」
浩太はどこか遠くを眺めながら、呟くように言った。
「ガキの頃から、柚衣が好きだったんだ」
「!!」
突然の告白に、俺は思わず度肝を抜かれる。
何で今、急に。いや、あの夢を2人して見た今だからこそ、なのかもしれない。
「ま、どこが好きかって聞かれても困るんだけどな。ただいつの間にか、何となく好きになってた。
 でも、俺らの関係壊したくもなかったしさ。ずーっと……黙ってた」
浩太はそこで俺の方を向く。なぜか、ひどく寂しそうな目で。
「お前は?」
「…………お、俺も、同じだよ」
浩太の問いに、俺はそう答えた。嘘じゃない。
これまであんまり意識した事もなかったけど、犯される柚衣を見て涙を流しながら、ようやく気付いた。
俺もずっと前から、柚衣が好きだったんだ。
「だよな」
浩太は頷きながら言った。
「要するに俺らは、恋のライバルってわけだ?」
俺はやや冗談めかして笑った。浩太なら空気を読んで、おう負けねぇぞ、なんて返してくれるはずだった。
でも、浩太はここで押し黙る。
「…………ああ。ライバル、“だった”」
「“だった”?」
発言の意図が掴めず、俺は聞いたままを繰り返した。
「俺は、ここで身を引く。柚衣を幸せにすんのは、お前に譲る」
「な…………何言ってんだよ!?」
俺はひどく戸惑った。負けず嫌いな浩太の言葉とは思えない。
木登りだって駆けっこだって、絶対に俺に負けるかと意地を見せてたじゃないか。柚衣の見ている前だと特にそうだった。
そんな浩太が、どうしてこんなにあっさりと引き下がるんだ。
「んな目ェすんなよ。柚衣を幸せに出来んのはお前だけだって思うからだよ」
聞き覚えのある言葉。

『いずれ、君が柚衣を支えることになるからだ。
 その時は、どうか柚衣の身を第一に案じ、幸せにする決断をしてくれ。今度こそ、ね』

禊を終えた後、神主さんに諭された時のことを思い出す。
なんだ、2人して。俺をからかっているのか。なんで、俺だけが柚衣を支える事になるんだ?
混乱の最中、浩太が俺に背を向ける。
「………………なぁ。絶対、柚衣を幸せにしろよ。絶対、絶対、守ってやれよ。
 じゃねーと俺、お前を許さねぇから」
その言葉を残して、浩太は建物の影に消える。
「ちょっ、待てって!」
納得しきれない俺が後を追おうとした、その時。

『――ア゛ア゛…………ァアア゛ア゛……』

首を絞められたような呻きが耳を掠める。
「っ!!!」
俺は思わず固まった。そして、震えながら辺りを見回した。
でも、あの影の姿はない。声も一瞬で止んでしまった。後になってみれば、気のせいだったとも思えるほどに。
「何だ、今の…………?」
思わず独り言を漏らしながら、足早に浩太の消えた角を曲がる。
そこに浩太の姿はなかった。見通しがよく、かなり歩かなければ身を隠せるような物さえない畔道なのに。
何なんだ、一体。何かがおかしい。もしかして、こっちが本当の夢なのか。
一瞬そう思ったけど、サンダルで踏みつけた石は間違いなく鈍い痛みを足裏に与えてくる。
これは現実だ。夢よりも不可解だけど、現実なんだ。



この翌日から、浩太は俺達の前に姿を見せなくなった。
家に行ってみても、扉が開かないどころか、人が居る気配すらない。
うちの親や柚衣の家の人に聞いてみても、示し合わせたように『病気で寝てるんだろう』というばかり。
あの浩太が、病気ぐらいで俺達の呼びかけに応えないはずがない。
何かあるんだ。
「浩ちゃん、大丈夫かな…………」
俺の部屋でトランプをしながら、柚衣が言った。
柚衣に変わった様子はない。まるであの悪夢が、本当にただの夢だったんじゃと思えるぐらいに。

俺も柚衣も、本当ならちょくちょく浩太の様子を見に行きたかったけど、すぐにそれどころじゃなくなった。
それぞれの家が、慌しく村を出る準備を始めだしたからだ。
最初は訳が解らなかった。
でも大人達はみんな真剣で、反対できるような感じじゃなかったし、原因が俺達のしでかした事なのは何となくわかったので、大人しく従った。
とりあえず新居の目処がつくまでは、県外にある俺の親戚が運営するホテルへ。
移動するのは、俺と柚衣の家族だけ。
「浩太は?」
そう聞いても、まともに答えてくれることはない。
唯一叔父さんだけが、ぼそりとこう呟いただけだ。
「浩太はもう、あの家にはいない」
俺は引越し準備の合間に、この話を柚衣にした。
すると柚衣も驚いてはいたけど、俺みたいに訳が解らないという感じじゃなく、どこか『やっぱり』という感じだった。

その理由が明らかになったのは、俺達が村を出てから一ヵ月後のことだ。
村に残ることを決めた親戚から神主さんを経て、俺達にある報せがあった。
浩太の遺書が見つかった、と。
桐箱に収められた遺書は、八枚以上あった。そしてその八枚に、びっしりと字が書き込んであった。
最初は、俺達3人の子供の頃の想い出が綴られている。
忘れられない大事件や、よくこんな事を覚えてたなという小さな事、そしてちょっとした秘密の暴露。
柚衣はそれを読みながら何度も涙を拭っていたし、俺も柚衣の目がなければそうしただろう。
でも、俺達の子供時代を追体験するようなその文章は、段々と感じが変わる。
柚衣の発育を性的に捉えるような描写が多くなり、それがどんどん病的になっていく。
そして最後には、柚衣をどういう体位で犯したいか、尻肉の掴み心地はどうか、あそこのしまりはどうかという異様な内容ばかりが並び、
そのあちこちがペンでぐしゃぐしゃに消されていた。
「いやあああっ!!!」
それを目で追ううち、柚衣は頭を抱えて泣き始めた。
俺は思わず遺書を裏返す。こんなのは普通じゃない。
どこか精神的に不安定だったとか理由はあるんだろうけど、あの浩太にこんな事を書かれて、ショックじゃない訳がない。
俺はそう考えて柚衣を慰める。
でも柚衣はしゃくりあげながら、違う、と繰り返した。

ようやく落ち着きを取り戻した柚衣から聞いた話は、次の通りだ。
まず、俺が見た夢。あれはやっぱり夢じゃなく、すべて現実にあったことらしい。
柚衣はあの小屋で延々とバケモノに犯され、そしてその間中、卑猥な言葉を囁かれ続けていた。
俺にはいつもの呻きにしか聞こえなかったけど、柚衣には不思議と理解できたそうだ。
その囁きがまさに、浩太の遺書の後半に書かれていたような内容。
「じゃあまさか、浩太はあのバケモノに…………?」
俺が震えながら言うと、柚衣は静かに頷いた。
正確には、もうずっと前……俺が最初に小屋から逃げ帰り、熱を出して寝込んでいる頃には、半ば憑かれた状態だったと。
俺がまだ倒れている間に、浩太は一人であの小屋に行くと言い出したらしい。
神主さん達は一人じゃ危ないから俺の回復を待てといったけど、浩太は元々俺のせいだからと聞かなかった。
そして例の獣道まで一緒に付き添った神主さんによれば、戻ってきた浩太は、すでに雰囲気が違ったらしい。

『俺さ、いっぺん山入ったんだ、お前がまだ熱出して寝込んでる時。
 今日と同じように、入口まで神主さんに付き添って貰ってさ。でも、そん時は小屋に行けなかった。
 普通に深穢ヶ池に着いちまったんだ。拍子抜けするくらい、すげぇ近かったよ』

あの時の浩太のこの言葉は、半分本当で、半分嘘だったんだ。
浩太は多分、一度目も小屋に辿り着けていた。そこで何かが起きたんだろう。
そして柚衣を助け出して山を下りた時には、もうほとんど浩太は浩太じゃなくなっていた。
俺と柚衣は禊でなんとかなったけど、浩太はもう無理だった。
あのバケモノに憑かれたが最後、神主さんでも為す術がない。
だからしばらく様子を見て、いよいよ危険となれば俺と柚衣を逃がそう、と決めたらしい。

俺はこの話を聞いて、いきなり信じることができなかった。
だって俺にしてみれば、浩太はいつも普通だったんだから。禊が終わった後も、毎日3人で遊んで――
「毎日、じゃないよ」
俺の言葉を遮るように、柚衣は言った。怖いぐらい真剣な表情で。
「…………え?」
「毎日じゃない。浩ちゃんがいないこともあったんだよ」
そう。俺は毎日3人で馬鹿話をしていると思ってたけど、実は柚衣と2人の事もあったらしい。
俺がいかにも浩太がいるように振舞ってたから、柚衣も察して何も言わなかった。
言われてみれば、柚衣が俺にしか話しかけない日があったような気がする。
例の夢のせいで上の空だったから気付かなかったけど、確かにあった。
「浩ちゃん…………ずっと、頑張ってたんだね」
柚衣はそう呟きながら、もう一度遺書を見返し始める。
俺は、その姿を見ながらようやく理解していた。
これだったんだ。神主さんと浩太自身が言った、柚衣を幸せにしてやってくれ、という意味。
浩太は自分がやれない分、柚衣を幸せにする事を俺に託したんだ。多分、最後の最後に残った自我で。


それから、さらに二ヵ月後。俺と柚衣は付き合い始めた。
俺が気持ちに整理をつけた上で告白し、柚衣もそれを受け入れてくれた。
幼馴染だった頃や小屋の件を意識して、変にぎこちなくなる事も多いけど、きっと幸せにしてみせる。
多分今もあの村にいる、俺の大切な親友に誓って……。



                             終

遅すぎた告白

※幼馴染NTRモノ。ハートフルボッコ注意。


俺は今でも、『幼馴染』って言葉を聞くたびに胸が苦しくなる。
ひどく苦い思い出が甦るから。

橋詰沙耶香、それが幼馴染の名前だ。
家はすぐ隣で、家族ぐるみの付き合いがあったから、俺と沙耶香はまだ赤ん坊の頃から一緒に遊んでいた。
家にいる間はお互いどっちかの部屋で遊んで、疲れたらその場で寝る。
俺が沙耶香のベッドで寝入って、沙耶香が俺の部屋へ行って寝たり、その逆もよくあった。
風呂だって毎日一緒に入ってた。
大体2人揃って泥まみれになって帰ってくるから、お互いの親にしても、自分達で洗わせるのが一番だったんだろう。
小5までは、本当に毎日一緒に入った。
「ジュンチー、お風呂沸いたって。いこー」
俺が部屋でテレビを見ていると、隣の窓から沙耶香が声をかけてくる。
ジュンチーっていうのは、俺の『純一』って名前を一部省略した呼び名だ。
小4から小学校卒業までの間、沙耶香の中では俺をそう呼ぶのがマイブームになっていたらしい。
風呂に一緒に入らなくなったのは、小5の夏。沙耶香に生理が来たのがきっかけだった。

その日俺と沙耶香は、部屋で一緒にゲームをしていた。
その途中で一旦沙耶香がトイレに立ち、しばらくしてから悲鳴が上がる。
慌てて俺が駆けつけると、沙耶香は泣きながら『血が、血が!』って俺にすがりついた。
俺ももうパニックになって、2人して泣きながら沙耶香の母親に報告に行ったものだ。
沙耶香のお母さんは、一目見て状況を察したんだろう。心配するどころか、嬉しそうに笑っていたんだ。
俺は訳がわからなくて、おばさん何笑ってんだよ、とか叫んでたと思う。
その夜、沙耶香の家ではパーティーが開かれた。
赤飯が炊かれて、ウチの親も含めて、皆が大人になった沙耶香を祝福してた。
沙耶香は照れたように笑ってた。
俺には説明がなかったから困惑したけど、でも場の雰囲気からめでたい事らしいのは察しがつく。
ただ、その晩いつものように沙耶香と風呂に入ろうとすると、大人の皆に止められた。
まぁ当たり前といえば当たり前なんだけど、当時の俺はゴネたものだ。
でも沙耶香は逆に落ち着き払って、俺の顔を見ながら諭してきた。
その雰囲気と親たちの反応で、俺はようやく、沙耶香との関係性が少し変わったんだと理解したんだ。
もっとも、一緒に遊ぶ事自体はその翌日も変わらなかった。
もう風呂で水を飛ばしたりして遊べない事が、少し寂しいだけだ。長いこと愛用していたアヒルも、その日に捨てた。


沙耶香はルックスが良かった。
俺はへちゃむくれの幼少期から毎日見てきてるから、小さい頃はまったくそう思ってなかったが。
意識が変わったのは、小4の時、沙耶香が誘拐未遂に遭った時だ。
一人で下校している最中、沙耶香は車から降りてきた男数人に、危うく連れ去られそうになったらしい。
ちょうど目撃者がいて悲鳴を上げたから助かったけど、本当に間一髪だったそうだ。
その夜、泣きじゃくる沙耶香を囲みながら、近所の大人達は口々に自衛について話し合っていた。
その時に何度も耳にしたのが、『サヤカちゃんは可愛いから、特に……』という言葉だ。
不思議なもので、自分では別に思っていなくても、大人が口を揃えて可愛いと言っていると、俺にもそう思えてしまう。
それからしばらく、俺は沙耶香を変に意識するようになってしまった。
あんな事件の後だ。大人の見張りとは別に、俺も沙耶香と一緒に下校するよう言われたが、ろくに顔が合わせられない。
結果、沙耶香に『何か隠し事をしているのでは』と勘繰られ、喧嘩になった。
そこから仲直りした後は、俺自身も落ち着いたのか、また沙耶香と普通に喋れるようになった。
ただ、だからって全てが元通りになったわけじゃない。
一度沙耶香を可愛い女の子として見た以上、俺は沙耶香を性的に意識するようになっていた。
俺もちょうど思春期入りたて。
クラスの男子がエロ本やAVを漁り始めた一方で、俺は、あろうことか幼馴染に性の関心を向けてしまっていたんだ。

改めて客観的に見れば、確かに沙耶香は可愛い。
小さい頃はショートだったが、小学校も高学年になると、徐々に髪を伸ばすようになった。
割と身体を動かすのが好きなタイプだったから、長い髪は後ろでゴムを使って留めているのがほとんどだ。
この時点で解ると思うけど、沙耶香は派手なタイプじゃない。
中学に上がると、クラスの女子も化粧もするし、整形してる奴も結構いた。
男子人気はそういうあからさまに垢抜けた女子に集中し、『可愛い子』談義で沙耶香の名前がすぐに挙がることはない。
ただ、地味でも元がいいのが沙耶香だ。
鉄板の可愛い子を粗方言い終えた後、実は……という口調で挙げられる筆頭が沙耶香だった。
そしてそれを聞いて、他の男子も安心したように、だよな、実は俺も、と続く。
要は隠れたファンが多かったわけだ。
そういう時、次に話題になるのが俺だった。俺が沙耶香の幼馴染というのは有名だったから。
『アイツ、橋詰の幼馴染らしいぜ』
『マジかよ!? クソ、いいな…………』
そういう噂を耳にするたび、俺は密かに優越感を覚えたものだった。
どうしても沙耶香の秘密を知りたいという熱心なファンに、菓子パン一個、ジュース一本を見返りとして情報提供した事もある。
何しろ、赤ん坊の頃から見てきた相手だ。話せるネタなんて腐るほどあった。



俺と沙耶香の道が分かれたのは、中学に入ってお互いに部活に入ってからだろう。
沙耶香はテニス部、俺はサッカー部。
それぞれ女子と男子の一番人気の部活で、お互いにそのミーハーぶりをからかった。
とはいえどちらも、最初はかなり熱心に部活をやっていたと思う。
遅くまで練習して、試合にも出た。日程が被っていなければ、お互いの試合を応援に行った。

この時も俺は、密かな優越感に浸れる。
俺が試合前の沙耶香に声を掛ければ、アイツはちゃんと反応してくれるんだ。
それも、他の奴にする反応とは違う。背を向けたままラケットを小さく振り上げるような、ちょっとワイルドな仕草だ。
外ではどちらかといえば大人しめな沙耶香だから、そうした仕草の違和感はよく解る。
その特別な反応を鋭く察して、沙耶香のファンらしき奴が睨んできたりするのが面白かった。
逆に、沙耶香が俺に声援を送る時もそうだ。
その周りに座った男子が沙耶香を見てぎょっとし、俺に恨めしげな視線を寄越すから面白い。

ただ……俺の方は万事順調には行かなかった。分岐点が訪れたのは中二の秋だ。
試合終盤、スライディングでボールを奪いに行ったところ、相手チームの奴に思いっきり膝を蹴られた。
勿論この場合、誰も悪くない。俺も相手も、ボールを奪おうと必死だったが故の事故だ。
ただ、これで俺は膝をやり、二ヶ月入院することになった。
その間は、部員が入れ替わりで来るだけでなく、沙耶香も毎日見舞いに来てくれた。
大抵は、練習後で汗まみれのまま駆けつけてくれた。
沙耶香の汗の匂いは若干甘く思えて、俺は不覚にも何度か勃起した。
テニス部に入ってからの沙耶香はかなり細くなっていて、でも胸はそんなに無かったから、
袖の短い制服だと何かの拍子にスポーツブラが覗く。それもまた興奮を煽る。

俺はとうとうある日、沙耶香が病室から去った後、その残り香とブラ覗きをネタにオナニーした。
沙耶香で抜いたのはこれが初めてだ。
罪悪感は物凄かった。ほとんど姉妹をネタに抜いているのと同じなんだから。
ただ、病室ってのは性欲を発散させる機会がほとんどない。
当時思春期の俺は、一日オナニーしないだけでも勃起が痛くて眠れないような有様だった。
だから沙耶香という、今の今まで傍に居て、しかも可愛い女子をネタにしたのもある意味不可抗力だ。
そして俺は、この時知ってしまった。
沙耶香をネタにオナるのが、罪悪感も相まって、滅茶苦茶気持ちがいい事に……。

幸い俺の怪我は、後遺症が残るようなものじゃなかった。
でも、心の傷は完治しなかったらしい。怪我以来、ボール争奪戦に加わるのが怖くなったんだ。
腰が引けるとかいう次元じゃなく、『ボールを奪わないと』という瞬間が来ると、急に眩暈や吐き気がする。
コーチは俺のその様子を見つけると、すぐにホイッスルを鳴らして試合を中断させた。
部員は全員俺の事故の瞬間を見ているから、文句を言う奴はいない。
むしろ先輩後輩の皆が、大丈夫か、大丈夫ですか、と本気で心配してくれた。
ただ……そういう状況ってのは、俺自身にとってはかなり辛い。
俺がいるせいで妙な空気になるのが耐えられず、俺は段々と部活に顔を出さないようになっていった。
コーチもそれを咎めるようなことは無く、一度面談をして、『無理せず、気が向いたら楽しみに来い』と言ったきりだった。

それまで熱を入れていたサッカーが出来なくなった後、俺はしばらく空っぽだった。
別のスポーツ……バスケや野球も一時は考えたけど、激突やスライディングがトラウマの人間には無理そうだ。
結果、俺はそこそこ勉強をしながらも、華の学生生活を無為に過ごしはじめた。
思えばこの時、俺はかなり勿体無い事をしている。
サッカーをしている男子ってのは学生時代えらくモテるが、俺にも一度、告白してくれた娘がいる。
割とそこそこ可愛くて、いかにもな文学少女って感じの娘だった。
でもあろう事か、俺はその告白を即答で断ったんだ。
理由は2つある。
一つはサッカー部をやめて自暴自棄に陥っていて、彼女と付き合うどころじゃなかったこと。
もう一つは……やっぱり沙耶香の事が頭にあったんだろう。
明確に沙耶香と付き合いたいと意識してた訳ではないにしろ、深層心理では沙耶香を相手に選んでいたらしい。
これは、自分の中の気持ちを見直すには良いチャンスだった。
結局俺は有耶無耶にしてしまったが、もしもこの時に自分の気持ちを整理して行動していれば、
俺と沙耶香の関係はまったく違ったものになっていたはずだ。
それを今になっていくら思ったところで、もう何もかも遅すぎるんだが。



思春期の性欲ってのは、スポーツやら喧嘩やらで発散させないと、恐ろしいほどに溜まってしまう。
俺は、それを溜めてしまっている方だった。
しかも頭の中では、いつでも沙耶香の事ばかり考えてしまう。
以前の間違いがそのまま継続していて、それが思春期のムラムラで増幅された形だ。
その鬱屈した気分の果てに、俺はとうとう劣悪な行動に移ってしまう。

最初のきっかけは偶然だった。
水曜の夕方6時半。俺が何もする事がないので電気を消してベッドで寝ていたところ、ふと隣で電気が点く。
沙耶香が帰ってきたんだ、とすぐに解った。
俺は興味本位で隣の部屋を覗く。
沙耶香はちょうど、窓を開けて換気を行っているところだった。
ちょうど夏が近づいて蒸し暑い季節だったから、締め切った部屋には熱が篭もっていたんだろう。
沙耶香は割とエアコンに弱いので、基本は換気で涼むほうだった。
俺はその様子を何気なく覗いていた。
こちらから沙耶香の部屋は丸見えだが、沙耶香の部屋から俺の方はまったく見えなかっただろう。
俺はこの少し前に、カーテンレールが壊れた事をきっかけにブラインドを設置していた。
この時ブラインドはほとんど閉まっており、中から外がかろうじて見える程度の隙間しかない。
おまけに俺の部屋は電気が消えて暗く、沙耶香の部屋が明るい。
こうした条件が揃っていれば、目を凝らしても俺が覗いている事なんて解らないだろう。
そもそも最初から部屋の電気が消えていれば、普通は部屋にいないか、寝ていると思うに違いない。

実際このとき沙耶香は、俺の視線に微塵も気付いてなかったんだろう。
窓を開け放ってから、そのまま堂々と着替えを始めたんだから。
俺は思わず身を起こす。
この頃、俺は沙耶香とやや疎遠になっていた。
俺がサッカー部の話題に触れて欲しくなかったこと、沙耶香が部活で多忙なこと、思春期の微妙な距離感。
そもそもお互い、同性との付き合いが多くなってくる頃でもある。
そうした要素が関係して、休日すらあまり一緒にいることはなくなっていた。
だからこそ、久々に見る沙耶香の身体は興味深い。
俺は固唾を呑んで沙耶香の着替えを見守った。
制服を脱ぎ、シャツを脱ぎ、ストライプのブラジャーを露出させる。
いつの間にかスポーツブラではなくなっていた。
その理由は、ブラジャーが外された瞬間に判る。
実に小5以来で目にする沙耶香の生の乳は、確かな膨らみが有った。
けっしてでかいとは言えないが、確かにスポーツブラで圧迫するには窮屈そうだ。
お椀半分といった大きさの沙耶香の乳に、俺は心臓が破れそうなほど興奮していた。


それからというもの、俺は沙耶香が部活から帰る頃を見計らって覗きを続けた。
沙耶香は大体は7時前に帰宅した。
俺はその時間を狙い、部屋の電気を消してブラインドの傍に待機しておく。
沙耶香はそんな事とは露知らず、着替えを続けていた。
沙耶香の事は何でも知っているつもりだったが、隠れて着替えを覗いていると、新たな発見が多かった。
たとえば、下着は割と上下不揃いのことが多い。
パンツも大体6種類ぐらいの地味めな色を、順番に履いているようだった。
月曜は薄緑の、火曜は水色の。その順番を、自分の中のルールとしてキッチリ決めているみたいだ。
もちろん、たまに新しいパンツも買われるし、汗をかく季節なんかには、シャワーを浴びるたび履き替えるので順番は崩れる。
それでも、何かしらの法則は決めているらしい。

そして覗きの成果は、着替えだけに留まらなかった。
すっかり俺が不在だと信じているらしく、沙耶香は着替えた後、窓を開けたままでオナニーする事すらあった。
沙耶香の部屋着は、昔から大体はキャミソールとハーフパンツだ。
冬なら場合によってジャージの事もあるが、暑い時期は薄着で通している。
沙耶香はいつも、その馴染みの格好のままオナニーに移っていた。
最初はそんな兆候はない。
ただ普段どおり学習机のノートパソコンを眺めているか、小説を読んでいる。
ところが時々は、その姿勢のまま指が股の間に差し込まれた。
ハーフパンツのボタンを外したまま、ショーツ越しにクリトリスを刺激しているらしい。
大体は指の腹で押すようにするか、下敷きの側面で擦っていた。
時々マウスでパソコンをクリックしたり、閉じかけた小説に折り目をつけたりしながら、10分くらいそれを続ける。
そうしたらその後は、膝の上くらいまでパンツをずり下げて指で刺激しはじめるんだ。
この頃にはもうパソコンとかは見てなくて、目を閉じ、口を半開きにしている。脳内のイメージに浸ってるんだろう。
遠くからだから断言はできないが、手の第二関節は大体見えていて、あまり膣への深い指入れはしていないらしかった。
たまに、パンツを完全に抜いて、机の下で脚をピーンと伸ばしたまま激しくオナニーに耽ることもあった。
改めて見ると、沙耶香の脚は本当に綺麗だ。
テニスを始めてから体型がしゅっと締まって、モデルみたいになってきている。

俺は、沙耶香がオナニーに耽る光景をオカズにして、気付かれないようブラインド裏で扱きまくった。
高まってきて本気で扱くときには、窓の下に身を屈めてやった。
小さい頃から知っている相手だけに、罪悪感は当然あったが、それが余計に性欲を後押しする。
どんなエロ本を見てするより、どんなエロビデオを見てするより、沙耶香を覗きながらオナる方が興奮した。

俺は沙耶香をネタにしてオナニーに耽りつつ、当の沙耶香本人とは距離を置き続けていた。
たまに家の前で偶然会ったときに、短い時間話すぐらいだった。
それすら罪悪感で自然にはできていなかったと思うが。
沙耶香にしてみれば、この頃の俺は『露骨に自分を避けている』という感じだっただろうな。
ただ俺は、この頃聞いた沙耶香の話はどれ一つとして忘れなかった。
沙耶香は、周りで流行っているツイッターはやっていないそうだ。
『ニュースでよく炎上とかやってて、怖いから』だそうだ。
真面目な沙耶香らしいといえば、らしい。
フェイスブックはやっていて、アカウントも教わったが、それも女友達との付き合いで、という感じ。
更新頻度もあまり高くなく、あくまで女友達との絡みが中心だ。
昔から沙耶香は、自己顕示欲が強くない。なまじリアルでモテるせいで、なるべく目立ちたくないんだろう。
小学校低学年までは、結構俺を引っ張り回すやんちゃなタイプだったんだが。

中3になって沙耶香が部活を引退すると、2人とも受験一色になった。
俺にとってこれは好機だ。
微妙にぎくしゃくしていた沙耶香との関係を、勉強会をする事で近づける事ができる。
沙耶香と俺は、昔から同じ高校を狙っていた。
地元でそこに通っているというと、『頭良いのね』と言われるレベルの私立だ。
俺は英語が割と得意で数学が苦手。沙耶香はその逆だったから、一緒に勉強するメリットもある。
俺が勉強会を提案すると、沙耶香は驚きを示した。
妙に距離を置いていた相手から誘われたんだ、当然だろう。
「オッケ!」
親指を立てて返されたその答えが、俺はとても嬉しかった。

本当を言うと俺は、この勉強会の間に沙耶香に告白するつもりでいた。
高校へ上がる前に、半端な関係をキッチリとしたものに変えたかった。
でも……いざとなったら言葉が出ない。
もしも断られたら。その時は、今の幼馴染としての関係すら壊れてしまうのでは。
俺はそれが怖くて、一日、また一日と告白を先延ばしにし続けていた。


受験本番が近くなっても、俺はまるで集中できていなかったと思う。
実際、勉強会の最中に、沙耶香の呼びかけで我に返る事が何度もあった。
「ちょっと、さっきから何見てんの!?」
そう言われて俺は、自分が沙耶香の胸を見ていた事を悟る。
何度も何度も覗き見た、わずかな膨らみだ。
「んと、胸」
訝しむ沙耶香に、俺は正直に答えた。
「はあっ!?」
「いやだから、お前の胸。…………お前、女っぽくなったよな。いつの間にか」
告白への足がかりとして、あえて性的な話題を出す。
しかし、その後には沈黙が降りた。
ほんの数秒だったとは思う。でも俺は、その短い沈黙がひどく怖かった。
沙耶香は数秒ほど口を開けて俺の顔を見た後、我に返る。
「は、はぁ!? バカじゃん!」
そう言って笑った。笑い飛ばされるのは、沈黙よりよほど心地良い。息苦しくない。
だから俺も、その安易な笑いに乗っかってしまった。
「…………ハハ、だな。勉強のしすぎかも。ちょっと休憩すっか!」
臆病者の笑いだ。本気で告白をするつもりなら、気まずいからと退いてはいけなかったのに。

紅茶を飲んで、チョコを齧って、バカ話をして。
俺達の関係は、いつのまにか普段通りに戻ったようだった。
でもこの時よくよく危機感を持って見ていれば、沙耶香の微妙な変化にはいくらでも気付けただろう。
ふとした瞬間ティーカップに落ちる、落胆したような瞳。
普段通りのようでいて、明らかに少ない口数。
ノートに書かれた文字の歪み。
俺はそれら全てを本能的に感じ取りながら、けれども無視し続けていた。
まだまだチャンスはある。まずは2人で同じ高校に合格して、その中でまた機会を窺おう。
そんな逃げの思考に走ってしまっていた。
今なら解る。この世の中、先延ばしの思考をする人間が、栄光を掴むことなど無いと。

数ヵ月後、俺は…………志望高校に落ちた。沙耶香は受かった。
少し前の合否判定では、俺の方が上だったんだ。俺は判定A、沙耶香はB。
お前なら落ちる事はないだろう、と担任からお墨付きを貰うほどだった。
でも、俺は落ちた。
まさか落ちるなんて。しかも、沙耶香と同じ高校にいけないなんて。
俺は部屋で号泣したし、沙耶香も自分が合格している以上、なんと声を掛ければいいか解らない様子だった。

後で知った事だが、実は沙耶香は、志望高校にスポーツ推薦でも行けたらしい。
でもあくまで一般受験がしたいといい、友達から不思議がられたそうだ。
『私だけ、無事に合格するのは嫌だから』
沙耶香はそう答えたらしい。
自分の方が落ちる可能性は高かったのに、スポーツ推薦が無理な俺と足並みを揃えてくれていたんだ。
そして俺は、その期待を最悪な形で裏切ったことになる。





通う高校が分かれてから、俺と沙耶香の生活サイクルにはいよいよ違いが出た。
沙耶香の方が高校が遠いうえ、テニス部の朝練もあるようで、まず家を出る時間が俺より遥かに早い。
逆に帰りは遅く、スポーツに力を入れる高校だからか土日にも練習があるようだった。
挙句には、部活の合宿や友達の家へ泊まるなど外泊も多い。
また俺自身、大学受験に向けて塾へ通い始めたため、いよいよ沙耶香と居る時間がなくなってしまっていた。
ただ、嬉しい事もある。
沙耶香は友達の家に泊まった後は、時々紙袋入りのクッキーをくれた。
『友達の家で焼いたのが余った』というそのクッキーは、本気で市販のものより美味かった。

また、沙耶香も学生だから、平日は基本的に家に帰ってくる。
俺はそのタイミングを狙い、なおも覗きを続けていた。
沙耶香には2つ変化があった。
一つはいつの間にか、不揃いの下着をやめていた事だ。
いつも上下揃いで、フリルつきのピンクなんかの、妙に可愛いものを穿いている事が多くなった。
まあ、沙耶香ももう女子高生。
中学までなら野暮ったい下着で居られても、友達づきあいなどするには可愛い下着も必須なんだろう。
ただ、雑誌の広告にも載っていそうな洒落た下着は、昔のような生々しさが無かったのは事実だ。
そして、もう一つ。
沙耶香は部屋にいる間、全くオナニーをしなくなった。これは下着以上に不思議だ。
確かに女子は、男子のようにはムラムラしないと聞く。でも中学の時は、一週間に一度はしていたんだ。
そこそこ性に興味があるのは間違いない。なぜそれが急になくなったのか?

だが……高校入学から半年あまりが過ぎた頃、とうとう俺は決定的なシーンを覗いてしまう。
沙耶香が携帯で誰かとしゃべっている所だ。
最初はまた女友達だろうと思った。実際、沙耶香が女友達と携帯で話していることは多かった。
けれども、何かおかしい。
話し相手は女じゃない……俺はその匂いを敏感に嗅ぎ取った。
手の仕草といい、口元を抑えるような動きといい。明らかに異性の影を感じさせる。
それに気付いた瞬間、俺の中にむず痒いような疑念が一気に湧き上がった。
おかしい。沙耶香には男が出来たんじゃないのか?
事実を探りたいと思ったが、情報が少ない。
ツイッターはやっていないと言っていたし、フェイスブックのページを見ても変わった様子はない。
色々と考えを巡らせていると、唐突に閃くものがあった。
以前、沙耶香と勉強会をしていたときだ。
休憩時の雑談ついでに沙耶香がスマホをいじり、グーグル検索の結果をみせてきた事がある。
俺はその時、ほんの一瞬見たんだ。
見慣れない、変わったグーグルのアカウント名。
その時は告白の事しか頭になかったからすぐに忘れ去ったが、あれは大きなヒントかもしれない。
俺は全神経を集中し、必死になって記憶を探る。
あ、い、う、え、お……から始めて、一文字ずつ。その甲斐あって、ある時ふっと思い出した。
『サワーメロンキティ』だ。
忘れないうちに、その文字列をパソコンに打ち込んでいく。
直感的に、ツイッターの文字も入れて検索する。

…………ビンゴだった。
変わったアカウント名だけに他の候補もなく、ただ一つのアカウントが検索のトップに躍り出る。
震える指でプロフィールを確認する。
アイコンは、紛れもなく俺のよく見知った顔…………沙耶香のプリクラ写真だ。

やっぱりツイッターをやってたんじゃないか。
以前俺に、ツイッターをやってないと言っていたのは、ウソだったのか。
いや或いは、あの後に人から勧められて始めたのかもしれない。
でもそれなら、俺に教えてくれてもいいじゃないか。
最初から隠すことを前提でアカウントを取ったのか。俺がツイッターを警戒してないのをいい事に。
色々な考えがぐちゃぐちゃと脳裏を渦巻く。
でも、それをいくら考えても仕方がない。問題は、そのツイッターで何が呟かれているのか、だ。

ツイートを追い始めて数分と経たない内に、俺は愕然とした。
そこには、衝撃的な事実が並んでいたからだ。
結論から言えば、沙耶香はこの数ヶ月の間、ある男とやりまくっていた。
相手の苗字は木田。名前はどうやら慶也というらしい。
ツイートの中に、何度も、何度も現れる名前だ。

一番最近の“木田先輩”との出来事は、一緒に水着を買いに行って海浜プールに行ったことらしい。
俺とも行った事がなかったのに。
先週の土曜日……俺は、友達の田舎に遊びに行くのだと聞かされていた。
花火大会の様子を写していた数時間後には、怪しげなキングサイズの回転ベッドを嬉々として撮影して載せていたり、
棚にコンドームが備え付けられている事実を写したりしていた。
ラブホテルだ……俺はショックを受けた。
花火を愉しんだ後に、ラブホテル。そのままやったんだ。行為中の写真はなかったが、その流れがはっきり解る。

ツイートを遡ると、他にもいくつかデートの写真があり、そのままホテルへ行ったと思われる日がいくつかあった。
木田のマンションでオーブンを借りて、クッキーを焼いたという呟きもあった。
完成品の焼き色といい、形といい、見覚えがある。俺が嬉々として大切に食っていた、紙袋入りのクッキーだ。
『友達の家で焼いた』なんて真っ赤な嘘。
木田のために精魂込めて作ったクッキーの余り、だったんだ。
そう思い至った瞬間、俺は強い吐き気を感じた。
あの時嬉々として食べていたものが汚物だったように思えてきて、トイレに駆け込んで吐いた。
多分、沙耶香に悪意は無かったんだろう。せっかく焼いたんだから、俺にも食べさせてあげよう、というだけだったに違いない。
そう解っていても、胃の中からこみ上げるものを我慢できなかった。

トイレから戻り、改めて写真の中の沙耶香を見る。
俺といる時とはまったく違う、心の底から楽しそうな笑顔で沙耶香が笑っている。
こんな面があったのか……と、俺はただ愕然とした。

さらに日を遡ると、まさに決定的な写真が見つかる。
彼氏に撮られたものだろう。カラオケボックスでフェラしている姿を、上から撮った写メだ。
『ちょっと前から、結構仕込まれてる』という呟きもある。
さらにツイートを辿っていくと、絶望が増した。
ついに、一番初めのエッチに関するツイートが出てきたからだ。
まだ興奮冷めやらないらしく、沙耶香は短時間に大量に呟いている。

初めては痛いと聞いていたから、ひどく緊張していたこと。
“木田先輩”はそんな沙耶香を優しく抱きしめ、リラックスさせてから抱いてくれたこと。
物凄く痛くて叫んでも、大丈夫、大丈夫、と耳元で囁いてくれて、その安心感で落ち着きを取り戻せたこと。
初めての相手が慣れた“木田先輩”で、本当に良かったと思うこと……。
そこには木田への深い愛情と、絶対の信頼が見て取れた。
呟かれた日付は、6月20日。
高校入学から2ヶ月ちょっとだ。とすれば木田と知り合ったのは、高校入学から間もない頃だと考えられる。

何枚か2人で撮影したプリクラがあり、それで木田の見た目がわかった。
そこそこ長身で、否定できないレベルのイケメンだ。俳優と言われてもまぁ信じるだろう。
いかにも社会人という感じで、顔立ちにも年季が入ってて、金もありそう。
リーダー気質でグイグイ行く感じなのが、見た目、特に目の感じでわかる。
女にモテるのは勿論、男でもつい頼ってしまうタイプだ。
よりによってそんな奴が恋のライバルなんて、絶望的もいい所だった。
白い歯を覗かせ、いい笑顔で沙耶香の隣に写る木田。
それを睨むうちに、どうしようもない劣等感が湧き上がってくる。
これからどれだけ勉強して、必死に仕事をしたって、俺がこういうイケイケなタイプに成り代わるのは無理だ。
オスとしての魅力で決定的に負けているのが、痛いぐらいに解る。
たとえ俺が沙耶香だったとしても、俺じゃなく木田を彼氏に選ぶに決まっている。
「クソッ!」
俺は、右拳で壁を殴りつけた。予想以上の音がして、壁がへこむ。
明らかに他の部分とは違う陰影のついた壁を見て、ああ親に怒られるな、なんて現実的な計算をする自分が嫌だ。


木田の事はほぼ毎日なにかしら呟かれている一方で、俺に関する呟きは今やほとんど無かった。
けれども最初の方には、割と俺のことと思わしき内容も書いてある。
日付が進むごとに、俺への興味が薄れていっている証拠だ。
沙耶香の心を満たしているのは、あくまで木田。木田なんだ。
じゃあ、その木田ってのはどんな奴なのかが気になる。
ツイッターのプロフィールを見ると、どうやら沙耶香の部活のOBらしい事が解った。
さらにその下には、ブログのURLが貼られている。
俺はそのリンク先に飛び、さらなる衝撃に見舞われた。
木田がブログ提携の動画投稿サイトに、沙耶香とのハメ撮り動画を載せていたからだ。
ものすごい再生数だ。少ないものでも6000、多いものになると40000以上はある。
つまりはそれだけの回数、沙耶香の裸が見られた事になる。
俺はその事実を知っただけで、軽い眩暈のようなものに見舞われた。吐き気も少しする。
『サヤをホテルで開発中☆』
そう題名をつけられたものを再生すると、ラブホテルのベッドで愛撫される沙耶香が映った。
映像は20分単位で、3分割されている。

(1/3)の映像では、沙耶香がベッドに膝立ちになり、その背後から木田がローターで朱色の秘部を弄んでいた。
目の部分にモザイクこそ掛かっているものの、体型や白い肌、そして左脇腹の黒子で間違いなく沙耶香本人だと解る。
まさか、成長した幼馴染の性器を初めて見るのが、こんな形でとは。
『あ……あん…………ああっ…………』
沙耶香は荒い息の合間に、甘い声を上げ続けていた。
木田はクリトリス周辺にローターを這わせつつ、キスを迫り、乳房を揉みしだく。
改めて正面から見ると、沙耶香の胸はそこそこの膨らみがあった。
たぶんCカップ。女子高生という括りで考えれば、やや大きい方じゃないかと思う。
それを、木田の指が愛撫していく。
それが気持ちいいのか、ローターのせいか、沙耶香の腰は円を描くように横向きに揺れていた。

(2/3)では、沙耶香はベッドに仰向けで横たわり、その脚の間に木田が入ってローター責めをしていた。
『ほら、どう? イクの?』
木田は責めながら、沙耶香に問いかける。
沙耶香はさっきの映像以上に甘い声を上げながら、大股を開き、脚をピンと伸ばし、と忙しなく蠢かせている。
『イクんならイッていいんだよ。その代わり、イク時にはちゃんと声出してね。出せるよね。
 …………ほら、どう、イク? イッていいんだよ、ほら』
木田はそうして、言葉で巧みに沙耶香の絶頂を導いているらしい。
『い、いくっ…………いくぅっ…………!!』
沙耶香は、木田の命じた通りに絶頂を宣言した。まるで、躾けられた犬のように。

(3/3)では、とうとう木田と沙耶香のセックスそのものが撮られている。
2の続きらしく、仰向けの沙耶香が大きく脚を開き、その上から木田が圧し掛かって動く。
映像の冒頭部では、沙耶香も脚を閉じ気味で、ただ木田の動きに合わせてシーツの擦れる音がするだけだった。
でも3分が過ぎた辺りから、木田の手が沙耶香の脚を割り開く。
大股を開いた沙耶香の中に、木田の赤黒いアレがねじ込まれる様子がモロに見えはじめる。
『どう、サヤ。サヤはこの角度好きでしょ。好きだよね。今日は、何回イケるかな?
 …………ああ、サヤの子宮、すっごい降りてきてて気持ちいいよ』
木田は常に何かしらの言葉をかけながら腰を打ち込み続けていた。
結合部の状態はよく見えないが、にちゃ、にちゃという音がしっかりと拾われている。
その音を聞くだけで、膣の状態を知るには十分だった。
『んあぁあ、ああっ、ああああっ…………あっ、ああ、いい…………いいぃーっ………………!!』
沙耶香の甘い声もしっかりと聴こえてくる。
俺は、そのセックスを全部見ることはできなかった。映像は10分近く残っているものの、とても耐えられそうにない。

動画には、様々なコメントが付けられていた。
『今度の子も、超可愛い!』
『いつもながら慶也様の細マッチョな体に惚れる、私も抱いて欲しい』
『なんて理想的なイチャラブだ』
全てがそうした賞賛コメントだ。かなり常連がいるらしく、和気藹々とした雰囲気が形成されていた。
そう、歓迎されている。木田と沙耶香の、このセックスは。
俺はやり場の無い怒りに包まれながら、別の動画を再生する。
断じて見たいわけじゃない。ただ、動画を残らず確認せずには居られなかった。

分割も含めて何十本に渡るハメ撮り動画では、様々な体位で沙耶香と木田が交わっている。
『ちょっと前から、結構仕込まれてる』というツイートがあった通り、多くの動画で沙耶香はフェラをしていた。
ソファに掛けた木田の足元に沙耶香が蹲り、黒髪を揺らしてフェラを繰り返す。
熱心な沙耶香の奉仕に木田がコメントするたび、俺の心の中にはどす黒いものが渦巻いた。
セックスシーンも、観ているだけで胸焼けがするようで、苦しくて涙が出た。
タオルで拭っても拭っても涙があふれて止まらなかった。
それでも我ながら呆れるのは、勃起している事だ。
思春期だからか、はち切れるほどに硬く反り立っている。
けれども勃起に耐えかねて扱こうとすると、右拳がひどく痛んだ。
ツイッターで木田の顔を見た瞬間、怒りで壁を殴った部分だ。
骨にヒビが入ってるんじゃないかと思えるぐらい、ズキズキとひどく痛む。とてもオナニーは出来ない。
一度痛みで気分が萎えると、ひどくバカバカしくなり、勃起したままのアレをズボンにしまった。

木田についてさらにネットを漁ると、大学時代・社会人時代を通して何人もの女と関係を持っていた事が判った。
それらの女に対してもハメ撮りビデオを撮影し、別アカウントで公開していることも。
つまりは沙耶香も、女の何人目かに過ぎないわけだ。俺にはそれが無性に腹が立った。
この木田という男は沙耶香に飽きたら、すぐに浮気する。遊ぶだけ遊んだらあとは捨てるだけだ。
沙耶香本人にもこの事実を知らせなければ。
俺はそう思い、証拠を揃えた上で、意を決して沙耶香を部屋に呼ぶ。
でも……その結果は、俺の予想とは全く違っていた。




「バカじゃないの?」
俺の集めた証拠を見た沙耶香の第一声は、それだった。
「なっ……!」
「人のツイッター覗き見た挙句に、こんなの一々持ってきて、それをバカって言ってんの。
 浮気するとか、あんたに何が解るの? 自分がろくに経験ないから、嫉妬してるんでしょ」
沙耶香は、俺に軽蔑しきった瞳を向けた。
喧嘩は数え切れないほどしてきたけど、これほどに感情の無い瞳を向けられるのは初めてだ。
親の仇……まるで、そんな目だった。
「純一なんかが、木田先輩のこと解ったように言わないで。
 木田先輩は本気で私の事考えてくれてるし、大事にしてくれる。幸せにだってしてくれる。
 今はもう、木田先輩以外の人と結婚とか、考えられないから」
冷ややかな口調でそう告げた沙耶香は、それ以上居たくないとばかりに素早く立ち上がる。
俺は座ったまま、反射的にその服の裾を掴んでいた。
「ま、待てよ沙耶香! 俺、お前が好きなんだよっ!!」
この最後の場面で、ようやく口に出来た一言。
今の今まで、幼馴染の関係を壊すのが怖くて言えなかった一言。
それがついに、俺の口から滑りでた。
沙耶香の動きが止まる。もしかして、と俺は思う。
けれども……その最後の望みすら振り払うように、沙耶香の服の裾は俺の指を離れていった。
そのままドアを開き、まさに部屋を出ようとする時、沙耶香は立ち止まる。

「…………ね、純一。ほんとはね、私だってすごく好きだったよ。純一のこと。
 小さい頃からずっと一緒で、大人になったら純一と結婚するんだろうなって、当たり前みたいに思ってた。
 純一との子供の顔だって、何回も想像したよ。
 でも、今は違う。私の中ではもう、純一よりも、木田先輩の存在の方がずっと大きくなってる」
沙耶香はそこで、俺の方を振り向く。
その目からは涙が零れていた。
「ねぇ、純一……そこまで私が好きだったんなら、何でもっと早く、告白してくれなかったの?
 純一の告白がもっと早かったら、きっと、何もかも全部…………違ってたのに!!」
沙耶香の瞳は、俺に心底からの怒りを向けているように見えた。
ひどく悲しんでいるようにも見えた。
いずれにしても、沙耶香の顔を間近で見るのはこれが最後だ。俺はそう直感する。
「じゃあ、もう二度と近づかないでね、“ジュンチ”。……今までありがと。バイバイ」
沙耶香はそう言ってドアを閉める。
俺はその無機質な木の扉を、ただ呆然と眺めている事しかできなかった。
窓からの隙間風に、青春の終わりのようなものを感じた。



以来、沙耶香のツイッターには鍵が掛けられるようになった。
ツイッターの鍵は、限られた人間以外の閲覧を防ぐ非公開機能だ。
鍵のかかったツイートを見るには、こちらからリクエストを送り、それに対しての承認を得なければいけない。

恋が終わったことは理解していたが、呟きが見られないとなると、逆に気になって仕方がなくなる。
せめて見守るぐらいはさせてほしい。
小さい時からずっと一緒に育ってきた仲だ。気にするなといわれて、はいそうですかとはならない。
とはいえ、明らかに俺を警戒しての鍵なんだろうから、そのまま元のアカウントで申請をしても弾かれて終わりだ。
まずは、リクエストの申請者が俺だとバレないようにしないといけない。
俺は適当なニックネームで新しいアカウントを作成した。
プロフィールは適当に捏造し、なるべく面白いツイートをして、数週間でフォロワーを増やした。
そうして完全に俺と無関係そうな匿名アカウントを作り出し、満を持して沙耶香にリクエストを送る。
承認を待つ時間は、ひどく長く感じた。
その日の夜、ついに承認が来る。俺はマウスを持つ手を震わせながら、逸る気持ちでツイートを読み漁った。
そして、再び苦しむ事になる。

ツイートの内容は、より過激なプレイになっていた。
木田の主導で、様々なセックスを試している所だという。
朝までお互いイキ続けのポリネシアンセックス。そしてつい先日は、とうとうアナルにも手を出したらしい。
木田の上げているだろう動画を観に行くまでもなかった。
ツイートのごく短い文面だけで、心臓が破れそうに痛む。
このままではいけない。そう思った俺は、何とか傷を癒す方法を探した。

すでにバイトを始めていた友達から一時的に金を借り、ソープで沙耶香似の嬢を指名したのもそうだ。
プレイ前に断り、その嬢の事を沙耶香と呼ぶ許可を得る。
その上で、沙耶香の名前を呼びながら、人生初のセックスを貪った。
けれどもそれで得られたのは、満足じゃない。
「ずっと沙耶香って言ってたね。好きな子なの?」
プレイ後に嬢からそう問われた時、俺は喉を詰まらせた。
幼馴染か、好きな相手か。どっちで答えようか迷っているうちに、涙がボロボロと出てきて止まらなくなる。
「なになに、大丈夫?」
嬢は一応慰めてくれてたけど、内心気持ち悪がっているのが雰囲気で解った。
やっぱり俺にとっての沙耶香は、あの沙耶香以外のものじゃない。
3万という金を浪費した結果、それが痛いほど理解できた。

俺は色々な事に疲れ果て、沙耶香のフォローを外す。
この頃の俺はもう完全に泥沼だった。学校に行く気力もなく、ほとんど不登校状態だ。
そんな中、ウチの親から沙耶香が引越すらしいという話が出た。
木田の実家である中部地方に行くことにしたそうだ。
まだ高校生という事もあり、沙耶香の両親は反対したが、沙耶香が折れなかったらしい。
そのうち木田も家に来て、両親を根気強く説き伏せたんだそうだ。

引越しの当日、親は俺に見送りしないのかと尋ねた。
親にしてみれば、小さい頃からずっと遊んでた仲だ。不自然に思うだろう。
でも行ける訳がなく、俺は二階の部屋のブラインドから、遠ざかるトラックを眺めていた。
トラックが完全に見えなくなった後、ベッドに突っ伏して泣いた。泣きまくった。


俺はしばらく、完全に沙耶香を忘れようとした。
とりあえずバイトをはじめ、学校にもまた行きだした。
でも数ヶ月経つと、やっぱりどうしても気になり始める。
自分の意志の弱さを嘲笑いながら、俺は再度沙耶香宛てに申請を飛ばした。
それから二日後。
ツイッターに一通のダイレクトメールが届く。その送り主を見て、俺は目を剥いた。
木田だ。
『お前が純一って奴か。幼馴染だか知らんが、もうこれ以上沙耶香に付きまとうな。
 沙耶香は俺の彼女だ。あんましつこいと……潰すぞ』
動画の中の甘い感じとはまったく違う、ドスの効いた文言。
そしてそのダイレクトメールの直後、木田はある画像をタイムラインに載せた。
恐らくハワイらしき外国の海をバックに、体育会系の男達がずらりと並んでいる写真だ。
水着姿の女も数人居る。
写真中央に木田に抱かれるように映っているのは、日焼けした沙耶香のようだ。
ただ……雰囲気は随分と変わっていた。
髪は茶髪になり、目元も少しいじられている。小さくてほとんど見えないが、臍にピアスも開いているようだ。
そこにいたのはもう、地味で隠れファンの多かった沙耶香じゃなかった。

結局俺は、その後沙耶香の様子を見ることはできなくなった。
ただ国立に受かってから、サークルで仲良くなった奴に頼み、こっそりツイートを見せてもらった事ならある。
沙耶香は今、三児の母になっているらしい。
少なくともツイッターの上では、心から木田を愛し、幸せに暮らしているとある。
俺はその言葉を信じるしかない。

ブラインドから覗く沙耶香の部屋は、すべてがあの頃のまま、部屋の主だけを欠いて存在していた。



                              終
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上海夢中料理

※中華を喰らうだけ。


入社4年目にして、貧乏クジを引いたものだ。
得意先の会長である史沼氏との会食。
それは、中途退社の目安である3年目を乗り越えた社員への、洗礼の儀式である。
偉大なる俺の先輩方は、口を揃えてそう言った。
聞けば、史沼老人は某難関私大の出である事を誇りに思っており、同大学出身の者を贔屓するという。
そしてもし、会食の『犠牲者』が別の大学出身であった場合、史沼氏には苦言を呈される事となる。
態度が悪い、喋りがつまらない、食事のマナーが云々……。
それらのクレームを会社が受け止め、恩を売る形で『犠牲者』を萎縮させる。
そうしてこの会社は、某大学の出身者を中心として派閥を形成してきたのだそうだ。
大学を出たばかりの頃、俺はその話を信じなかった。
しかし、入社以来3人の『犠牲者』を見てきた今は、もはや信じざるを得ない。
まさか自分がその『犠牲者』になるとは思いもしなかったが。

史沼老人に連れられて中華料理屋に向かう最中も、俺の心は晴れなかった。
俺は件の大学などとは全く無縁の人間。暗黒の未来がすでに見えるというものだ。
そもそも、中華料理屋という時点で色々と勘繰ってしまう。
近年重要な市場である中国への理解度を試そうというのか。
俺が中華料理を食べる様を見て、マナーがなっていない、学習意欲に欠けるとこき下ろすつもりか。
そのような疑惑が頭の中を駆け巡る。

事実、席についてからも史沼老は快い反応を一切示さなかった。
俺の世間話は確かに大したものではなかったかもしれないが、それに対して返事もろくにしない。
ただ仏頂面でこちらを観察しているだけだ。
そうして場の空気が依然として硬いまま、届いた食事を摂る破目になった。
俺が頼んだのは“上海套餐”。
いくつかの上海料理が少量ずつ楽しめ、値段も手ごろというお得なセットだ。
史沼老が頼んだものに合わせたのだから、チョイスに文句を言われる筋合いはない。
となれば、後は食べ方だ。
史沼老は相も変わらず、今ひとつ読みづらい表情で静かにこちらを観察している。
馳走を前にしてその視線に晒される。
それは俺にとって、耐え難かった。
趣味の少ない俺だが、食に関する興味は強い。そこを侵されるのは、たとえ得意先の会長とて度し難い。
この怒りが俺を開き直らせた。
それまで続けていたおべんちゃらを放棄し、目の前の料理に専念する。
もはや相手の評価は考えない。悪くて元々、だ。



それなりに高級そうな中華料理店だけあり、セット料理はいかにも美味そうだった。
サラダに麻婆豆腐、シュウマイ2つ、若鳥の唐揚げ。それに白米とワカメスープ。
それらを一瞥した瞬間、俺の頭に直感が走る。
“白米が足りなくなる”、という危惧が。
セットの中で、白米を消費するのは麻婆豆腐、シュウマイ、唐揚げの三種。
シュウマイ2つの消費量はたかが知れているとしても、唐揚げが問題だ。
一瞥して美味いことが判別できる類の、衣も美しい大振りの唐揚げ……それが8個。
俺は、本当に美味いメインディッシュはどうしても白飯を添えて食いたい。
しかし、茶碗一杯の飯では明らかに足りなかった。
唐揚げに一口かぶりつくたび、チマチマと箸の先に白飯を乗せる、とやっても、唐揚げ分だけで飯が消える。
通常であればそれでもいいかもしれないが、問題は残る麻婆豆腐だ。
何しろこの麻婆豆腐、黒い。
赤い色をしているなら、唐辛子系の味として割と普通に食える。
しかし経験上、本場の黒い麻婆豆腐はヤバイ。花椒の舌にビリビリくる辛さは、白米なしには耐えられない。

「すみません、ご飯のお替りできますか」
俺は食事に入る前に、まずそれを店員に確認していた。
中国人らしき店員は、一瞬俺の言葉を頭の中で確認して首を振る。
メニューの白米欄を指し、ツイカ、と呟いた。
どうやらお替り自由ではなく、替わりが欲しければその都度ライスを頼む必要があるらしい。
しかし、背に腹は変えられない。たかだか200円、軽い傷だ。

俺は店員に、ライス追加の予定があり、今から10分ほど後にもう一椀持ってきて欲しい旨を伝えた。
10分後、さりげないが譲れない線だ。
俺の脳内では、すでに料理の攻略がシュミレートされ始めている。
シュウマイを軽く片し、肉厚大振りの極上唐揚げを堪能する時間が約10分。
そこで一杯目の白飯が空になり、すかさず追加の白飯で麻婆豆腐に挑む……これが理想。
あまり早く追加の飯が来て冷めるのはNG。かといって待たされるのも辛いものだ。
メインの一品ごとに、まだ熱い飯をガツガツといきたい。

ちなみに俺は、『三角食べ』が出来ない人間だ。
一品に手をつけると猪突猛進。付け合せの青野菜まで食い切り、皿を空にするまで他には目もくれない。
それが俺の培ってきた食事作法だ。今さら変えられないし、変える気もない。
史沼氏の評価は、いよいよ下がってしまうだろうが。


中華料理特有の長い箸を手に取り、いよいよ食事開始だ。
こちらを見つめる史沼老はとりあえず無視し、本能に身を委ねる。
俺の箸はまず、無意識に唐揚げを掴みあげた。
作法としては多分最悪だ。
和食の場合は汁物から手をつけるべきだし、消化吸収を考えるなら、前菜でもあるサラダから行くべきだ。
しかし、俺の腹は減りすぎていた。こうなっては、まず唐揚げ以外にはありえない。

澱みない動きで唐揚げを口へと運ぶ。
半ばほどへ歯を立てると、ジュリリ、と衣の割れる音が響いた。耳に心地良い。本当に良質な衣である時の音だ。
衣自体にほのかな醤油めいた風味がついているので、レモンも山椒塩も必要なさそうだ。
衣を愉しみながら、さらに肉の中へと噛み進めると……当然、肉汁が来る。
その瞬間、俺は見えないながらに確信した。この肉汁の色は、澄んだ黄色だと。
前歯の圧迫で飛沫き、舌の上へと広がる油。
尋常でない快感が、そそそそと細く脳を駆け上っていく。
美味い、これは美味い!
あまりの美味さに、舌の柔らかさが増していくのが解る。
味蕾はふつふつと歓喜し、新たな肉汁が伝うたび、舌の先がくるりと巻いてしまう。
極上の肉汁を逃がすまいという反応だろう。
衣には、ジュリ、ジュリと噛める絶妙な湿り具合の部分もあれば、サクサクとした香ばしい部分もちゃんとある。
この衣の多様さこそが本当に良い唐揚げの条件だと、俺は勝手に思っている。
勿論、肉自体も質が良い。
歯で噛むとサクリと抵抗無く切れる柔らかさ、臭みのない肉の味、そしてあふれ出す汁。
牛豚ならともかく、鶏肉にこれ以上の説明なんて必要ないだろう。最高だ。

1つ目の唐揚げを咀嚼しながら、白米をかき込む。
当初箸の先にちびちびと乗せて喰うはずだった計画は早くも崩れた。
箸先に乗るギリギリを掬い取ってがばりと喰らう。そうでないと肉の旨みとの調和が取れない。
噛みしめれば、たちまちコメの甘さが唐揚げの味わいを覆い尽くしていった。
飯ひとつを取っても丁寧な焚き方だ。この甘さからいって、たぶん釜炊きだろう。
改めて、細部まで拘った立派な料理屋だ。
白米が美味いのも誤算となり、唐揚げの消費と共に米もみるみる減っていく。
ここは計画を変更し、いくつかの唐揚げは単体で食すしかない。
コメの甘みと共に味わう機会が減るのは悲しいが、たまに肉本来の旨みを堪能するのも変化がついて良い。

そんな事を考えるうち、茶碗は完全に底を晒す。
唐揚げは残り2個。
うち1つを口に含み、付けあわせの野菜も口に放り込んで咀嚼する。
生野菜なぞ嫌いな俺だが、こうすればかろうじて食える。しかし、これを最後に持ってくるのは愚策だ。
唐揚げと併食してもなお残る野菜の青臭さを、残る1つの唐揚げで完全に払拭する。
白米も野菜も気にすることのない、純粋に味わえる肉の旨み。ある種金曜の夜に近い開放感がある。


ついに唐揚げの皿が空になり、膳の中にぽっかりとスペースが空く。
ここまででおよそ4分弱、美味だっただけあって計画より早く平らげてしまっている。
次の白米が来るまではやや猶予がある状態だ。
が、視界を巡らせると誤算に気付く。まだシュウマイもサラダも残っているのだ。
いずれも俺の中でのメインディッシュたり得ない。麻婆豆腐を堪能した後でこれを食べる状況は御免だった。

仕方なくサラダに手を伸ばす。青臭さを先に取り、シュウマイで口直しする作戦だ。
だが、思ったよりこのサラダは口当たりが軽かった。
上にかかっている中華ドレッシングのせいか、あるいは千切り大根の効果か。
いずれにせよあっさりとサラダを平らげ、シュウマイに移る。
こちらは、まぁ予想通り。肉汁充分、大きさもあって、ただ流石に若干冷めているのが残念だ。
とはいえ、俺の中でシュウマイは唐揚げより優先するものではないので、多少の劣化は仕方ない。
期待外れではないので上等だ。

と、ここでタイミング良く白米の2杯目が運ばれてくる。
となれば、いざ麻婆豆腐との対決だ。
ごろごろとした豆腐を真っ赤な唐辛子が縁取り、さらにそれを花椒が覆い隠している。
上に飾られた刻みネギが良いアクセントだ。
皿を手前に引き寄せた時点で、ツンと来る挑戦的な匂いが鼻腔を支配する。
しかし、臆するわけにはいかない。
添えられたレンゲで勢い良く豆腐を掬い、口に運ぶ。
レンゲから啜るように食せば、たちまち清涼感が頭をつき抜けた。
そこから後追いでラー油の辛さが舌を炙り、そしてあの舌のビリビリくる辛さが燃え上がる。
たまらず白飯を口に放り込んだ。
コメの甘みが、かろうじて麻婆豆腐の辛さを中和してくれる。
まだ湯気の立っている暖かい飯だと、余計に甘さが感じられて助かるものだ。
辛い、本当に辛い。
しかし……本格的な麻婆豆腐なのは疑う余地も無かった。
そして本格的な麻婆豆腐の悪い点は、非常に中毒性が高いことだ。
舌の痺れが、いつのまにか次なる快感を待ちわびる疼きへと変化している。
唾液が止まらず、自然と指が動いてしまう。

2口、3口、4口5口6口……。
豆腐の口当たりの良さも手伝い、中毒になったように次々と手が動く。
食べ進めるほどに、辛さにも慣れてしまうのが凄い。
飯も凄まじい勢いで減っていき、ちょうど麻婆豆腐との共倒れという形で空になった。

ふぅーと長い息を吐く。
痺れた舌を細い空気が通っていき、むず痒い。
額にびっしりと汗を掻いている中、視界は唯一残るワカメスープを捉えていた。
この辛さに対する口直しにはもってこいだ。
俺はやはりレンゲを使い、ワカメを掬い上げて口に含んだ。
痺れた舌へ湿布のように張り付かせ、スープを染み渡らせてから飲み込む。
とろりと蕩けたワカメが喉を通る感触は最高だ。
それを数度繰り返した後に、ほどよく冷めたスープを一気に飲み干す。
最後の最後でまた胡椒の味が多少したとはいえ、良い口直しだ。

また、息を吐く。今度はさっきよりも長く。
視界にはもう何も食い物は映らない。ただ白い皿と黒い茶碗が並んでいるばかりだ。
そして、ここで初めて俺は気がついた。
正面にいる史沼老が、呆けた様な表情でこちらを凝視している事に。
さすがに無視が過ぎただろうか。反応が悪くとも、もっと丁寧に接待するべきだったかもしれない。
これは最悪、左遷もありうるかもな。
俺は食後の心地良い気だるさに包まれながら、ぼんやりそう考えていた。



数日後。
史沼氏の俺に関する評価が、噂通り会社経由で伝えられた。
それを聞かされた俺は、なにやら妙な気持ちが今も抜けずにいる。
だって、仕方ないだろう。

『じつに素晴らしい喰いっぷりだった』

毒舌で知られるあの史沼氏が、ただ一言、そう伝えたきりだったというんだから。



                     終わり
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仮初の異国

※またしてもメシを喰らうだけのお話。


私は趣味を問われれば、登山だと答える。
しかし、一般的にイメージされるようなアクティブなものではない。
ごく低い山の中腹まで歩き、森林浴を愉しむ程度。
最近はお気に入りのロッジもある。

そのロッジは、私のようなにわか登山者の溜まり場だった。
食事の提供はあるが、材料は客持ちなのが特徴的だ。
訪れた人間達が何かしらの具材を持ち寄り、ロッジの主がそれを調理して場の人間に振舞う。
どのような具材が入るのか解らないため、闇鍋のような楽しさがある。
とはいえ、幾度も痛い目を見た常連ほど、保守に走ってしまいがちなのだが。
私は今週末もそのロッジへと足を向ける。弘前の友人が送ってくれたイカを携えて。
私もまた、無難な方に走ってしまう常連の1人だった。




扉を開けると、途端にカレーの匂いが鼻をつく。
このロッジでカレーが作られることは多い。
たとえどれほどバランスの悪い具材が揃っても、カレールゥを溶かしたスープにぶち込みさえすれば、
最低でも『カレーもどき』になるからだ。
ただ、カレーとて万能ではない。山で食うカレーは美味いが、ビールの相方としては不十分だ。
「おう、待ってたぜ!」
「遅かったな。何ぞ新しいツマミでもくれやァ」
顔なじみ達が私を振り仰ぎ、口々に言う。
彼らの前にあるテーブルには、宴の残滓があった。
くい散らかされ、欠片しか残っていないチーズ。ルゥのこびりついた皿。焼き鳥の串……。
私がクーラーボックスからイカを取り出すと、その倦怠感溢れる空気が一新される。
「おお、良いモン持って来やがって!」
「イカだ、イカ!!」
赤ら顔の親父達が騒ぎはじめる中、私はイカをロッジの主に手渡した。
無口で無愛想な主は、しかしかすかに笑みを見せたような気がする。
ロッジで供される料理は、一切の金を取らない代わりに、彼の賄いも兼ねているのだ。



持参したイカが調理されている間に、私は奥まった席に腰を下ろした。
目の前に皿と、いくつか氷の入ったコップ、そしてビール瓶が回されてくる。
ビールの種類は『ビア・ラオ』、俗に言うラオスビールだ。
ロッジ主の趣味なのか、小屋内にはこれとスーパードライしか常備されていない。
私はビア・ラオの栓を開け、コップへと注いだ。
常温で放置されたビールを、氷入りのコップに注ぐ。この原産地ラオスに則った飲み方にも、ずいぶん馴染んだものだ。
たっぷりの泡を壊さないよう気をつけて注ぐ。
そしてその後、乾いた喉へと一気に流し込む。
えもいわれぬ爽やかさが私の中を通り抜けた。キンキンに冷えている訳ではないのに、十分に涼やかだ。
口当たりが軽いビア・ラオの特性がまた良い。
甘い泡に続き、すっきりとした苦味が食欲をそそる。

途端に腹の根が鳴りはじめ、私はツマミを探した。
とはいえ、やはりめぼしい物はない。
楕円形の陶器皿に盛られた、ルゥばかりのカレー。
その横には深さのあるガラス皿があり、その中に沢山のシジミが入っていた。
それぞれ塩味と唐辛子で味付けしてある。『ビア・ラオ』と同じく、東南アジアで見られる小料理だ。
これが山のように残っている理由はハッキリしている。喰いづらいのだ。
僅かな中身を食べるために、いちいち殻を歯で割って取り出さなければならない。
それは面倒で、よほど腹が減っている時ぐらいしかやらない。
 
私は仕方なくシジミに手を出した。
唐辛子の塗されたひとつを口に放り込み、奥歯で殻を割る。
そして舌で殻を口の外に追いやりながら、中の身を咀嚼する。
運よくスムーズにいった。悪い時だと殻が細かく砕け、吐き出すのに苦労する。
しかし苦労の甲斐あり、この唐辛子で味付けされたシジミはビールに非常によく合う。
特に『ビア・ラオ』のような軽い口当たりのビールとは相性が絶妙だ。
その美味さが空き腹に染み渡り、面倒さを乗り越えて次のひとつへと私を突き動かす。
次は塩のかかったひとつ。
魚介類の塩との相性は反則的だと、私は常々思っている。
濃厚な磯の香りを漂わせながら、塩を塗されて荒々しく煎られたこの小さな貝もそうだ。
高級料理などでは断じてない。それでいながら、舌の上を満たすこの美味さは何事なのだ。
これが世界有数の料理でない事が信じられない。
僅か数秒でありながら、私の味蕾と脳はそのような至福に彩られた。

貝をこじ開ける作業に飽きれば、小皿に取り分けたカレーを匙で掬って舐める。
冷めた事で、ほどよく香辛料の馴染んだ家庭的なカレーだ。
中にはカレーにはあまり見られない具材もあるが、特別に味の邪魔をしているわけでもない。
これを供に酒を呑み続けるのはつらいが、一品料理としてならけして悪くない。
風味付けにセロリなぞへかけて喰らうのも、また一興だ。
そうこうして時間を潰している間に、キッチンの方からいい匂いが漂ってくる。
イカの炙られる、香ばしいあれだ。
多少腹ごしらえをしているとはいえ、再度私の腹が鳴り始めた。



やがて、待ち焦がれたものが大皿に乗ってやってくる。場に歓喜の叫びが湧いた。
湯気の立つそれを小皿に移し、早速一口喰らう。
美味い。期待にしっかりと応える、新鮮なゲソの香ばしさ。
私は思わず頬を緩めた。
ゲソの細切りにはモヤシが合わされ、そのモヤシに巻きつくような葉は、高菜だろうか。そしてそれらを、唐辛子がピシリと引き締めている。
庶民的な具材ばかりながら、風味は充分だ。この飾らない味わいが、また淡白なビールとよく合う。
夢中で食べるうちにあっという間に皿は空になり、そこにはダシの色をしたスープが残った。
皿を傾けてそれを啜れば、塩コショウの香りが私の鼻腔を通り抜けた。
一拍遅れてダシの風味が口に広がる。
なるほど、イカのエキスが染み出したダシそのものも良い。

私は二皿目のゲソ炒めを上機嫌につまみながら、場の男たちとビールを酌み交わす。
泡を壊さないようにだけ注意し、次々にコップへ注いで。
ゲソ炒めに飽きれば、冷えてやや固くなったまろやかなカレーを喰らう。
それにも飽きればシジミの中身を穿り返し、そのうちやがてゲソ炒めが恋しくなる。
至福の時間だ。
私は異国情緒のある海の幸を堪能しながら、ただただ幸せに酔っていった。

週明けにはまた多忙な日々が待っているだろう。
だが今だけは、急ぐ事はない。


                             終
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